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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森 58号

2008-04-11 | 創刊~100号

       ■こならの森58号■1993.2

C・o・n・t・e・n・t・s

表紙 「ランカスター田園風景」

3p… 結婚しました 岩上さん夫妻
4p…カラムコラム・街角の肖像
5…きれい瞬間・圭吾の歳時記
6…ミステリーワールド
7p…銀幕画廊
8p-11pインタビュー
12-23p特集ランカスター
24-26p…情報
27…書評・絵本紹介
28-29…文化会館情報
30こならの森から~
31…協賛店MAP

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【本文抜粋記事】


特集 佐野市姉妹都市「ランカスター」について

 ペンシルヴァニアという名前は、「ペンの森」という意味だそうで、なんとなくこならの森としても親しみが持てそうな名前です(実はペンシル(えんぴつ)・バニアだとばっかり思っていたが………)。そんなことから今回の企画が発案されたとかないとか。
 佐野市が市政50周年に際し親善都市協定を結ぼうとしている米国ペンシルバニア州のランカスター市っていったいどんな町なのかな。 今年の7月30日には、佐野市へランカスター市の市長が来日の予定という。こならの森では一足お先に親善都市ランカスター市の素顔を追って見ました。
 もちろん企画にあたって直にランカスター市まで取材に行ければ一番いいのですが、そんなことが出来るはずがない、ということは賢明なる読者氏ならお解りのことでありましょう。ここはひとつ関連ある話を総合し、また実際にランカスター市を訪れた人の話などをまとめながら、(これが本当の意味での市民レベルの国際化、国際交流になるのかどうかはさだかではありませんが)お友達の町として、どういった町なのか分かっていただければいいと思います。
■ペンシルバニア■
 英国人でクウェーカー教徒のウイリアム・ペンが1682年に建設した。ペンは中央と、四辺に広場を設けるといった今でいう都市計画を実施した。「敷地の真ん中に家を建てよう、そうすれば緑の園となる。」といったペンの言葉どおりの町づくりが施された。そこから、州の名前もペンの森という意味でペンシルバニアとなった。ちなみに、州内一番の都市フィラデルフィアとはギリシャ語で兄弟愛を意味するとか。
■ランカスター市の概要■
 アメリカ北東部のペンシルバニア州は、なだらかな山脈が州の北東部から南西にかけ走っている。南東部には、豊かな農業地帯が広がる地域。州内六七郡のうちのひとつ。ワシントンから179キロ、ニューヨークから253キロ。ランカスター郡内全体での面積は2470 人口42万人、ランカスター市だけで5万5千人。1792年に入植が始まり、アメリカ開拓史上重要な役割を演じた。馬車と鉄の産地で有名。
 ランカスター郡全体の主な産業は、金属製造、印刷出版、食料品、衣服など。業種別人口は、卸売業4万7千人、サービス業3万5千人、公務員1万5千人。農業では、総生産高822百万ドルうち、酪農220百万ドル、牛197百万ドル、卵118百万ドルとなっている。(ランカスター市のみにかぎった数字は不明)

■DUTCH COUNTEY(ダッチカントリー)
アミッシュの人々の暮らし。
 ダッチ・カントリーはランカスターを中心とした一帯のことをさします。ニューヨークから車で三時間。飛行機ならフィラデルフィアまで四十五分。とうもろこしや、たばこなどが産物。 彼らは「この世の全ての知恵は神にとって愚かなものである」という聖書の言葉を実践するプロテスタントの一宗派で全米に六万人ほどいます。もともとはドイツ、ライン川流域に暮らしていた人々が祖先となっており、ダッチはドイツという意味。スペースシャトルに代表される米国の宇宙技術とはうらはらに、同じ国でありながらも、映画の一シーンと変わらない、十八世紀さながらの生活を続けています。車はもちろん電気や、電化製品を拒否しています。ですから表紙の写真でもお分かりのように、人家の回りには電柱といったものがありません。



