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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森115号

2008-04-28 | 101号~200号
 
       ■こならの森115号■1997.11発行

表紙 「とみあさ公園」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森12月号■

おぞねとしこのポエム…いそぎく……3p
その他の情報…/猫バス39……4p
結婚(誕生)…山崎さん夫妻…5p
現代国語…せい……6p
知らんの5つの市/……ポテチーノ……7p
つたのからまる………8-9p
歴史講座 第7回………10-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-23p
両毛神楽物語…2回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】
歴史講座 第7回
■佐野奉行の役割
 佐野奉行というのは彦根にいて佐野代官と世田谷代官を支配するだけかというと、そうではない。その役割は、土地や農民を支配して、財政とか訴訟関係そういったものも担当していた。佐野代官と世田谷代官で処理できないものは、佐野奉行の方に上げた。佐野代官というのは年貢徴収、物資の徴達が主です。世田谷の方は、佐野とは違ってまた一本上から組織が降りて来ています。江戸藩邸の賄い関係を扱うのが、世田谷でした。
 佐野奉行は普段は当然彦根の方に住んでいる訳ですが、年に一度必ず回ってくる。役人が彦根を出発して江戸屋敷へ行く、その後世田谷へ寄る。世田谷から天明へ3日間でくる。佐野領15か村を必ず巡見する。一番大きな目的というのは、その年の年貢、今の税金です。年貢の確定をするのが佐野奉行の仕事です。指示をしてそれを受けた代官が年貢割り付け状を出します。税金の納入通知みたいなものですね。江戸時代の年貢というのは個人個人にかけるものではなくて村にかける。そして村には名主とか組頭という役人がいて、その人たちが個人個人にかける。それをまとめて収めるという方式になっている。
■佐野陣屋
 今は全く跡形もありませんが、内堀米通りに佐野陣屋がありました。博物館の展示室にその陣屋の平面図が展示されています。明治になって彦根県佐野出張所になるんですが、内容は代官所そのままなんです。約60メーター四方くらいの規模ですから、そんなに大きなものではないんですね。明治になって廃藩置県になるときに競売にかけて無くなってしまう。そこにどういう役職の人がいたかということですが、まず代官は地元採用です。その次が代官見習い、代官になる候補者で、のちに代官になっていく。その人が二人います。それから目付役。佐野は代官と目付役が牛耳っている。ここまでが上の方の役です。他に越名に河岸がありますから御船役、それから物書き、書記ですね。薪役というのは、薪を収納しておく薪蔵の管理。それに持ち船を持っていますから、その船頭。炭役というのは、大量に木炭を産出していますからその役です。それから、下目付役、これは目付の見習いでしょうか。川除役、川の普請をする役、河川の工事を担当する。領地には秋山川とかいろいろありますが、川での洪水のときの補修です。領主が普請をする川と、村方が普請をする川というのが決まっているんです。大きく欠けそうなところは領主がやっています。下刈り役、山の下刈りでしょうか。その下に松茸役というのがおります。松茸がよく出たのでしょうか。松茸の初物が採れると、船で江戸の将軍の方に献上しているようです。その次には茸子役。雑割木、これは薪割りかなんかですね。修復は、陣屋とかいろいろな修復。
 以上は元禄8年の役人構成で一番古いものです。
■井伊直弼、佐野領地を巡見
 嘉永6年(1853年)、この時に幕末の大老、安政の大獄をやって桜田門外で暗殺された井伊直弼が、佐野の領地巡見のために来ているんですね。3月16日に大老としては大変小規模の行列、約70名くらいです。自分から日光社参を希望した関係でそうなったようです。日光には3月の20日に泊まっています。日光から鹿沼を通って、栃木を通り3月23日に佐野に入って来ます。富士の泉応院で小休止をしてさらに犬伏宿の本陣へ。ここは今何も残っていませんが現在の犬伏小学校の敷地の一角にありました。本陣というのは公的宿泊施設で、一般の旅人は泊まれない。23日には天明宿本陣に泊まります。東石美術館の東側にあたります、今ビルが建ちました。殿町通りの西が天明で東が小屋町です。場所は小屋町なんですが、天明宿の本陣としてあそこにあった。
 翌日は領地の巡見に行きます。24日に出発して吉水の寺内家で小休止をして、上多田の名主に寄った後、本光寺で昼食をとり、山形の大森家(最近までありましたが、建て替えました。)にて小休止をしている。そして下彦間の岩下家で食事をして、斎藤家に泊まっています。斉藤さんのところは昔のままです。わざわざ今の家をその時に新しく新築したという話を聞いています。
 さらに上彦間に行っています。名主の小林さん宅。それから大学院で25日に昼食をとっている。そこでUターンをして帰って来ます。
 佐野市内ですと、出流原町に神山さんという家がありますが、そこで25日に一泊をしている。新しく家を建てたようですけれども、元の家をそのままにしておいて、西側に建てたようです。この家は東側向きの家だったのですが、直弼の泊まった室をそのままにして、ぐるっと回転させて南向きにしたんですね。26日には、また天明の本陣に泊まって、翌27日に惣宗寺を参詣、越名村から船で古河を通ったのでしょう、栗橋までいって後は陸路江戸まで出た、これが井伊直弼の日光の社参を兼ねた佐野巡見の行程です。
■堀米の飯盛り女
 この時によく知られている話が、堀米の飯盛り女を廃止して欲しいという嘆願書が出ていることです。40数か村から出ています。天明とか犬伏宿は大名などの行列が通るときに、各村々から馬を提供しました。村の若いものが馬を連れて宿場に来る訳です。宿に飯盛り女を置くことを幕府から許可されていて、そういうところに入り浸りになってしまう。せっかく駄賃稼ぎに来たのに、それをつぎ込んでしまうと嘆願書に切々たる文面で書かれている。嘆願ですから、若干オーバーにかかれている面もあるかと思います。
 かつて、天保4年(1833年)に一回、嘆願書が出ているのですが、どうもそれを代官が握り潰してしまったらしい。そこで嘉永6年(1853年)に井伊直弼が来たときに、『天保4年(1833年)に出したけれども、何の返事もないので』といってまた出している。ところが同じ年の嘉永6年の3月に堀米町の宿場関係者からも飯盛女を廃止しないでくれという嘆願書が出されています。
 結果的には井伊直弼が江戸に戻ってから裁定して廃止にしています。


