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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森 62号

2008-04-12 | 創刊~100号

       ■こならの森62号■1993.5発行

C・o・n・t・e・n・t・s

3p… 目次
4p-13p 対談埋蔵金=現代用語
8-9p 現代用語
10-13…万葉ラブ「情けを」OCR
14-17p…インフォ
18p…銀幕画廊
19…書評・絵本紹介
20p…結婚
21p…やんば 第2回
22-25…田中正造第造2回
26-29p 文化会館情報/協賛
30こならの森から~


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【本文抜粋記事】


田中正造をめぐる  第2回

 私たちは『田中正造』という教師についていながら、まだ何も学んではいないのではないでしょうか。例えば田中正造が私たちに残してくれたもの教えてくれたもの、学ぶということ、分かるということ、それによって変わるということ、始めることよりもそれを次世代にまで受け解いでいく意志ということ…
 ………それ全てが、田中正造の思想そのものではなかったでしょうか。まさしく田中正造はその先駆者だったのです。私たちは、日々の中でそのことを忘れ去る生活をしていますが、見渡してみれば分かるとおり今では、環境問題や環境破壊、政治腐敗などが顕著に表面化しています。しかも、その現在の状況を正造ははるか昔に予言しているのです。そのことは日記の記述かち読み取ることができます。「被害者も加害者もなく皆滅んでしまう」と訴えているのです。
 ここで一原点に帰って〃正造〃を学び起こして見ませんか。そうすれば、新たなる希望がわいてくる、といってしまうとおおげさですが、何かつかめるに違いないと思うのです。「どんなところでも、我々は、我々の愛する人からしか学べないものである。」とゲーテはいったそうです。田中正造は谷中村に入って残留する谷中の人々からいったいなにを学んだのでしょうか。
 実は、谷中村の戦い(闘争)のなかで、すべての戦う力をなくした所に、「新たに戦うことのできる可能性を見いだした」という世界のどこでも行われたことがなかった非暴力による国家権力への確固とした対決が見えてきたのでした。
 谷中村では聖書に書かれてあるような出来事が現実に目の前で行われている、ということを正造は直視します。
 「われらは好んで正しく貧苦にいるもの。人の富はうらやましからず。我ら夫婦は人の害となることはせざるなり。」というある谷中残留民の言葉があります。
 これを、正造は聖書にある言葉、人はパンのみに生きるにあらず、だと解釈しているのです。 佐野で行われた石牟礼道子さんの講演会では、「正造によって見いだされた谷中村の人々」という言葉がありました。これはあたかも歴史の主が谷中人であって、従が正造だという印象を受けますが、現実にはどうであったのでしょうか。
 真に啓発を受け、谷中人つまり〃普通の人〃を歴史の檜舞台にまで上り詰めさせた張本人は、実は田中正造自身ではないでしょうか。
 こんなことがあるのでしょうか。知識を持った人間が知識を持たない人々から啓発を受けるとは…。
 でもその理性の関所のたがを外せる人間が、そのことに気がつく人間が何人いるのか。 やがて田中正造は谷中の人々が、神に最も近き人であるということを理解します。そして正造自身も谷中の人々と共にまた神に最も近き人になったのです。この間十年近くの苦闘がこの地でおこなわれました。「田中正造は谷中村で何を学んだか」
 田中正造の生涯を知る上で何が一番大切か、と聞かれれば何をおいてもまず谷中村に入った最晩年の生き方だろうと答えます。どうしてでしょうか、第一にはその教材地が佐野市内から車でほんの三十分ほどので行けるということす。
 正造は、今まで政治 正造は、今まで政治家として足尾鉱毒問題に取り組んで来ました。その今までの自分として谷中村に入ったといいます。たぶん自分が谷中村に入ることで、谷中村の置かれている状況が変わるだろうと予測しました。たぶんに変えてみたい、変わるだろうという期待があったはずです。しかし、現実にはそうはなりませんでした。
 一般的に見れば、行き場を失った最悪の状況に落とし込められてしまったということです。どんな脱出の可能性もない、勝てる見込みのない状況に一人追い込まれ、絶対絶命です。
 この戦いに勝者はいません。敗者を排除し終えたときには、実は勝者自身もまか掛び去っているのです。
 本当の田中正造の姿は華々しかったのです。議員時代のときとは違っていたはずです。正造自身最後の闘病生活の中で思い起こされた出来事は議員として鉱毒被害の救済に走り華々しく活動し生涯を懸けた時のことではなくて、「天国へ行く道ぶしん」と言われた苦学の谷中村での出来事だったろうと思います。(かつての偉人もそうでした。)「小中村は関東の野の始まりなり」 本来正造の精神や生きてきた奇跡こそに真価があるのであって、それ以外のものは何らの価値もないということは承知のことですが、歴史の亡霊は、今でもさらに正造との戦いを仕掛け続けています。まだ、〃谷中〃の戦いは、(谷中で起こった戦いは)私たちの心の中で続いていると思えるのです。


