■ ■■■■■ ■ 日刊 こならの森 ■ ■■■■■ ■

* * * *  *  * * * *
東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森 97号

2008-04-21 | 創刊~100号
       ■こならの森97号■1996.5発行

表紙 田中重光「草刈り風景」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森6月号■

おぞねとしこのポエム…いちはつ……3p
その他の情報…/猫バス21……4p
知らんの5つの市/…三活………5p
両毛神楽物語………6p
結婚…家持孝行さん&美保さん…96/3/24
特集…農と住……8-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション95………20-23p
海棠市子の映画評……………24
書評・絵本紹介………………25
現代国語………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

TOPICS

春の酵素講習会

 酵素治療家の河村文雄さんの教えを受ける、板倉町在住の関田安次さんを講師に迎えて、手作り酵素の講習会が佐野市内の家庭の一室を借りて行われた。
 関田さんは、午前10時から、2時間あまりに渡り講和。その後は酵素で処理した食事を試食しながら質問などに答えて歓談した。
 講和では、手作り酵素の話だけでなく、最近何かと話題のアトピーについてや食品汚染、ライフスタイルの変化などから不健康な人が増えている、健康を取り戻すにはどうしたら良いのか。また、病気にならないためにはどうしたら良いのか。
 「汚染物質に囲まれて生活しているが、それらを酵素で解毒することができる。病気はそうなる前に予防しておく事の方が大事。食べ物がこれだけ悪くなっているのに、それを受け止める、身体が悪くならないはずが無い。」など、興味深い内容となった。
 関田さんは「酵素とはタンパク質のことで、これを常飲すれば細胞が活性化され、よみがえってくる」のだという。手作りであるため、一般的には酵素の元以外は市販されておらず、春に取れる自然の野草を摘んで家庭で手作りされるということだ。



こならの森 96号

2008-04-21 | 創刊~100号
       ■こならの森96号■1996.4発行

表紙 「田中重光/画 小野寺のしだれ桜」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森5月号■

おぞねとしこのポエム…やまぶき………3p
その他の情報…/猫バス20……4p
知らんの5つの市/…5p
創作童話 最終回………6p
結婚…川崎 仁さん&里美さん…96/3/24
インタビュー…インターネット……8-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション95………20-23p
海棠市子の映画評……………24
書評・絵本紹介………………25
野良犬先生………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

インタビュー

「インターネットってなに?」

出席者
両毛インターネット 大峯義博さん
ソフトウエアー・ワークショップ 新堀龍明さん

インターネットといってもまだなじみのない事なのですが、分かりやすく言うとどういうことなのでしょうか。

 これもまだなじみの無いシステムですが、ローカルエリアネットワークという企業内だけの通信の仕組みがあるんです。それを一つの組織だけとか、会社だけで使っていると、対外的な通信ができない。それをつないでいるものがインターネットなのですね。最初にそのインターネット構想を作ったのは、アメリカの国防省です。
 軍の基地がある、それがアメリカ、また世界に点在している。一つのコンピューターシステムが直撃を受けると、機能をしなくなる。ですからそのコンピューターを分散して、つないでおけばいくつかが壊れても、他のコンピューターでそれを補完できるだろう。それがインターネットの始まりなんです。

 何年ぐらいに始まったのですか。 最初のスタートは1968年頃です。

 情報ハイウエーとは別なのですか。

 今言った米軍の線を情報ハイウエー化しまようということで、ゴア副大統領がオープンにしてきたわけです。
 冷戦終結でソ連の攻撃も無いだろう、せっかくあるインフラなんだからそれを企業とか大学とかにで一緒に使いましょう。お互いのコンピューターがつながれば、データのやり取りには一番都合がいい。これがインターネットのスタートです。

 民間で使えるようになったのは何年くらいからでしょうか。
 アメリカでは本格的に使い始めたのは1988年です。

 本当につい最近なんですね。

 日本では1993年の12月からです。ですから始めて2年ちょっとですね。それも93年に、郵政省の基準を下げるために、慶応大学の村井先生と東大の西沢先生、我々の上部団体である東京インターネットの高橋さんなどが、郵政省に働きかけた。『通信の障壁を解放しなければ、日本はアジアで最後進国になってしまう。』と言うことでの対応です。