こならの森 57号

2008-04-11 | 創刊~100号

       ■こならの森57号■1993.1発行

表紙 「田沼町イルミネーション」

C・o・n・t・e・n・t・s

3p… 結婚しました=赤坂さん夫妻
4p…7p 特集「埋蔵金」
8p-17p…夢構想93
18p=19 インタビュー「佐野短大 沼尻学長」
20p…カラムコラム・街角の肖像
21p…きれい瞬間・圭吾の歳時記
22…ミステリーワールド
23…銀幕画廊 第1回
24-25p…情報
26…書評・絵本紹介
27-29…文化会館情報
30こならの森から~
31…協賛店MAP
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【本文抜粋記事】

特集「徳川埋蔵金」

■熊鷹山
 何というとてつもない推論を掲げてしまったのだろう。「宝は意外な所に」といっても、あまりにも意外や意外、事もあろうか標高1000メートルもある山に徳川の御用金が眠っているとは………。
 しかしながら、地図上の推測ではそれ以外に考えられないし、否定するだけの根拠も見つけにくい。
 だが、もう一年も前になってしまうが、庚申山にいってみ ての感想も、ここまで@本命 @を運んで来なければいけない理由はいったい何だったのかということだっだ。そんな思いを胸に、また関東地区の地図を広げてみた(皆さんも、関東の地図をお持ちなら実際に検証して頂きたい)。
   
 前回の特集(No.55号)では、熊鷹山が怪しいの根拠として江戸から庚申塚町、田沼の庚申山の延長線に熊鷹山があるとしたが、もう一本重要な導線を忘れていた。すなわち、江戸から日光への直線だった。
 まず、江戸城から、男体山めがけて一直線に線を引いてみる。関東地区の地図では、あまりに細か過ぎてどこがどうと限定できないので、別の詳しい地図上にその延長線を描いてみた、誤差は仕方がないと思った。しかし、その延長線の軌跡を目で追って行った取材班は、以外な新事実を発見するのだった。
 なんとある山の山頂にある神社の鳥居のマークの上を偶然にもぴったりと通っていたのだった。さあ、地図を片手にその場所を検証されたし。そして、その山の前に立って見るべし。そすれば、すべてのなぞが誰の目にもはっきりと分かるに違いない。
 その山は富士山の形そっくりの山なのだ。
 本物の富士山、男体富士、そして富士の形をした山。この三つを結ぶもの、宝(本命)はやはりここといえる。

■埋蔵金の絞り込み
埋蔵金には、本命、不明・もしくは今のところ不確定。
      
 本命を掘り出す資金を得るため、埋蔵金。そして、ダミー。その3つが存在すると思う。それを順に追って検証してみたい。
1 足尾の庚申山
埋蔵を思い立ったのは、伊井直弼であり、担当したのは林鶴梁(はやし・かくりょう)
と後の勘定奉行・小栗上野介(おぐり・こうずけのすけ)である。その部下が勘定吟味役・中島蔵人(なかじま・くらんど)で、義理の息子が水野知義(みずの・ともよし)だという。
 知義は地図、方位、「一将ヲ得レバ七臣ニ達シ七臣ニ達スレバ天下平也」と書かれた三枚の銅版を見つけている。
 また、「一将ヲ得レバ七臣ニ達シ七臣ニ達スレバ天下平也」による七と、十干の七番目の「庚」という字、また暦の七番目が「庚申」であることから、庚申山を導きだしている。