こならの森 61号

2008-04-12 | 創刊~100号

       ■こならの森61号■1993.5

C・o・n・t・e・n・t・s

3p… 目次
4p-7p…万葉ラブ
8-13p…特集=自転車=田中正造
14p-15p 現代用語
14-17pインフォ
18p やんば…銀幕画廊
19…書評・絵本紹介
20p…結婚=
21p…お宅は意見
22-25p シンポ1993年ダイジェスト
26-29p 文化会館情報/協賛
30こならの森から~
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【本文抜粋記事】


万葉ラブストーリー 第一回

  キャンプシーズンにはちょっと早いけれど、待ちきれず前に買っておいたキャンドルに灯火をひとつ一つつけてみた。すると、今まで体験したどんな明かりよりとてもいい明かりが目の前に出現した。非常に淡く、優雅、叙情的で素直になれそうなそんな気にさせる。もしかしたら、万葉の頃の人々は、そんな叙情的な世界の人々だったのではないだろうか………
 こころに浮かび上がったものを歌として人に伝え、男女の掛け合いとして発達した歌垣。その形成は古代の「マレビト信仰」の問答からきているのだという。 それを元に今の短歌形式に万葉集の編集者?が整えていった、それが東歌の組成過程であろうか。だから、直接にその歌を詠んだ作者は分からない。民話、民謡の一部、あるいは原型的なものがもとになったのではないかとも思う。つまり、東歌は万葉集の中の民族学的編纂歌集であったのだろう。だから、一つひとつの歌は、一人のひとが詠んだ歌だと解釈するのではなく、広く一般に受け継がれてきた歌、あるいは多数の人の合作であると解釈した方が良いのではないだろうか。それはともかく、今回から万葉集・東歌を題材にしたラブストーリーを連載していこうと思います。