 日本以外のアジアの国々では活発に行われている訳ですか。

 シンガポールではもう国営化されています。基本的には国がインフラを負担している。ですから一番お金のかかる海外につなぐ費用などが出来ているわけですから、使うのが簡単です。使いたいというと、すぐ線を引き込める。

 海外へは新たなケーブルを引くということですか。

 基本的にインターネットは国際間の通話には電話会社の電話線を使いません。一部日本はKDDとかのラインを使っていますが、日本に来ている何本かは米軍が引いた光ファイバーなんです。日本の電話会社の線が切れた場合に、光ファイバーを使えばアメリカにはつながる。ですからそれらが全部瞬間的に無くなってしまうということは、おこらない。ですからその部分での安全性というのは高いんです。ただ今では、米軍の引いた光ファイバーだけではとても足りない。今はKDDのラインを使っていますが、太平洋ライン3本を2010年までにいれるという計画でした。それは20年計画でしたが、去年までにその3本を引き終わってしまったんですね。それでもう一杯なんです。2010年までには、もう3本引かなくては間に合わない。それだけ重要性が高い。大量のデーターがある。

 光ファイバーというのはかなりの情報を送れるという聞いているのですが、それでも足らないのですか。

 結局電話というのは音声ですから、光ファイバーの中に音声として、ある周波数を入れますと、一本120万回線入る。しかし、コンピューターの回線というのは、人間の言葉の幅ではない。デジタルデータがあると、それが100分の一くらいに減ってしまうんです。音声の100倍多いデータを送りますので、当然情報量としては回線数が減っている。同じ量を流そうと思えば当然何本も線が必要になって来てしまう。そういう部分が日本は遅れていたということです。今までKDDが独占していたものを、通信事業法を一部改正して国際電話会社を増やした訳です。それでもとても間に合う訳は無いんですね。それ自体がもう迫っていた訳ですから。
 住友商事とか日商岩井はシンガポールまで自前の線を持っています。自分の会社で引いちゃうんです。引く船が日本にある。海底ケーブルを引く船です。それは世界でも日本にしかない。それは、シンガポールまで2カ月で線を引いて行ってしまう。自前の線ですから、他の人に貸すことも事業法が変わったので出来る。
 プロバイダー(接続をサービスとして行う会社)が自分達の上の線の費用負担をしますので、その下に付いた人の会費などでそれを維持して行くというのが、インターネットのシステムです。 例えば足利で100何十名の人が入っている。それが業務の上のラインの費用負担を全員でしている。一人で引けば月額何十万以上のお金がかかるんですけれども、それを100人で割れば、その費用の100分の一とか200分の一ですんでします。それで大体同じサービスが受けられる。当然個人の人にとっては一番便利ですし、企業でも自分で引けばいいわけですが、そんなに経費負担をしてもしょうがないですから、どんどんそこに乗り変わって来ている。

 具体的なメリットは、またどんなことが出来るのか。

 インターネットの側面というのは二つあるんです一つは、買う側のインターネット。もう一つはインターネットを使って情報発信をする、送り側ですね。この二つが混在しています。圧倒的多数は情報を受ける側なんですが、新しいニュービジネスということで、情報を送る側になって来ている人達も多いのです。というのはお店を出すという訳ではないですから、例えば個人でやってもそんなに莫大な費用はかからないし、自分で自分の何か、パーソナリティを売り物にしたりと言うことも出来る訳ですね。例えば、私はカブトムシの飼育をしていて、一年幼虫、二年幼虫を一匹5000千円でお分けします。そういう部分で、何でも出来るんです。コンピューターの今までの文字の情報では無くて、絵の情報、動画の情報、それから音声も出せます。 紙のメディアの方にはちょっと失礼なのかも知れませんが、非常に近い存在なんです。紙のメディアというのは、視覚ですけれども、これに音声が加わってくると非常に強くなってくる。今の人は活字を読めないとか、いろいろある。それを絵で訴えてしまう。音声で来てしまうと、どんどん浸透して行ってしまう。ですから、文字の文化から完全に新しい、今までの雑誌とかのメディアから完全にマルチメディアという世界に移行して行く。マルチメディアというのは、インターネットの事だと私は思います。全てがそこに凝縮されて行く。それを行えるのはコンピューターでしかないわけです。それにプラス通信網、その通信のインフラとしてはインターネットがあれば、もう全ての情報のやり取りが出来る。