■安佐の庚申塔と庚申信仰
 佐野市内には庚申塔が三〇〇ぐらいあるが、田沼町では三五〇〇基にも達し、安佐地区全体では五〇〇〇基近くに達するのではないだろうか。この全国でもまれな数の庚申塔、そして庚申信仰と、庚申山とのつながりは何かを暗示してはいないだろうか。
 ご存じの方もいると思うが、埋蔵金は八門遁甲という、兵法に基づいて埋蔵された。赤城でもこれが問題となったが、「多くのダミーを作って盗掘者?を惑わす」とあるそうだ。そのダミーが実は赤城山そのものだという。
 八門遁甲は、天・地・人をキーワードとして使うという。
 一説によると天は徳川家康=男体山、人は盗掘人が集まる赤城山そして、地とは男体山と赤城山を直線で結んだ線上の中間点で埋蔵金のある庚申山という。
2 田沼・閑馬にある庚申山
「庚申」というものにまどわされて、庚申信仰の総本山足尾の庚申山へいってしまったが、実はそこではなく、閑馬にある庚申山(こうしんやま)こそが、本命だ。
 赤城は囮で、赤城と日光男体山のちょうど中間地点に位置する庚申山が宝の埋蔵場所だとも思えるが、現地に行った感想は、どう考えてもこんな山奥まで宝を運んでくるとは考えにくい。 その結果、庚申信仰を拠点とした推理から察すると、閑馬の庚申山が怪しい。
3 田沼の金原地区、その山林(まだ未調査)。これからに期待する。
4 栗木内庚申搭群のある小高い山(栗とは小栗上野介の栗、木とはつまり金、内はこの中という意味だろうか)。
実際に伊井直弼はこの地点をつぶさに視察しているし、この近辺には、目印になるかのようなピラミッドを思わせる山が庚申山を結んで両脇にそびえ立っているのも奇妙だ。
 小栗上野介が東照宮を栗山村の角門へ移したという事実を示す資料がある。しかしながらそれが示す小栗家と言う文字が、小栗上野介を指し示すかについては不明だ。 だが、小栗上野介の「栗」と栗山村の「栗」そして、田沼の閑馬の栗木内庚申搭群の「栗」この三つは無関係ではだいだろう。
■資料編
 赤城は河川と交通路を上っていけ、地形の利点がある。また、地質てきにも火山灰で粘り気があり埋蔵に適している。
 上州にはたくさんの目撃談が残されている。宝360万両は四畳半くらいの大きさになる。
 元警察署長三枝茂三郎は、赤城山西麓を30年間も掘り続け、庚申塚の林立する百庚申のそばで、「『この山の中を訪ねよ』と刻まれた石を発見している。」
■キーワードとしては……
「鳳凰は北へ飛んだ」
「不動のものに気をつけろ」
「すでにあるものを利用する」「江戸から東北、北東は鬼門にあたる」「徳川にとって東北は弱かった」「西南の方角は良かったものが悪くなる」