@万葉ラブ ストーリー        村田美香・作
[ 三毳山に登った。木もれ日がさしている。肺いっぱいに木々の香りを吸いこむ。木の根元に背をあずけ、しっとりした地面に腰を下ろす。
 うら、うら、うつら。
 けだるく、心地良い眠気を感じる。と、その時、寄り添った木の中からひとりの女性が、すうっと表れた。いつの時代か、かなり昔の人のイメージを受ける。どうしたことだろうとぼんやり思うが、眠い頭はかげろうのようではっきりせず、指ひとつ動かせない。するとその女性は、私がここにいることなどまったく目に入らぬようすで、私の座っているこの木の根元に………腰を、おろした!?。
 その女性の体は、私の体にすいこまれ、その人が私に、私がその人になった。いや、私が、その人にすいこまれたのか……。]
あの人に会ったのは昨年の春。みかものお山で木の芽を摘んでいた時のこと………。
 けものにでも出くわしたら危なかろうと、父さんに追い立てられるようにして付いて来た犬の「しろ」が、道草ばかりくうので、なかなか先にも進めず、籠の中はいつまでたってもいっぱいにならない。半ば木の芽摘みを諦め、足元に籠を置いた。せいいっぱい息を吸い、伸びをすると、湿った春の香りが心地好い。あちこちで、鳥のさえずりが聞こえる。「しろ」は、さっきから鼻先の蝶々をからかっているのか、からかわれているのか、どっちともつかないようすで、はしゃいでいる。と、突然何かに気づいたかのように「しろ」が走り出した。わたしは慌てて籠を取り、「しろ」を追い駆けた。  
 お山の中腹に、そう広くはないが、いくらか平らな所がある。おべんとうを広げるにはちょうどよい場所で、他の木の群れを離れるように、ひときわりっぱな枝振りの大木がある。あの日もその木の根にもたれて腰を下ろすのを楽しみにしていた。しろを追って走りより、わたしは足を止めた。 
 「ここは良い所ですね。 気持ち良さそうに木の根に背を預けたその人は、こちらを見るでもなく静かに言った。ちぎれんばかりに尾を振る「しろ」もまた、静かに頭を撫でられている。
 「あなたが、さっき両の手を空に広げ伸びをしてた時、まるで枝のすんなり伸びた小楢(こなら)のようでした。」
 「やだ、見てらしたの。」 あの時、人見知りしがちなわたしが、あんなにうちとけられたのは、きっとあの人の、あたりの自然に対してどこか受け身な雰囲気が、そうさせたのではないかと思う。
 「そこは、わたしのお気に入りの場所なの。良いでしょう。」
 「おや、そうでしたか。じゃ、半分ずつにしましょう。」
 その人は、体を少しずらし、隣に腰を下ろすのが、さも当たり前のようにわたしの場所を作った。おだやかな春の日を分け合うような心持ちで、わたしも自然に従った。 「きれいな色ですね。それは、なんの芽ですか?」
 「たらっていう木の芽です。」
 「薬草ですか?」
 「お惣菜になるの。この時期はたすかるわ。いろいろな木の芽や、野草があって。特別に、お薬って訳でもないんでしょうけど………、春の香りがして、病気など治ってしまいそう。」
「春の香りか。良いですね。そのたらの芽は、どんな風にして食べるのですか。」
 「そうね。お粥に炊き込んだり、おひたしにしたり………。」
 「なるほど。山の暮らしも良さそうだね。」
 「あなたは、みかもの人ではないの?」
「わたしは、このふもとの民です。」