 それを扱えるコンピューターもそれなりの物を揃えないといけないのですか。

 そうですね。ただ、インターネットの場合は低価格です。それから、新しくこんなソフトを作ってこんな情報サービスが出来ますよというものは、今インターネット上ではただで配っています。入りますと、そこら中の大学のコンピューターにおいてありまして、それをもらって来て、セットして動かせばその場から使える。そして何かあったら連絡してくださいと書いてある。ソフトですからバグなんかがあるわけですけれども、バグがあればそのレポートを書けば、新しく直ってくる。どんどん新しくなって行く。その中で、それを作る人もビジネス化出来るかと考えて、一本千円で売りましょうとかなる。日本での利用者も500万人近くいますから、もし全員が買われたら500万本は売れる訳ですよね。マイクロソフトが去年売り出した、ウインドー95だってまだ1300万本しか売れていない訳ですから、それに匹敵する位のものがある。インターネットで使われているソフトは、だいたいモザイクが二人、ネットスケープが3人で作っています。アメリカでは今マイクロソフトに次ぐエクセレントカンパニーです。
 日本などでも例えば桐生などではわたらせネットなどが、ニフティなどにつないでやっていますが、パソコン通信というのはどうしても閉鎖的社会なんです。そこに加盟している人でしか一つの情報を共有出来ない。インターネットはインターネットでそれに加盟していなければ、共有出来ないんですが、その器自身が日本のニフティではなくて世界のインターネットになるわけですか唯一無二、ひとつしかない訳ですから、全員が入っていれば共有出来るわけですね。語学の問題を除けばね。

 全世界どこからでも情報を引き出せるわけですね。

 それはやはりポテンシャルが違うんだろうなと思います。ですから今、パソコン通信の上でインターネットに相互乗り入れ出来るように、変えているようです。一般のユーザーにそのサービスが出来るのは、インターネットの方が強いですし、そこを通じてやる方がかえって難しくなっている。
 パソコン通信がインターネットに乗り入れるというのは、インターネットとパソコン通信の違いで言うと、基本的にパソコン通信は画面で打ち込んでという形ですよね、インターネットは画面も写真とかそういうものも入って音声が送れてという形です。

 その乗り入れるというのは。

 同じサービスが出来るように、パソコン通信の会社がソフトを変えているんです。
 画面が入って音声も入って、という。ソフトもアメリカの学生さんが作ってパーっと全世界に配って、どんどんよくなっている。基本的にはただみたいなところでやっている訳です。ところがパソコン通信会社がそれをソフトまで開発してやろうとすると膨大な費用がかかる。実際は出来ないだろう。

 将来的にもテレビ電話ではないけれども、それでしゃべれる。

 パソコンの側にビデオカメラを付けて自分の顔を写しながらそれを送ってしまう。相手も同じことをやる、お互いの画面がそこで音声も伝わっているし、画像も伝わっている。それでパソコンの画面でどこが悪いとか、ここのデザインは悪いとかいいとか、テレビ会議みたいなものです。それがもうすでにやっています。マッキントッシュを使った方の方が進みが早いです。一昔前なら十万円や二十万円したのですが、今は2万8千円で付いちゃう。ちょっとしたものを付加するだけでそういうことができる。

 構造的な組織図で、世界の組織からここへ至るまでの流れは。

 日本には幾つかの大手プロバイザーがいるんですね。実際にはもう6社くらいあります。私共は東京インターネットの下に付いている。ユーザーさんがさらにもう一つ、これはボランティア団体なんです。実際は文部省が補助金を出していて、東大の電算センターにある。ここに線を集めるんです。それはNTTの交換機を使っています。

 ビジネス的に使った場合のメリットは。

 当然ビジネスに使う場合は、今までの企業は、ニューヨークに支店がある、東京に本社がある、という場合に自前の専用線を引いて来た訳ですね。ですが、インターネットを相互乗り入れすることによって、お互いの中間部分の通信の費用が要らなくなるんです。
 一カ月で30くらい増えています。
 お互いの市内料金でつながってしまう。間が要らなくなってしまう。例えばニューヨークの支店と東京の支店が専用線をつなごうとしたときに、両毛インターネットの交換だけを専用線にする。相手のプロバイザーから支店までを専用線にする。今までは自前で引いて行ったわけです。それがいらなくなってしまう。国際電話の専用線をKDDにニューヨークまで引いてもらうと、だいたい一カ月の使用料が600万円です。これが、市内料金だけですと、4万5千円です。アメリカの市内通話料金ははもっと安いですから2万円くらいです。極端な話ですと、600万円が6万5千円くらいで同じことが出来るんです。