●参考資料
■安佐近辺に残る埋蔵金伝説
 [ 出流原町の埋蔵金伝説 ]
 佐野市史によると、出流原町のあたりには古くから埋蔵金伝説が残っているというのだ。
「朝日さす夕日輝く木の下に うるし千ばい 黄金億々」というような宝のありかをよんだ歌も残っているという。また、この地の領主井伊掃部守の乗馬が、後山にまぎれこんだとき、ひずめに朱をつけて帰ったのでこれを手掛かりに宝探しをしたという話が伝わる。
 近年、研究家が黄金を埋蔵したと思われる石のカラトを発見、これをあけようとしたが、村人の反対で開けることが出来なかったという話も古老から聞き出すころが出来たということだ。
 また、黄金埋蔵の井戸という伝説も残っているそうだ。
 ………この地方には、「黄金千ばい 朱千ばい 砥石で組んだ井戸がある」という、これをさがすのには、雪が降った時、雪の積もらない所を掘ればいいといわれている。
 ある時、この話を信じた里人が、試掘したところ何もなかったという………。
■皆川城埋蔵金(詳細はこならの森のNo.38号参照)
 皆川城の埋蔵金伝説によれば、宝の隠し場所は雪が降った後最初に雪が解ける場所だという。
 そこで、編集部は今まであまりみたことのなかった猿田彦を祭る石塔を発見するにいたった。そればかりか、亀の頭を表すかのような庚申塔も発見した。その指し示す方向はその小高い山の山頂地点だった。ここが、最重要地点だと思う。試しに山頂までいってみた。それは亀の頭を思い起こさせるような切り立ったものだった。言い換えれば、山全体が作為的に作られたような気がしてくる。何か不自然なのだ。この直感は外れているのだろうか。
■もう一つのポイント
 「何故東照宮なのか」
 また、東照宮にもスポットをあてて見ることにもした。
 それは紛れもなく東照宮イコール徳川家康であるからだ。そして、佐野の東照宮が東を向いて立っていること、小栗上野介の領地であり、その霊を祭るという高橋町の雀神社が同じく東向きであることから、その方向に視点を向けて見た。
 全国各地に散らばる五〇〇社ともいわれる東照宮の分布をみると、さすがに赤城山や榛名山にはたくさんの東照宮がちらばる。これだけをとっても、宝が埋まっていることを裏付けられないわけではないかなと思えてしまうほどだ。
家康は宇宙神の化現
 家康の遺言
 「遺体を久能山に納め、葬礼を増上寺(江戸)に申し付け、いはいを三河の大樹寺に立てて、一周忌を過ぎて後に日光山に小さき堂をたて勧請せよ、関八州の鎮守とならん」
 また、日光東照宮の文庫長が東照宮創建に対する新説を90年5月13日付けの朝日新聞に発表している。
 その記事によると、生前一度も家康は日光を訪れていないというが、この辺のことを進言したのは、時のブレーンだった、天海だという。
 家康生誕の地岡崎、そしてそのさらに西には京都(家康の本地仏とされる鳳来寺)があり、この線を東に移動して行くと久能山に行き着き、この三点が一直線に並ぶ。これは単なる偶然ではない。
 古代遺跡などの配列から考えられる「太陽の道」にヒントをえて、太陽が東に昇るように、家康が神として再生するために、東に葬らなければならなかった。そこで、久能山が選ばれたというのだ。
 また、久能山-富士山-世良田(徳川家発祥の地)も一直線にならび、その延長線上には日光が位置する。久能山でお参りすることは、その背後に控える霊峰・富士(不死)山を参拝し、またそのさらに奥にある日光までも参拝することになるというのだ。
 また日光は江戸からみて真北にもあたる、そういった立地条件にあるからこそ東照宮がその地に選ばれたと言うことだ。そして、さらに驚いたことには、久能山東照宮の本殿は南南西の方を向いているというのだ。位置ばかりでなく、社殿の方向まで日光を意識している。また、地図上でもぴったりと一致する。これは、壮大な意味付けがなされている結果に他ならない。


こならの森 56号

2008-04-11 | 創刊~100号
       ■こならの森56号■1992.12発行

表紙 「秋山川=水道橋」

C・o・n・t・e・n・t・s

3p… 結婚しました 真家さん夫妻
4p-19p…まちづくり最後の提案
20p…カラムコラム・街角の肖像
21p…きれい瞬間・圭吾の歳時記
22…ミステリーワールド
23…モータースポーツ
24-26p…情報
27…書評・絵本紹介
28-29p…文化会館情報
30こならの森から~
31…協賛店MAP

【本文抜粋記事】


まちづくり最後の提案

夢構想 第1回

司会 このシンポジュームを実りある形で進めていきたいと思いますがここでお話しして頂くことは、あくまで個人の夢の意見であって、団体の代表としての見解ではないということを最初にお断りしておきます。
 それでは、最初に太田様お願い致します。