 「ふもと!お山のてっぺんから、見えるかしら?。ね、上まで登ってみましょう。」
 ふたりして立ち上がると、今まで寝入っていたはずの、「しろ」が跳び起きて、お山のてっぺんに向かい駆け出した。
「まあ、聞いてたのかしら。」
 その人は、なれない山道を歩きにくそうに息をはずませていた。わたしは、「ほら、そこに足を置いて。」だの、「その枝をつかんで。」だの、得意げに先にたって歩いた。間もなく空が開け、ふもとの村が見渡せた。
 「これは、良い眺めだ。山頂から見ると、人の暮らしとは、こんなにも小さなものなのですね。」
 その人は、しきりに感心したようすで、眺めいっていた。
 「ねえ、どのへん?」
 「そうですねぇ。わたしが入ってきた山の入り口は、どっち側ですか?」
 「きっとこっち側だわ。」
 「じゃあ、こうまわって、こう折れて………、ああ、あのへんです。わたしの耕している田は。そしてその奥が、私の住む庵(いおり)です。」
 「まあ!高さばっかり離れてるけど、すぐ側(そば)なんだわ。」
 「遊びにいらっしゃい。ふもとの村には、あなたの話相手になりそうな娘も、何人かいますよ。それに、山の庵には、かわいい娘がいるらしいと、若者達のもっぱらのうわさだ。」
 「かわいい娘?わたしが?………あなたは、わたしがお山で暮らしていること知ってたの?」
 「いや。誰からともなく、かわいい娘がいるらしいという話が出ただけで、誰一人、その庵のある所さえ知らないんです。おおかた、誰かがたぬきに化かされたか、おとぎ話くらいに思ってました。」
 「たぬき!ひどいわ。」 「ははは、さっき本物のたぬきに会ったが、なかなかかわいいものですね。」
 「ふもとの………、あなたの村の………、娘さん達はみんなきれいなんでしょうね。」
 「さあ、どうでしょう。わたしには、女をきめる基準が、どうも解らない。」
 「あなた、お嫁さんは?」 「わたしは女を喜ばせる言葉を知らない。ましては村に娘が少ないんです。腕の細い、頼り無いわたしのところなど、だれも来ないでしょう。」
 「ふふふ、ずいぶんと、引っ込み思案ね。」
 「そういう訳でもないが、自然にまかせていたら、いつの間にか歳をとりすぎました。」
 「だって、まだそんなお歳じゃないでしょう。」
 「ははは、そう見えますか。」
 「わたしは、あなたに小楢のようだといわれて嬉しかったわ。」
 「それは、それは。期せずして喜ばれたわけですね。けしてお世辞じゃないですよ。本当にあなたは、伸び伸び生き生きしている。良い奥さんになるんでしょうね。あなたが、村に来たら、きっと若者達は色めき立つでしょう。」
 あれから、お山の庵も時折にぎやかなお客を迎える。みんな、わたしを小楢と呼んで、誰もが親切にしてくれている。ただ、あの人だけがあれきり、姿をみせない。ずっと、待っているのに。あの人は、わたしの気持ちを知ろうとしない。まだ一人でいるのだろうか。こんなに側で暮らしているのに。
 お山のてっぺんに登って、「ああ、あのへんですよ。」と、あの人が指した先を、やるせなく眺める。溜め息をついて寄り添った木の幹に、わたしの指先は、なにかしら刻みを感じた。だんだろうと思って目を近づけると………。
 わたしには読めないこの文字が、きっとあの人の手によるものだと、思えた。
  下野の 
みかの山の 小楢のす 
  まぐはしころは 
    誰が笥か持たむ