 従来の電話回線はどうなるんですか。

 音声でやる電話回線とコンピューターでやる情報は全く違います。その中で音声も流せますということです。手段ですね。
 会費と市内料金だけ、数字的に見てもそのほうがお徳だし電話が要らなくなってしまうということにもならないともかぎらない。これが広がって、各家庭に一台ということになれば……。
 インターネットのためのパソコンが、通常のパソコンよりも安く、今、5万円で一式買える。今までのパソコンではない部分で使いたい。今までのパソコンは一太郎が使えるとか、ある程度利用出来るものですが、それ以外の人というのは、ワープロもいらないけれど、インターネットだけはやってみたいという事になってきています。


こならの森 95号

2008-04-21 | 創刊~100号
       ■こならの森95号■1996.3発行

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森4月号■

おぞねとしこのポエム…沈丁花………3p
その他の情報…/猫バス19……4p
知らんの5つの市/…5p
創作童話 4回………6p
結婚…松本さん夫妻 …96/1/21
インタビュー………8-11p
JC・JOURNAL………12-13p
郷土史家・両毛五市…2……14-19
インフォメーション95………20-23p
海棠市子の映画評……………24
書評・絵本紹介………………25
現代国語………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

インタビュー


杜氏  

力石 武司さん

■PROFILE:佐野市田島町の第一酒造(株)、杜氏。同酒造に勤めて24年。日本でもっとも権威のある全国新酒鑑評会において3年連続金賞受賞の経歴を持つ。16歳よりこの仕事に入る。昭和10年新潟県寺泊生まれ。