■佐野  

両毛五市構想というのは復活、ルネッサンスだ。

■佐野商工会議所 青年経営者懇談会 会長 太田哲夫さん
 地元代表ということでトップバッターのご指名を頂いております。 佐野市は来年市政五〇周年を迎えます。改めて五一年に向かっての町づくりをどうするのか行政サイドだけでなく市民のみなさんも真剣に取り組むべきときだと思っています。
 先日佐野へ日本新党の寺沢良男さんと出雲市の岩国市長さんがおみえになりました。お二人は、「中央集権の枠組により地域が発展したが、逆に言えば中央集権が地方の自立や活性化を阻害している。国民はもっと豊かな生活や、ゆとりを持つためにこうした面を改革して行かなければいけない」。また「国が変わらないならば地方から変わって行く、そう地方行政に当たるべきだ」とも言っておりました。そんなことから、これからの地方での町づくりは大事な道を選択しなければいけないと感じます。 私共、青年経営者懇談会も「みんなで未来の夢を語ろう」をサブタイルとして「残すべきもの、創るべきもの」と表現しています。ものといっても固形のものを意味している訳ではありませんで、心とか文化、情報の問題等が含まれると思います。そして来年三月にはシンポジュームを計画しています。主旨としては環境保護の高まりやゆとりのある生活、歴史文化を見直すこと。ミニ東京化でない個性的な暮らしやすいまち、そういったことを具体的に手探りしながら、佐野の個性、まちのアイデンティティというものをきっちりと追求していきたい。そして、それをベースにして街のビジョンを持うじゃないか、ということで進めています。 佐野は県内外から厄除大師やラーメンなどに大変多くのお客さんが来て頂いています。これはやはり手づくりの味わいや、何か心に触れるものがあるのではないかと、ある方から聞きました。佐野はその他にも地酒、雛人形、天命鋳物とか繊維関係の手仕事が脈々と受け継がれ、これが大事な資産だと思います。しかし、うっかりしているとそういう地方の良さが、首都圏の拡大と東京文化の流入によってなくなってしまう危険性がある。だから大事な所はしっかり守って行かなければいけない。
 当会は会員が百名近く、もっかのところ総務・経営研究・地域開発・情報ネットワークの四つの委員会に分かれ、各委員会ごとにテーマを絞り込んでいます。
 総務委員会は、祭りを切り口にしています。祭りはそのまちの個性や文化、経済力を反映するものである、そういったことから祭りの歴史を追いながら佐野のスピリットや今後の方向を探って行こうと試みています。
 経営研究委員会は地域の工芸品とか商工業を切り口に「創るもの、残すもの」という観点で研究をしています。
 地域開発委員会は、新都市整備開発と既存の街のかかわりについて研究する。この新都市整備計画は、国土庁の地域振興整備公団事業の前段階で、佐野のインター付近一五〇ヘクタールに及ぶ大規模な開発計画です。これは創るべきものに入ると思います。一方で、旧市街地は歴史と伝統に根差した町並みが残っていますから、いい意味で残すべきものだと思います。けれどもリフレッシュを図らなければならない面もある。暮らしの面からも新都市計画との関連を探って行きたいと考えます。 最後に情報ネットワーク委員会なんですが、これはテーマというより手法かも知れません。佐野市の新旧の写真あるいは8ミリ映像などを集め佐野の変遷をたどっていく。失ったものも多いかも知れませんが、ちゃんと残って輝いているものもあるでしょうし、創るべきものの方向性も探れると期待しております。
 以上四委員会の活動ですが、まだ作業中であり活動を報告するという形で町づくりの基本となる考え方を述べました。来年の三月にはシンポジュームという形で一般公開したいと思います。
 これからは地方の時代だ、北関東横断道路ができれば発展する、水と緑に恵まれている、道がいい、とスローガン的に掲げていただけでは良い町にはならない。開発と自然環境をどうやって調和させていくのか、どこの水と緑を残すのか、また大事にするのか、そういったことも具体的にしなくてはいけないと思います。
 佐野は立地が良いといいますが、道路交通の面は良しとしても、鉄道ではJRも私鉄も支線でどちらの駅も遠くへ出る場合乗り換えで、あまり恵まれていないと思います。県庁からも遠いですね。
 佐野市の南部は群馬県の館林、板倉町に接しており、行政の区割りですと南部が空白地帯になっています。加えて渡良瀬川で分けられていますから群馬県側へのアクセスは非常に悪く、板倉町などへは直接いけません。情報やビジネスも、中央統制の区割りに沿った営業なり展開にされています。一般市民のレベルではなかなか群馬県側の情報は入って来ないと思います。これが仮に同一の広域都市として形成されたり、同一の市ということになりますと情報や人々の交流がもっと盛んになると思います。
 私の子どもころの印象では、この両毛地区は繊維産業が盛んでそれを中心にもっと一体感があったのではないかと思います。江戸時代から、八木節音頭などは両毛地区一帯で歌われていたと思いますし、冬になりますといまだに両毛一帯にからっ風は吹き荒れます。それは健在なのですが……。
 ですから、この両毛五市構想というのは私からしてみれば復活というか、ルネッサンスだと思っています。今まで行政の中で分断されていたものが復活するチャンスであり、必然的にたどる道なのだと思っています。
 幸い両毛広域都市構想が国の総合開発事業として調査対象区域に指定されましたので我々民間レベルの交流をいっそう高めて、一歩も二歩前進していくことが必要かと考えます。この構想が具体化し、若い人もお年寄りも住み良い町、またそういう動きがあるだけでも若い人はどんどんUターンしてくる、あわよくば他の出身の若い人も両毛地区に集まって来る、そのくらい頑張っていく必要がある。そんなことを思いながら、具体的な提言にはいたりませんでしたが、両毛五市の夢の発表を終わられて頂きたいと思います。