8-13p…特集=自転車=田中正造
 現在のエコロジカルな考え方や、環境問題がクローズアップされてはいるものの、その先駆者ともいえる田中正造はあまり話題にのぼることがないと思います。それどころか、この企画を知人に打ち明けると、一言「やめとけ」と言う答えが返って来る始末。
……………………………… 

@天気のよい日曜日、まだふとんの中でゆくっり朝寝坊を楽しんでいます。今日は何の予定もありません。 ………と思ったら、今日は恒例のこならの森主催ツーリングの日でした。 
「とうさん、今日は谷中村までサイクリングするの?」「そうだよ」
「僕ね昨日学校で田中正造って言う人の話を聞いたんだよ。佐野生まれの偉人なんだって、先生が真剣に話してくれたんだけど分からないことがあるんだ。」
「どういうことだい」
「なぜ直訴をしたかなんだよ」「おまえ難しいこと考えているんだな。おとうさんだって、正造さんじゃないんだから本当のことは分からないよ。でもマスコミに訴えようという意図で、計画的だったみたいだね。」
「ふぅ~ん。分かったような気がするけれど、もっと分からないのはそのあと、どうして谷中村へ入っていったかってことなんだよ」
「そうかそうか、おまえもそういう年齢になったか。論より証拠だ。一緒に谷中村へいってみよう」
「ほんとう!」
「でも、まだおまえは、マウンテン・バイクに乗れそうもないし今回は止めとくか」
「なにそれ@ 」
 何だかどこかで見たことがありそうな、文章だけれど………とにかく、正造と同じように、「無理に家人に言って握り飯を」三つにぎってもらい、「………行くところがある」とニヒルに言い残しひとり家を出て行ったのでした………。
 ………とは言っても自転車で行くには、谷中村は遠かった。
 春風ツーリングのメンバーは新設なった田中正造生家前に集合しました。ここから、良く佐野市街へ通ったという旧道を、まだ起きやらぬ眠い目で駆け抜けます。 菊沢川沿いに、暖かな季節の中を爽快に走り、少しして佐野市街まで入って来れました。秋山川沿いの津久居家へ。 地上で最後の朝に、正造はこの家から最後の道程を歩みます。人力車で谷中村へ向かおうとしたのでした。
 一行はしばらく秋山川の土手の上を走って田島町まで入って来ました。そして佐野の古城椿田城へ。ところが、この先の道路が工事中。しかたなく、下の田舎道を抜けていくことに。そこから正造終焉の
地庭田家へ。正造は、その前に雲竜寺へよりそこを死に場所としたらしかったが、あいにく住職が不在で住職を待つ間隣接する庭田家まで行ったのでした。
 ちょっと前に、正造を看病したという看護婦さんが、やってきたことがあり、昔とちっとも変わっていないといい、柱に頬づえをして帰っていったということだ。「正造さんも、天から今の世の中を見て笑っていらっしゃることだろうよ、そらいわんこっちゃないと……。」
 そんな話の後、正造が最後に向かいたかった谷中村を正造に変わり目指したのでした。渡良瀬川を越えてサイクリングロードへ。 
 何げなく渡良瀬川の土手を走行していく一行だが、
かつては辛酸な歴史がここを舞台に流れていったのでした。いまは、誰もそれに気づく人はいないほど、ゆったりとして平和な河川風景です。下羽根田から谷中村までは、1時間くらいの走行だったろうか、心地よい
春風に押されながらのどかさが全身にみなぎりました。かくして、谷中村が見えて来ました。
 [谷中にて………正造]
 一見すると谷中村に入ったときの田中正造は、年老いた老人が同情心からそこに寝起きし、最晩年には、野垂れ死にを徳(理想)として生き抜いた田中正造のみじめな成れの果てがあったという向きもあるが、それはけしてそうでなく、年を経るごとに人間形成からいえば、高い境地にまで上り詰めていったのでした。一個の生命体の完成ともいうべきでしょうか。だが、あまりにそれ以前の、直訴までの生き方が華やかだったために、そのこと、谷中村での出来事が忘れ去られようとしているのです。
 田中正造が谷中村で、谷中村民の中にその神に近きものの存在を見、気づき、それと共に生きることを生涯のかてとしたとき、彼もまた神に近きものの一人となったのでした。
 だからまさしく谷中村は一個の生命体が最も神に近づいた聖地に違いないのです。
 まあ聖地とはなんとおおげなことを言うものだろうとお思いでしょうが、私には現実の聖地よりももっと現実味を帯びて焼きつきます。そして「かつてどこでも行われたことの無い戦い」がまさにこの地で行われたのです。(分かったようなことを書いていますが、本当に自分自身で理解することは当分ないでしょうことは分かっています。)
 現在の谷中村は、大遊水池化され、ゴルフ場やウインドセーリングのための池となっています。娯楽と行楽の公園といったらいいのかも知れません。若い人がかよい、親子連れでにぎわい、一大憩いの広場とされていますが、谷中村跡地を訪れる人は心なしか少ないような気がします。それは現代の、「陽」をありがたがり、「陰」をさげすむ風潮を代弁しているかのようでした。
 谷中村の延命寺跡に残る木にもたれ、ボーっと木漏れ日を受けているとなんとなく悟りを開けそうな気持ちにもなってくるから不思議です。


こならの森 60号

2008-04-12 | 創刊~100号

       ■こならの森60号■1993.4

表紙 「はなだいこん」

C・o・n・t・e・n・t・s

3p… 結婚=阿部さん夫婦
4p…ミステリーワールド
5…きれい瞬間・圭吾の歳時記
6-8p…特集さくら
9p カラムコラム
10p-13p 世界の料理
14-19pインフォ/文化会館情報
20p…銀幕画廊
21p…書評・絵本紹介
22-27pインタビュー
28-29…協賛店MAP
30こならの森から~
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【本文抜粋記事】