@代々杜氏をやってきているのですか。
 そうですね。出身は寺泊の町内でなくてちょっと離れたところです。前は海で、裏は山ですから農地も少ない。大体の人が、漁師か藁屋根の吹き替え職人という所です。そうだったものですから、冬になると出稼ぎにでる。おやじのころまでは半分農業、半分漁師というように、昭和23、4年くらいまでやってました。今では漁師やっている人はあまりいません。専門のね。信濃川の分水がうちの方へ出るようになってしまったんです。そうしますと魚の流れが変わってしまいますからね。土砂が流れて来てしまう。濁った水がそのまま出て来てしまうんですね。@何を捕っていたのですか。
 あの頃は鯛もいたし、後はイワシとかイカとかで、けっこう商売になったらしいんですよ。
@今現在は。
 土砂が海に入ってきて海岸が伸びてしまった。そこに盛り土をしまして田圃にした。そして希望者に割り当てた。ですから2、3反くらいはみんな田圃を持っています。
 私もそんなつもりはなかったのですが、家業である杜氏を継ぎました。中学を出たのが昭和26年、それからずっとです。その頃は、まだ高校へ行くのが私のクラスでも3人ぐらいでしたからね。私も行きたかったけれども、とにかく現金収入を得なければ生活が成り立たないという時代です。今の中学生と比べると純情でしたね。
@新潟県全体が、杜氏や蔵人が多いわけですか。
 新潟県も地区によってなんです。寺泊とか長岡近くの越路町が多いんですね。新潟県の中心部のところが多い。祖父も父さんも杜氏でした。私で三代です。中学を卒業してからですからこの仕事をして、42、3年になりますかね。
@技術的な事は、親父さんに教わったのですか。
 ではないですね。その蔵の杜氏さんについて教わりました。親父だといろいろやりにくい面がありますよ。
@最初はどこでしたか。
 新潟県内の西蒲原郡という所です。
@一般に一人前となるにはどのくらいかかるのですか。
 まあ人それぞれで違いますけれど、10年以上は必要かと思います。
@最初は米炊きくらいですか。
 お茶出しと掃除です。あの頃は厳しかったですね。杜氏さんの洗濯をしたり。私は2年くらいそれをしていました。
@その次ぎは何をやらせてもらえるのですか。
 私は運が良かったのかな、分析などをやらせてもらいましたね。これはもろみの成分の検査です。あの頃は今と違って、ただアルコールと甘辛です。日本酒度、後は酸度。酸が一番嫌われましたから、酸が出ちゃうもろみがおかしくなる可能性がありますから。
 そうゆうのをやっていると、もろみの発酵形態とかいうのが自然と分かってくる訳ですね。仕込んでからどのくらいだから、成分はどのくらいが適当とか、ある程度は教科書もありましたが、あの頃は自分で覚えました。手を取って教えてもらうということはなかったですね。今は教えて行かないとね。
@どのくらいのチームだったのですか。
 一番最初に行った所は15人くらいいました。その一番下ですから、最初は風呂当番とかもね。住み込みです。家からは近かったけれどもあの頃は通勤などということはとても考えられなかったですからね。
@成分分析の後は。
 20歳の時に、違う会社に行きまして、酵屋という役をもらいました。普通は、釜屋といって、酒米を蒸す係りなんです。順序はね。ですから一段階上に行ったわけです。それを2年くらいやりまして、麹屋を1年くらい。後は頭といって杜氏の下です。それらを4年ほどやっていたら、ちょうど運が良くって、一人の杜氏さんが大きい蔵へ出るというので、その後任に杜氏をまかされた訳です。24歳くらいです。その頃では一番若かったですね。本工場の分工場みたいな所でした。普通のところでは無理だったかもしれませんね。
@現在蔵人は何人でやっているのですか。
 今は私を入れて6人です。
@若い人もいるのですか。
 そうですね。今度は後継者ということで地元の人が入りましたし、女性の蔵人も参加して活躍しています。うちの方(新潟県)にはもういないですよ。出稼ぎ的な、こういう職業につく若い人というのは全然いないですからね。
 私たちがいるうちに後継者を育ててくれということです。そういうことで各蔵ともやっています。
@機械化といっても、どうしてもそう出来ない部分が多いですよね。
 オートメーションで全部流すという訳には行かない。よっぽど大手みたいなところでないとね。それに機械では一律のものしか出来ませんからね。コンピューターを使ってやる所も出て来ていますけれどもね。そういうのはある程度強制的にやってしまう訳ですからね。
 うちの蔵では手作りでやる、人の手でやる、そういうやり方をやっています。ただこういうのがいつまで続くか、一つの課題となります。
@期間中一番神経を使うところというのはどこですか。