こならの森114号

2008-04-28 | 101号~200号
       ■こならの森114号■1997.10発行
表紙 「のあざみ」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森11月号■

おぞねとしこのポエム…かまきり……3p
その他の情報…/猫バス38……4p
結婚(誕生)…若田部さん夫妻…5p
現代国語…せい……6p
知らんの5つの市/……月が丘……7p
歴史講座 第6回………8-11p
国道294………12-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-23p
両毛神楽物語…1回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

ドライブガイド
国道294

 国道293号線の次ぎは、そう国道294ですよね。そして、国道50号線の前はといえば、国道49号線です。そんなわけで、今回は、安佐を走る国道番外編、あるいは国道シリーズの第2弾です。
 どうして、49号線もあるのかって、それは読んでのお楽しみ。

■293号線から49号線へ
 前回の293号線はどうでしたか、そこで一つ問題がありました。道を間違えてしまって本例のルートから外れてしまったということです。それでよかったのですが、実は293からはずれた『より道コース』を予定していたのです。またこの近辺は奥の細道のコースでもあります。その辺も加味したかったのですが、いかんせん道を間違えてしまって………。そこで登場したのが裏293です。まあ、294という正式名称があるのでしょうけれども………。
■スタートはやっぱり国道293
 ルート294までは、やはり293号線を通らなければいけません。したがって、294へ合流するまでの区間は、前回の293の号を参照して頂くと助かります。ひとつ付け加えて置きたいのは、例の西方町での合流地点、手前で旧道へ流れた方が5分近くの短縮になることが分かりました。また、ろまんちっく村での渋滞も予想に反してスムーズで拍子抜けでした。台風がらみの雨模様も幸いしたようです。 
■R-293から294へ
 馬頭町から黒羽町へ向かう趣のある道をひた走り、街道筋の家並みがとても旅情をかきたてます。ひなびた山村なのですが、どことなくなつかしさがあります。なにか忘れて来てしまったものや、新たな発見のようなそんな風景が続いていました。
 そして、どうしてこうも長く山村が続くのだろうかと思えるほど、山道の中に集落が点在しています。
■黒羽町へ
 ここはとても不思議な雰囲気の町です。何故、芭蕉はここに立ち寄ったのでしょうか。どういう因果でしょうか。そして、長く滞在したのでしょうか。何かきっと意味があるはずです。雲巌寺の入り口に残る杉の大木が何かを語ります。現在知られている奥の細道のルートにあたる場所はかつてのアイヌの聖地であったといいます。芭蕉にとって奥の細道とは日本人のルーツを探る旅だったのではないでしょうか。そんな気がして来ます。
 黒羽を越え福島へ入って来ます。道の奥の仲木戸でしょうか、なにか地名を聞くだけで考え深いものがありました。
 柳の道などもあり、またいい風景を醸し出しています。
■旅の重大な目的
 ああ、そうそう、今回の旅の重大な目的を言うのを忘れてしまいました。唐突ですが、福島県の矢吹町で5才児童の絵画展が開かれているのだそうです。(10月12日まで)
 田沼町にある珈琲&音の奥沢さんからそのような耳寄り情報を頂きました。奥沢さんの話では、田沼でも同じような動きがあるようです。
 高速なら2時間もかからない距離ですが、先程ののような理由で、今回はあえて〃よりみち〃コースとしました。
 矢吹町は白河市からすぐで、栃木県と福島県の境といった所でしょうか。人口約1万9千人、展示されている絵が何点だったか正確に調べなかったのですが、一つの部屋に全員の絵が展示できるのですから30名くらいでしょうか。企画とアイディアがとってもユニークで、かつまた
夢があって素晴らしいものです。そして10年後にまた同じ展覧会を開催する計画とか、スケールというか、時間的感覚の大きさに感銘してしまいます。小さな町なのでそれなりの利点もあるようです。