世界の料理「パラグアイ」

■PROFILE OF 「パラグアイ」
国名:パラグアイ共和国/首都:アスンシオン /政体:共和国制 /面積:約40万@(だいたい日本と 同じ面積)/人口:347万人(1983年)言語:スペイン語(公用語)/・グアラニー語 。/通貨:グアラニー /産業:小麦、大麦、牛 /時差:日本より十三時間遅れ/@気候と風土@
東部は森林地帯、西部は大草原となっており、気候は亜熱帯性で、平均気温は22度前後。
 近隣国からも「とことん、田舎者」と呼ばれるこの国はどこかのどかでのんびりしているという。
 しかし、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイに3方を囲まれ昔から国際問題に悩まされて来ている。

●エンパナダ●[材 料]
牛ひき肉………500g 
玉ねぎ大………2個 
卵………………4個 
クミン…………少々 
コショウ………少々
ニンニク………少々 
塩………………少々 
油(サラダ油)…1リットル 
ピーマン………1個 
[作り方]
 タマネギ、ピーマン、ニンニクを小さく切り、サラダ油で炒めます。きれいに炒め上がったら、塩、ひき肉をいれさらに炒めます。火からおろしてコショウ、クミンを入れます。卵はゆでておき、つぶしてこれも入れます。
 作ったかわに全てを入れて油で上げて出来上がりです。
@かわの部分[材 料]
小麦粉…1キロ 
卵………2個 
バター…50g 
牛乳……少々 
塩………少々
[作り方]
 ボールの小麦粉を丸く穴があくようにしておき、その中に卵、バター、牛乳、塩を入れよく混ぜ、こねる。引っ張れるようになったら、中に入れる物を作る間、そのままおいておく。

●クレマ(クリーム)●[材 料]
牛乳…………………1リットル
卵……………………3個 
砂糖…………………1キロ 
バニラエッセンス…少々 
小麦粉………………200g 
[作り方]
 まず牛乳をあたためます。卵黄と卵白を分け、卵黄は小麦粉と混ぜて牛乳とゆっくり煮ます。卵白は、泡立て、出来上がったクリームの上にのせます。砂糖を少し焦がして、その上にのせるとなおおいしくなります。

●クレリコ●[材 料]
ワイン………1リットル 
砂糖…………500g 
くだもの(お好みで何でも)
[作り方]
 くだものを小さく切り、それをワインと砂糖で混ぜ、冷たくして飲みます。

●チーパ●[材 料]
片栗粉……………1キロ 
チーズ……………300g 
牛乳………………1/2カップ 
卵…………………4個 
バターがラード…100g 
アニス……………少々 
塩…………………小さじ1
[作り方]
 ボールに卵、バター、アニス塩を入れよく混ぜる。
それに片栗粉を入れよくこねる。 好きな形にして皿の上にのせオーブンで焼きます。

●ポーリオ レ リェノ●
[材 料]
とり………一羽 
(A)《塩コショウ、ニンニク、オレガノ、ローレル、クミン、レモン》
タマネギ………1個 
ピーマン………1個 
ニンジン………1個
(以上は細長く切る。)
[作り方]
(A)を鳥の中にいれ割り箸でおさえる。それをオーブンに入れ約1時間。(あじつけを1日前にやっておくとさらにおいしい)※鳥のレバーを鳥肉の中にいれて作りますとおいしくできますよ。

●ソパ パラグァジャ●
[材 料]
とうもろこしの粉…1キロ
チーズ………………1キロ 
卵……………………8個 
タマネギ……………大2個 
バター又はラード…500g 
牛乳……………1/2リットル塩………………少々
[作り方]
 タマネギを切り、バターと炒めます。焦げ色がつく前に火からおろします。別のボールに卵を泡立て、それに塩、バター、トウモロコシの粉、いためたタマネギを入れ、最後に牛乳を入れて混ぜる。それを、油を塗った入れ物に入れてオーブンで焼きます。