こならの森 55号

2008-04-11 | 創刊~100号
       ■こならの森55号■1992.10発行


C・o・n・t・e・n・t・s

3p… 結婚しました=山口さん夫妻
4p…カラムコラム・街角の肖像
4p…モータースポーツ
5p…-きれい瞬間
6-11p…特集「埋蔵金」
12-19p…ミニ特集「大口さん」靖国問題
20p…オープン情報
21…書評・絵本紹介
22-27…情報
28p ミステリーワールド
29 ピープル
30こならの森から~
31…協賛店MAP


【本文抜粋記事】

■緊急特集 徳川埋蔵金■

■埋蔵金は必ずある。
 最近、埋蔵金は、必ずあるという資料を手に入れたのでまずご紹介したい。詳しい数字は載っていなかったが、過去における日本での金の産出量と輸出入、そして現在の総量を計算するとどうしてもつじつまが合わず、多くは地下に眠っているというものだった。
 また、徳川の御用金の埋蔵場所は一か所ではなく、本命の他に、それを掘り出すための御用金が数箇所に分けられて埋蔵されているという。群馬県の猿ガ京で御用金一〇万両が紛失したという事件があり、それをもとに発掘を敢行したグループもあったが、これなどまさしく分割して埋蔵された御用金の一部であろう。
 そうすると、仮に三六〇万両まで行かなくても、一〇万両くらい(元禄大判一枚が六五〇〇円として6億5千万円)の可能性は大となる。だから安佐地区で今まで調査して来た地点、栗木内庚申塔群、田沼の庚申山などは非常にくさい。ただ、八門遁甲の軍学によれば、囮も多いということで、さらなる調査と実証がほしいところ。だがここで問題なのは、ではいったい@本命@はどこに埋まっているのかということだ。