 また、立地条件を最大限に生かし、大きな池を利用して水辺を演出、憩いの場です。文化施設の点在が良くマッチします。近くにはキャンプ場もあります。 国道294の終点は猪苗代湖となっており、接続する国道は49号です。
■294→49
 国道293と国道50号線も接点がありましがが、その前後294と49でもやはり接点があったというわけです。道というのは続いているものですから、当たり前と言えば当たり前ですが、標識だけを頼りにつながり良く周回旅行ができるというのは嬉しいかぎりです。
 猪苗代湖から終点のいわき市までの国道49号を行きます。行楽時期にもかかわらず。スムーズな流れ、もっとも磐梯熱海で事故があり全面不通となっていて迂回路は大渋滞、それをやっともの思いで回避したばかりなので爽快感も倍増。一時間あまりでいわき市へ。しかしながら市内でまた渋滞。『そんなにいそいで………』なんて標語がありましたが、日本の道はどうやっても急げないようにできているようです。おかげで、国道49から50号へ入って帰ろうとしましたがとても無理な状況でした。しかたなくまた栃木県側へ入って国道293を通って戻って来ました。


こならの森113号

2008-04-28 | 101号~200号
       ■こならの森113号■1997.9発行

表紙 「コスモス」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森10月号■

おぞねとしこのポエム…いがぐり……3p
その他の情報…/猫バス37……4p
結婚(誕生)…堀江さん夫妻…5p
現代国語…すう……6p
知らんの5つの市/……モコ……7p
タイムスリップ………8-11p
歴史講座 第5回………12-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-25
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

歴史講座 第5回

@唐沢山城の築城
「いつ、だれによって城が造られたか」
 唐沢山城は、いつ、だれによって造られたか、ということは、安蘇郡の歴史にとって重要なことなんです。といいますのは、今から千年前に藤原秀郷が造ったのだと、ずっと言われて来ています。ただ現在見られるよな形の城というのは千年前のものではありません。戦国時代、15世紀と言ったらいいんでしょうか、その頃のものです。しかし千年前、藤原秀郷の時代に唐沢山に城が無かったのか、と言いますと必ずしも無かったとは言い切れないと思います。
 登った方は分かるかと思いますが、非常に見晴らしのいいところです。現在でも冬には東京方面が見えるという、それくらい眺望の利くところです。ですから砦として古くから使われてきたと思います。
@古代の狼煙台
 宇都宮を流れる鬼怒川の左岸に飛山城というのがあります。そこから「烽(とぶひ)」という字の書かれた坏(つき=須恵器)が発見され、全国的に話題になりました。ここに「狼煙台」があったのです。去年の11月に狼煙の実験が行われました。飛山城の近くを東山道が通っていた。そこで、伝達方法として、狼煙を上げたということです。そんなことがありますから、唐沢山城でもそういうことがあったかも知れません。
@唐沢山城はだれが造ったのか
 唐沢山城を造った人というのは、今まで3人ほど名前が上げられています。最初は藤原秀郷、次が約800年前の佐野成俊、3番目が約500年前の佐野盛綱となります。
 現在見られるような形の城は、戦国時代に造られたものです。この時代になりますと戦争の形態が変わって来ました。鉄砲がこれまでの弓に代わります。鉄砲の玉を堅固な石垣で跳ね返してしまおう、そんなことで城が堅固に造られてきます。
@毛利元就一門
 ただ、15世紀という時代は、はっきりとは分かっていません。ことに下野の国では、まだまだ解明されていない部分がたくさんある。武士団の編成にしても分からない部分があります。
 今、NHKで「毛利元就」を放送しています。その毛利家の家臣団の編成を図にして乗せてあります。この図は頂点に惣領として毛利隆元を置き、それを支える形で一門、譜代がおります。外側に外様、国衆がいます。この人たち一人一人は最初、毛利氏と同格の小規模な豪族(小領主)でした。これを国衆、又は国人と言います。ですが、毛利氏が力をつけて来た関係で、家臣として毛利武士団の一翼を担うようになったのです。