 一緒に来ているグループの人達が高齢化していますので、そういう人達が無事に健康でやっていって欲しい、というところに気を使っています。技術的なことではないですけれどもね。
 技術的なことでは、やはり全般に使います。とにかく日本酒というのは、一つづつ組み立てて行く訳ですから。いちおう設計図はありますけれども、相手は生き物ですから設計図通りに行かないわけなんですよ。計算では出来ない訳です。気候とか、季節にも左右されます。天気予報にも注意していて明日は寒くなるとか、暖かくなるとかね。 杜氏になりますと、全般見ないといけないですからね。どこが一番大事ということはないですね。
 ですからどこかで狂うと、組み立てたものがずれてくるから、最後にできたものが思ったような酒にはならないんです。
 現在の蔵人は気の合った人達ばかりです。蔵の中がゴタゴタしていると、品質自体に影響が出てしまいます。
@高品質を維持して行くのにはご苦労があるのではないでしょうか。
 毎年同じ品質のものを造るということは非常に難しいことですが、毎年のデーター等を検討しながらやっている訳です。
 具体的にどうしたら良いものが出来るのかということは、我々にも分からないですよ。今回はだめだろうと思っていたら賞をもらったり、これはいけると思ったらそうでもなかった、ということがある。人が選ぶ訳ですからね。ある程度成分の規格というのはありますが、それは味とかには関係ないんですよ。
@審査員が飲んでうまいというのが、うまい。
 一口で言えばそうですが、全員にうまいと言わせるのは難しい事です。内容と成分が一致しないといけないですよね。経過が良好でも出来上がったものが必ずしもいいとは限らない。杜氏を40年近くやっていますが、始まるときは毎年一年生ですよ。毎年毎年米の出来が違います。それに気候ですね。表面上、何年杜氏をやっているというのは現れて来ますけれども、実際にやることは毎年一年生です。
@息子さんは(杜氏は)やらないのですか。
 通勤の会社勤めです。昔は農業をやっていてその暇なときに勤めに出てという形でしたが、今は逆ですからね。勤めに出ていて、日曜日を利用して農業をやるという方が多い。今は若い人たちを家族が出さないでしょうね。奥さんと離れてなどというのは、とても考えられないですよ。
@ずっと単身赴任で来ていると聞きますが。
 亭主元気で……なんて言うじゃないですか、いない方がいいんじゃないですかね(笑)。
@やはり、おいしい酒が出来たときは嬉しいものでしょうね。
 そうですね。鑑評会等で入賞するとホッとします。審査が終わって発表までの間というのは、眠れないですね。ノイローゼになりそうです(笑)。それと、入賞してもしなくてもやることは同じですからね。入らないとなると同じ苦労をしてくれた蔵人たちに申し訳が無いという気持になります。
 昔の杜氏さんというのは、いばっていましたからね。とにかく、やるからには杜氏にならなくてはと思いました。朝、あの頃は3時頃に起きたんですよ。その頃の酒造りというのは。ですが杜氏さんだけは、6時頃まで寝ていられるんです。これはもうこういう職業を続けるんだったら、杜氏にならなけりゃウソだと思いました。それそうとうに、それなりの努力ははやったつもりでいます。
@朝3時に起きるとなると夜は何時に寝た訳ですか。
 9時頃ですね。それも、夜中の番に当たると、夜中に起きなければいけない。それでも、その頃は元気が良かったから、夜外出もしました。ほとんど寝ないでね。眠いのはまいったですけれどもね。今思うと良い思い出ですよ。あの頃は遊びに行くといったって、映画くらいしか無かったですけれどね。本当にお金を使うところが無かったですね。床屋さんへ行くくらいでした。
@今年は県内初の女性の蔵人も参加しましたね。
 いろいろと細かい所に気が付きますし、女性がいるだけで雰囲気が違って来ます。新潟県でも増えています。
@女性の杜氏さんというのはいるのですか。
 女性で全責任をもってやっているというのはあまり聞かないですね。
 各部門で責任者になってやっているという人はいます。ただ今は技能士制度がありますから、国家試験の。もちろんそれが無くても杜氏をやっている人もいます。そういう資格をもっている女性の人もだいぶいます。これからはどんどん酒造りの方に入って来てもらいたいですね。
@最近は発酵技術も上がって来ていますね。
 バイオとかいっても我々には分からないですよ。これから先は我々の造っている酒と、若い人との造り方というのは違ってくるんだと思いますね。我々は今、住込でやっています。ですから何かあれば直ぐに対処出来ますが、これからの人は通勤でないとだめですから、そういうふうになると酒の造り方も変わって行くのも仕方がないと思います。それが少し寂しいですが、反面楽しみでもあると思います。