■やっぱり囮だった、赤城山
 TBSの製作側は「結局あれだけやったんだからもういいだろう」と思っているのだろうが、出もしないのに出るまでやると言っておきながら、結果的には「番組が終わるまでやる」だった。そのことに腹を立てているこならの森愛読者の声も聞く。あんなにいいかげんなことではいけない、と取材班は、思った。だから勢い「こならの森は最後までやりますよ」とある愛読者に言ってしまった。
 そんないきさつもあり、緊急に編集に入ったので、まだまだ不十分な点も多いと思う。また調査隊長の中島氏は十一月にかねてからうわさのあったKさんと挙式ということで、取材活動に参加できずだった。また、別のこならの森愛読者Tさんも調査隊への参加を希望するなどこの辺の動きも騒がしくなって来たように思う。
 久能山への取材で分かったことだが、調査費だけても今までにないほど巨額の費用がかかってしまった。久能山後は、もうこの企画そのものをやめてしまおうと、領収書の山を目の前にして思ったものだ。しかし、火付け役ともいえたあのギミアぶれいくが発掘をやめてしまった以上こちら側としても引くに引けない。それも、全くその気配や関連性がないという土地柄なら諦めもするが、調査して行けば行くほど確信が深まっていくのだから始末に終えない。今までの企画を全てお読みの読者ならお解りのことと思うが、その後放映された他局の内容よりこならの森が調査して来た事項の方が確信がもてるのは事実だろう。
 また、隊長の中島氏が新説として編集部へ電話して来た内容によると、幕末期に前橋にあった城を小栗上野介が修復したという記録があるそうだ。そして、あくまで官軍と戦うという幕府の強行論者の考えでは、箱根での戦いに敗れたら江戸を捨て利根川や赤城など自然地形を利用した天然の要塞ともいえる上州へたてこもり、さらには福島県方面へ撤退をしながら、徹底抗戦を続ける計画だったという。そのために撤退の経路である赤城や庚申山、といったところに御用金を埋蔵したのだという。初回にも触れたが、赤城-庚申山-日光は一直線上につながっている。これからもその入り口である、赤城が囮であることは間違いない。だがこならの森編集部発掘調査隊が考えていることは、それよりももっと江戸に近い地点の、この安佐にあるのだということだ。

■久能山での収穫は、以外や以外『熊鷹山があやしい』だった。
 久能山へ行ってみての感想は、もともとが城跡であり、反対側は海であることから、発掘調査隊のメンバーの一人である、松本隆祐氏が考える埋蔵金の説、つまり「小栗上野介が海外へ持ち出したのだ。」を考えると、海外まで行かずにこの久能山へ運び込んだのではないだろうかとも思えてくる。
 八門遁甲に精通していた幕府の最高顧問・天海がその軍学を使って、久能山-富士山-世良田-日光という線を導きだした(こならの森51号参照)。
 さて、そこで熊鷹山と久能山との関係だが、これを説明する前に関東地区の地図を用意していただきたいと思う。そして、地図上に久能山から日光東照宮まで線を引く。すると、本当に富士山、世良田、日光が一直線上に並ぶ、だが日光の手前を見ると、何と熊鷹山もその直線上にぴったりと一致する。そればかりではない、熊鷹山を起点に男体山、赤城山に線を引くと二等辺三角形が現れる。そして、熊鷹山から三角形の長辺に向かって垂直に線を延長して行くと、そこに現れるのはあの足尾の庚申山なのだ。熊鷹山は赤城か真東の方角。さらに、前回話題となった佐野市の庚申塚町と田沼の庚申山を結んだ線を延長して行くと、これまたぴったりと熊鷹山に行き着くのだ。蛇足ながらさらに延長すると、白根山にぶつかる。この白根山も霊峰と聞く、何か関係があることは間違いない。
 熊鷹山の北西に白根山がある、ではその逆に南東に延長して行くと行き着く先はどこなのだろうか。熊鷹山↓田沼・庚申山↓佐野市・庚申塚町と延長してその先に目を落としたとき、久能山行きを決意した。なんとその先は江戸城ではなないか。偶然と言えばそれまでだが偶然にしては、あまりにも一致し過ぎる。それに赤城↓庚申↓男体ルートの男体、庚申のちょうど真ん中を、白根-熊鷹-江戸ルートが横切っている。赤城から熊鷹山は真東だが、世良田から庚申塚町もまた真東なのだ。そして、世良田=庚申塚町=熊鷹山はほぼ正三角形を形成している。