■講師■PROFILE■
林マルタさん。
 パラグアイ、エンカルナシオン出身。日系人の父を持つ。日本に来て3カ月だというが日本での生活には問題はないということだ。

[編集部食後の感想は………]
@ソパ 
中にタマネギが入っていて妙味。なぜだか油っぽさが口に残った。甘いのかなと思っていたがさにあらず………。
@エンパナダ 
乾いた感じのするギューザというところかな。
@チーパ 
乾いたドーナツといったところ、あじはあまりついていない。
@ポーリオ レ リェノ 
鳥の丸焼き。



こならの森 59号

2008-04-12 | 創刊~100号

       ■こならの森59号■1993.3

表紙 「佐野小のモクレン」

C・o・n・t・e・n・t・s

3p… 結婚
4p…カラムコラム・街角の肖像
5…きれい瞬間・圭吾の歳時記
6…ミステリーワールド
7p…銀幕画廊
8p-11 特集「ギザギザ屋根」
12-20p「プロフィールたてばやし」
21p-23p 堀米町
24-26p…情報
27…書評・絵本紹介
28-29…文化会館情報
30こならの森から~
31…協賛店MAP

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【本文抜粋記事】

ミステリーワールド

「曲がっている小屋梁」
 北欧やアーリーアメリカン調の家並みに文化の香りを感じるのは私ばかりではないでしょう。 幾何学的な梁の美しい白い壁は、モルタルで塗りたくられ、 柱を覆い隠された私たちの住宅に比べて実に美しい。 人の住まいとうさぎ小屋の違いをまざまざと見せ付けられるような気さえします。 それでは古来我が日本の住宅がこんな風であったかと言うと、 そうでもない。 自分達の回りを少し気を付けて見渡せば、 美しい梁を持った家屋がまだまだ沢山あるのです。
 天井を支える横木が梁、 そしてその梁の上の屋根を支える横木が小屋梁。 美しい小屋梁を捜して街中を散歩すると、 不思議な事に気がつきます。 真っ直ぐな材木の小屋梁は一本もありません。 みんな曲がりくねった丸太が使用されているのです。 なぜでしょうか? 
一、昔は真っ直ぐな木が手に入りにくかった。 二、曲がっている木の方が丈夫である。 三、曲がっている方が造形的に美しい。 四、大工職人の腕のみせどころであった。 などなど。 思い付くままに考えてみましたが、 そんな理由よりも曲がっている木を立派に使いこなしている現実に驚きを感じてしまいます。
 今は、 真っ直ぐな事が貴ばれます。 横道にそれることなくただひたすら受験勉強に邁進しなければ人生に落伍してしまいます。 学校の先生も、 出来るだけ個性と云う名の曲がりを削って真っ直ぐにしようとしま
す。 いや、 真っ直ぐでなければ扱えなくなって来ています。 そして親も世間も、 真っ直ぐな事が当たり前で普通の事のように思っています。 しかし、 小屋梁の文化のように、 曲がっていても普通に使ってしまう度量を、 いや、 曲がっている姿をより自然で美しいと感じる文化を、 つい昨日まで私たち日本人は持っていたに違いないのです。
 古い家が壊され、 新しい家が建つと共に街中から小屋梁が姿を消していきます。 やがて全ての曲がった小屋梁が見えなくなっても、 曲がっている物を個性的で美しいと感じる文化はのこしたいものです。
 建築設計を仕事にしている知人の話によれば、 生木というものは本来一本一本なんらかの曲がりを持っているものなのだそうです。 それはそれぞれが大地に安定する姿をとっている為に自然とそうなるのだそうです。 ですから、曲がった丸太から真っ直ぐな角材を削り取るのは不経済なばかりでなく、 元の安定した姿に戻ろうとして角材は曲がってくるのだそうです。 曲がらないようにするためには何等かの力を常に外から加え続けなけばなりません。
 そろそろ、 子どもの個性を削り取って真っ直ぐにする作業を見直そうではありませんか。