こならの森112号

2008-04-28 | 101号~200号
       ■こならの森112号■1997.8発行

表紙 「小さい花」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森9月号■

おぞねとしこのポエム…やまゆり……3p
その他の情報…/猫バス36……4p
結婚(誕生)…楢原さん夫妻…5p
現代国語…じん……6p
知らんの5つの市/……六月……7p
歴史講座 第4回………8-9p
不透明な街…未収……10-17号
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-23
両毛神楽物語…13回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

歴史講座第4回

佐野源左衛門常世
 佐野源左衛門は『人名辞典』などで見ますと、生没年が不祥です。言われていることは鎌倉時代中期の武将で、上野国の佐野、今の高崎市佐野に住んでいたと言います。はじめ下野の佐野に居ましたが、一族に所領を
奪われて零落してしまいます。そこに登場するのが北条時頼です。雪の日、行き暮れた旅の僧を、秘蔵の鉢の木を焚いてもてなした、と言うお話しは、戦前の教科書に載っていましたので彼の名は全国的に知られていました。
 テレビでは水戸黄門様が日本全国をぐるっと回っていますが、時頼も民情視察のために、全国を回ったと言います。ですが黄門様同様、どうも怪しいという人がいる。田沼の蓼沼家の史料によりますと、佐野源左衛門は本領を召し上げられ、下野国の石沢(こくざわ)に住む、とあります。石沢は現在の葛生町正雲寺でしょうか。そうあります。 建長5年(1253)の冬、時頼が正雲寺に来て、源左衛門の家に泊まった。そこで、今はこのように零落しているけれども、鎌倉に一大事が起きたならば、いち早く駆けつけるなどと語ります。果たして建長6年、鎌倉から招集があった。そこで源左衛門は、雪の日の旅の僧が、執権の北條時頼であることを知ります。
 忠義を愛でられ、改めて本領37郷を拝領された源左衛門でしたが、国へ帰る途中、馬入川で溺れ死んでしまいます。そのため嫡子の常行が15歳になった時に執権にお目見えして、上野国佐野36郷を拝領し子孫が佐野に住む、とあります。
 一般の佐野系図には、佐野現左衛門のことは書いてありません。ただ『田原族譜』という佐野一族の系図を書いた本があります。それには佐野源左衛門の事が出ています。それによると常世の父は、常春、祖父は秀綱となっています。その上も資料にあるように違いが見られます。系図というものは勝手に作ってしまう、と言うと語弊がありますが、自分の都合のよいように作り替えてしまうものです。あまり当てにはできません。


こならの森111号

2008-04-28 | 101号~200号
       ■こならの森111号■1997.7発行
表紙 「三毳黄コスモス」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森8月号■

おぞねとしこのポエム…あさがお……3p
その他の情報…/猫バス35……4p
結婚(誕生)…石井さん夫妻…5p
現代国語…しろ……6p
知らんの5つの市/……一柳……7p
歴史講座第三回………8-9p
国道293号線………10-17号
JC・JOURNAL…OCR……18-19p
インフォメーション97………20-23
両毛神楽物語…12回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