■七不思議の怪
 名前から受ける熊鷹山の印象が、熊が住み、鷹が生息している秘境だと取れる。しかし、状況説明はともかく、地名や山の名称にこんな名前をつけるものなのだろうか………。
 大平山には七不思議と言われる言い伝えがあり、近くに埋蔵金が眠っていると考えられ、研究している人がいるという。その人の説によると、これは人々をこわがらせて、寄せ付けなくするためだといい、各地のこうした伝説の裏には必ず埋蔵金の臭いがあるのだという。その観点からすると、この熊鷹というのも、鳥類の最高峰と猛獣類の(日本での)最高を掛け合わせたものと考えられなくもない。そうでなくても山岳なのに、こうした名前なのは人を寄せ付けたくはなかった何かがあったに違いない。
 初回にも書いたが、安佐から熊鷹山を通り足尾の銅山へ抜ける道というのは当時から確立されていたし、その地図も残されている。
※今回は重大な発見があったにもかかわらず、紙面の都合と取材の不備でその全貌が詳しくお伝えできなかったことをお詫び致します。



こならの森 54号

2008-04-11 | 創刊~100号
       ■こならの森54号■1992.10

表紙 「三毳山定点=秋」

C・o・n・t・e・n・t・s

3… 結婚=大沢さん夫妻
4…6 秋だからみかもやま
7p ピープル
8-17p「読書の秋」
18…カラムコラム・街角の肖像
19… ミステリーワールド
20…モータースポーツ
21…-きれい瞬間・圭吾の歳時記
22-25…情報
26 大口さんへの質問
27…書評・絵本紹介
28-29 情報
30こならの森から~
31…協賛店MAP


【本文抜粋記事】

ミステリーワールド
「取り残された畑地」

 街の中心部にあったホームセンターが郊外に出ることになった。 売場面積の拡充と広い駐車場の確保が主な理由であった。 もちろん大型店の出店は簡単ではない。 立地条件に合った土地の買収、 周辺商店街との調整、 等など、 面倒な手続きや、 ややこしい書類の門をくぐらなければならない。 そうして何年かかけてようやくオープンとなるのであるが、 ホームセンター側はどうしても早く資金を回収したいからオープンを急ぐ。 その為、 地元住民との充分な話合いがなされぬまま、 法的な手続きが優先されてシャンシャンシャンとなる事が多い。 このホームセンターがそうだった、 とは言わないが、 不自然な形で残された二十坪程の畑地が気になる。
 この土地の所有者か、 この土地に何等かの権利を持つ人がどうしても納得しないのだろう。 近頃、 やたらと権利ばかりを振りかざし、 わがままを通す事が民主主義だとはき違えている若者が増えて来たが、 この土地の所有者からはそんなわがままさを感じない。 むしろすがすがしい頑固さを感じるのである。 納得していない事を 「私は納得していません」 と意思表示する事は民主主義の根底をなす大切な事と思う。 それは、口先だけで「納得していない、 不満である」 と言いながら、 大樹の陰に身を寄せて嬉々としている小利口な日和見主義者とは違う。 もっとも今は、 そんな口先だけの人間がもてはやされ、 物質的に豊かな暮らしをしている時代なのかもしれない。
 今から九十年程前、 強制破壊され、 藤岡町に合併されて廃村となりながらも、 雨漏りのする仮小屋で頑固に立ち退きを拒否つづけた旧谷中村の人達は、 何の為に抵抗し続けたのであろうか。 「国や、 県のやり方が納得出来ない」 と言うことではなかったのだろうか。 納得出来ないことを納得出来ないと、 自らの命をかけて意思表示した旧谷中住民に、私達は「民主主義とはなにか」 をもう一度学ばなくてはいけない。
 この不自然な形で取り残された畑地には野菜がきちんと植えられ管理されている。 所有者の心根が伝わって来るようですがすがしい。 多くの非難の中で孤立していくであろう畑地の所有者ガンバレ。
 後日、 ここに同ホームセンターの眼鏡売場が建った。 それでは、 わずかな期間取り残されたあの畑地はなんだったのだろうか。 土地買収がうまくいき、 少しの間だけホームセンター側の行為で野菜を作らせてもらっていただけだったのだろうか。 嗚呼あ。