■こならの森115号■1997.11発行
表紙 「とみあさ公園」
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森12月号■
おぞねとしこのポエム…いそぎく……3p
その他の情報…/猫バス39……4p
結婚(誕生)…山崎さん夫妻…5p
現代国語…せい……6p
知らんの5つの市/……ポテチーノ……7p
つたのからまる………8-9p
歴史講座 第7回………10-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-23p
両毛神楽物語…2回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】
歴史講座 第7回
■佐野奉行の役割
佐野奉行というのは彦根にいて佐野代官と世田谷代官を支配するだけかというと、そうではない。その役割は、土地や農民を支配して、財政とか訴訟関係そういったものも担当していた。佐野代官と世田谷代官で処理できないものは、佐野奉行の方に上げた。佐野代官というのは年貢徴収、物資の徴達が主です。世田谷の方は、佐野とは違ってまた一本上から組織が降りて来ています。江戸藩邸の賄い関係を扱うのが、世田谷でした。
佐野奉行は普段は当然彦根の方に住んでいる訳ですが、年に一度必ず回ってくる。役人が彦根を出発して江戸屋敷へ行く、その後世田谷へ寄る。世田谷から天明へ3日間でくる。佐野領15か村を必ず巡見する。一番大きな目的というのは、その年の年貢、今の税金です。年貢の確定をするのが佐野奉行の仕事です。指示をしてそれを受けた代官が年貢割り付け状を出します。税金の納入通知みたいなものですね。江戸時代の年貢というのは個人個人にかけるものではなくて村にかける。そして村には名主とか組頭という役人がいて、その人たちが個人個人にかける。それをまとめて収めるという方式になっている。
■佐野陣屋
今は全く跡形もありませんが、内堀米通りに佐野陣屋がありました。博物館の展示室にその陣屋の平面図が展示されています。明治になって彦根県佐野出張所になるんですが、内容は代官所そのままなんです。約60メーター四方くらいの規模ですから、そんなに大きなものではないんですね。明治になって廃藩置県になるときに競売にかけて無くなってしまう。そこにどういう役職の人がいたかということですが、まず代官は地元採用です。その次が代官見習い、代官になる候補者で、のちに代官になっていく。その人が二人います。それから目付役。佐野は代官と目付役が牛耳っている。ここまでが上の方の役です。他に越名に河岸がありますから御船役、それから物書き、書記ですね。薪役というのは、薪を収納しておく薪蔵の管理。それに持ち船を持っていますから、その船頭。炭役というのは、大量に木炭を産出していますからその役です。それから、下目付役、これは目付の見習いでしょうか。川除役、川の普請をする役、河川の工事を担当する。領地には秋山川とかいろいろありますが、川での洪水のときの補修です。領主が普請をする川と、村方が普請をする川というのが決まっているんです。大きく欠けそうなところは領主がやっています。下刈り役、山の下刈りでしょうか。その下に松茸役というのがおります。松茸がよく出たのでしょうか。松茸の初物が採れると、船で江戸の将軍の方に献上しているようです。その次には茸子役。雑割木、これは薪割りかなんかですね。修復は、陣屋とかいろいろな修復。
以上は元禄8年の役人構成で一番古いものです。
■井伊直弼、佐野領地を巡見
嘉永6年(1853年)、この時に幕末の大老、安政の大獄をやって桜田門外で暗殺された井伊直弼が、佐野の領地巡見のために来ているんですね。3月16日に大老としては大変小規模の行列、約70名くらいです。自分から日光社参を希望した関係でそうなったようです。日光には3月の20日に泊まっています。日光から鹿沼を通って、栃木を通り3月23日に佐野に入って来ます。富士の泉応院で小休止をしてさらに犬伏宿の本陣へ。ここは今何も残っていませんが現在の犬伏小学校の敷地の一角にありました。本陣というのは公的宿泊施設で、一般の旅人は泊まれない。23日には天明宿本陣に泊まります。東石美術館の東側にあたります、今ビルが建ちました。殿町通りの西が天明で東が小屋町です。場所は小屋町なんですが、天明宿の本陣としてあそこにあった。
翌日は領地の巡見に行きます。24日に出発して吉水の寺内家で小休止をして、上多田の名主に寄った後、本光寺で昼食をとり、山形の大森家(最近までありましたが、建て替えました。)にて小休止をしている。そして下彦間の岩下家で食事をして、斎藤家に泊まっています。斉藤さんのところは昔のままです。わざわざ今の家をその時に新しく新築したという話を聞いています。
さらに上彦間に行っています。名主の小林さん宅。それから大学院で25日に昼食をとっている。そこでUターンをして帰って来ます。
佐野市内ですと、出流原町に神山さんという家がありますが、そこで25日に一泊をしている。新しく家を建てたようですけれども、元の家をそのままにしておいて、西側に建てたようです。この家は東側向きの家だったのですが、直弼の泊まった室をそのままにして、ぐるっと回転させて南向きにしたんですね。26日には、また天明の本陣に泊まって、翌27日に惣宗寺を参詣、越名村から船で古河を通ったのでしょう、栗橋までいって後は陸路江戸まで出た、これが井伊直弼の日光の社参を兼ねた佐野巡見の行程です。
■堀米の飯盛り女
この時によく知られている話が、堀米の飯盛り女を廃止して欲しいという嘆願書が出ていることです。40数か村から出ています。天明とか犬伏宿は大名などの行列が通るときに、各村々から馬を提供しました。村の若いものが馬を連れて宿場に来る訳です。宿に飯盛り女を置くことを幕府から許可されていて、そういうところに入り浸りになってしまう。せっかく駄賃稼ぎに来たのに、それをつぎ込んでしまうと嘆願書に切々たる文面で書かれている。嘆願ですから、若干オーバーにかかれている面もあるかと思います。
かつて、天保4年(1833年)に一回、嘆願書が出ているのですが、どうもそれを代官が握り潰してしまったらしい。そこで嘉永6年(1853年)に井伊直弼が来たときに、『天保4年(1833年)に出したけれども、何の返事もないので』といってまた出している。ところが同じ年の嘉永6年の3月に堀米町の宿場関係者からも飯盛女を廃止しないでくれという嘆願書が出されています。
結果的には井伊直弼が江戸に戻ってから裁定して廃止にしています。