国道293号線………10-17号


@スタート
 佐野市に通っている国道は二つ、(鉄道も二つ)。その一つの293号線は、一体どこが始発なのか。そんな単純な疑問から今回の企画はスタートした。もう一本の国道50号線もいつか企画してみたいと思っている。今回全線を走ってみていろいろなことが再発見することができた。
 国道293号線。始点はどこか、そして終点は、知っているようでよく分からない、そんな素朴な疑問ではある。しかし、あまりに唐突なこの疑問の答えが実は全く日常的な、だれでも知っていることだったりする。こんなことってありますよね。今回の@企画@(@@の意味は最後に分かります)もそれなのだ。
@思い立ったら
 遅い朝に突如としてスタート。一路国道50号線を西へ向かう。国道50号線が今回のキーポイントになっている。
 それはそうと今日は休日でちょっと走っただけでも渋滞の波の中。始発点まで来るのに時間をとられる。まだ、『佐野にも』来ていない。やっと足利市内を抜けて、越床峠トンネルへ。この手前にはしゃれた休憩所が最近できた。
 起点を通り佐野市に入ってくるのに1時間もかかってしまった。
 道は信じられないくらいにきれいになっていて、どこかの観光道路みたいだ。
@ここも
やっぱり渋滞
 国道293号線は、西方町の辺りで非常に渋滞する。道路が良くなったのに、どうして昔よりスムーズに車が進まないのか不思議でならない。もちろん旧道へ出て渋滞のピークの橋を越えた。
 ところが、また293号線上に強敵(渋滞)が現れた。宇都宮市のろまんちっく村だ。地ビールがウリでオープンしたてなのは分かるが、辺りは丘陵地なのではっきり分かる脇道や抜け道がない。上りも下りもほとんどトンネルの中のような状態となった。ろまんちっく村へ行く人はいいが、ただこの道を通過するだけの人にとっては困りもの。手前には渋滞の案内もないし、知らずに行ったら大変なことになる。
 反対車線は高速道路から数珠つなぎとなっていた。
@寄り道コース
 ここまでは、ふだん誰でも一度は通ったこともあると思う。氏家から喜連川、小川町とありきたりの変化もない道を行くことに。ここからコースを外れて、湯津上村方面へ行ってみるのもいい。那須国造碑や水戸光圀が発掘したという侍塚古墳などもある。郷土博物館に寄ってみるのもいいだろう。みんな国道294号線沿いに沿ってあるので便利である。
@奥の細道
 黒羽町から芭蕉が奥の細道で長期滞在したことで有名な雲巖寺を通り、八溝山地を抜けるひなびた国道も情緒があっていい。
日本の田舎がそこにはある。藁屋根の家が道路まで張り出している、曲がりくねった細い道、奥の細道を彷彿させる。そのまま大子町へ抜けて袋田ノ滝まで〃寄り道〃してもいいし、また馬頭までもどり、御前岩を見学して、国道293へ戻るのもおすすめのコースだ。
 『御前岩』ってなんですかって、それはですね、行ってみてのお楽しみ。
 本当はこのルートを通るはずだったのだが、小川町でそのまま国道293を通ってしまった。 これはこれで、趣もありまたいいもの。
@道の駅
 馬頭から県境までは、田舎の風景がつづく。谷あいの集落に小さく広がる田畑。茨城県側に入って来てすぐ、美和村に最近あちこちで造られ始めている『道の駅』がある。目新しさもあるのだろうか、あるいは辺りになんの観光スポットもないためなのか、大勢の人で混んでいた。駐車場がない。ほとんど想定よりもたくさんの人が詰め掛けているのであろう。
 しかし取りたてては何もない。近代的な建物(ハコ)に、名産特産、焼きそば、アイスクリームどこにでもあるものばかり。美和村の独自性がないと思うのだが………。それはともかく、星空輝く、トイレだけはおもしろいですよ。(トイレにだけは行ってくださいネ。)@アリスの森は何処に

 この近くに、アリスの森というレジャースポットが地図上で目に付いたので、今回はそこを目玉にしようとやって来たのだが、行楽日和の休日だというのに閉鎖されている。たぶん、つぶれてしまったのだろうと思う。非常に残念だった。事前にいろいろ調べたのだが、どういう種類の観光スポットなのか分からなかったという経過もあって、期待をしていたのに………。

@幻の293

 しばらくすると市街地へ入っていた。

 ■海の予感

 大宮町から常陸太田市へ、もう海が近い感じがする。しかし、ここで旧道へ入ってしまったのか、道を間違えたのか、道が細くなってくる。それと同時に気持ちも心細くなる。巻頭の写真もあやふやながら、国道293のつもりで撮ったもの。
 やがて、国道の標識が見える。また元の道に戻ったのか、どうなのかほとんど確認ができなかった。国道245と交わる。ここが終点であろう。
 国道293は山道と丘陵地がほとんどで、ありふれた3桁の国道なのだろうけれど、終点は海となっていた。 さらに日立港の埠頭へ続く道を行くが、行き止まりとなっていた。これ以上先へは行けない。大海原だけが目の前に広がっていた。