@どうもありがとうございました。


こならの森 94号

2008-04-21 | 創刊~100号
       ■こならの森94号■1996.2発行
表紙 田中重光さん 冬

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森3月号■

おぞねとしこのポエム…みつばち………3p
その他の情報…/猫バス18……4p
知らんの5つの市/福山=…5p
創作童話 4回………6p
結婚…鈴木宏規さん&朋美さん…96/1/21
JC・JOURNAL………8-9p
夢の架け橋………10-18p
野良犬先生………19p
インフォメーション95………20-23p
海棠市子の映画評……………24
書評・絵本紹介………………24
現代国語………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

インタビュー

橋上駅構想

PROFILE:
佐野商工会議所青年部 副会長
(株)ウインズワールド代表取締役
根 本 佳 英さん
 昭和24年栃木市生まれ。4才より佐野市へ移住。仕事柄海外渡航が多いが、印象に残っている場所は、スペインとか。日本に似ている所があるそうだ。旅行以外には、ルアーフィッシングや渓流釣りが好きという。

●今回の橋上駅構想の発端は?
 商工会議所に青年部が出来上がったときから、わりと自由な発想をしていた。その中に城山の利用があり、その研究と対策に取り組もうということになった。そこで出て来たのが、城山公園が何とか活用できないか、ということです。そこに跨線橋を作るといくらかかるのか、などいろいろな考えが膨らんだ。
 以前から城山公園の利用は少ない。それに両毛線の中の市政をしいている町で、両側に改札がないのは佐野だけなんですね。足利も出来ました。『やはり佐野は両毛の谷間なんだ。』という話になるんですよ。それではとりあえず、渡線橋だけでもつくろう。これは俗に言う歩道橋と同じシステムになりますから、ただ線路をまたいで作ればいい。どこかに、橋げただけを降ろさせていただければすむわけで、さほど規制にも引っかからないし大丈夫だろう。一億円ぐらいで出来るのではないか。一億ぐらいだったらもしかして市の財政を頼りにしてもそれほど迷惑をかけずに、あるいは我々の力で、寄付を仰いでという形で出来てしまうだろう。
 ということで取り掛かったんです。当時は、長竹さんという駅長さんだったのですが、こんな話があるんだと言いましたら、それだったならば橋の上に駅舎を乗せてみたら、という話になったんです。俗に言う橋上駅。初めてそういう名前がある事を知ったんです。
 単なる渡線橋はあちこちにありますが、そういった駅もたくさんある。駅舎とは別に単に渡るだけのもの。学生さんなどは向こう側に駐輪場があり、渡線橋を渡って駅舎に入っていくんですね。
 わりと埼玉県に多いんです。信越線とか上越線とか、東武線の駅などにも多い。改札が下になく、上に駅舎が乗っていてそこに改札がある。この近辺では、久喜駅がそうです。それを作ろう、そのほうが効率的にいいだろう。
 今の駅舎は明治21年に出来ました。もう、立て替えの時期に来ている。
●JRからも補助が出るのですか。
 基本的には市の財政を仰ぐしかないでしょうね。民間がそれにどのくらい後押しが出来るかということです。
 JR時代の慣習がそのまま引き継がれていまして、各自治体がやってください。それで駅舎については所有権の移転ということで処理する。今までは、市の持ち物だったのを、日本国有鉄道という官庁から官庁へという形で移転したので非常に簡単だったんです。運輸省へ所有権の移転をする訳ですね。
 そういった、お金かけたものを、所有権の移転という形でやる訳ですから、地方自治体の方は非常な負担になる訳です。自分の資産として残らないですからね。JRが株式会社になってもそのスタンスは変わらないんですね。それから、駅舎の善し悪しでJRの収入が増える訳ではないんですね。駅舎がきれいになったからみんなで、電車に乗ろうという訳ではない。
●そこがデパートとは違うところですね。
 今までに、いろいろな駅を見させていただきましたが、その中に自由通路部分というのがある。通るのは自由で、電車に乗る人は改札口へ行く。この自由通路部分は市の管理、所有物で、駅舎の部分だけJRの方に移転するというやり方が多いみたいですね。
 発想自体はわりと柔軟に考えられる話です。例えば、熊谷駅は市の管理の中にデパートを持っているんです。さらに、駐車場から直接駅舎に入れるようになっている。かなり大きい駐車場です。もちろん駐輪場などもしっかり持っていますので、すばらしい駅になっている訳です。篭原駅についても橋上駅になっている。そして自由通路が長い、普通の駅の倍くらいありますね。本庄駅などは市の管理で多目的ホールを持っている。広い空間を持っている。そこで、いろいろな催事をする訳なんです。駅に来ながらコンサートも聞けるし、絵画も見られるという状況になる訳ですね。市民が自由に使えますし、インフォメーションコーナーなどは、恐らくボランティアの方だと思うのですが、本庄で降りた方で、どこかおもしろい所を探している、という人がいたら案内してあげる。そうした自由な発想をしています。 これには割りと夢がありましてね、例えば新幹線の湯沢駅、上諏訪駅は、なんと温泉を持っているのです。わたらせ溪谷鉄道などは、完全なヘルスセンターです。サウナ付きのお風呂があって、露天風呂が二つもある。入浴料は500円でしたけれどもね………。お風呂に入ってちょっと行くともうホームに出てしまう訳です。
 佐野でもいろいろな発想が出来ることは間違いありません。もう一つの物産会館を併設することも出来れば、多目的ホールを作ることも可能ですし、城山の利用もすばらしいものになって来ますね。これは、手前みそ
になりますけれども、困る人はほとんどいないと思います。
●具体的な構想は。
 その辺のところで動き方も変わって来ます。市の方でも私たちと同じで自由通路を考えていたらしいんですね。
 どうせ造るならいいものを造ってほしい。おそらく旧渡線橋はそのまま利用して、新しい駅舎
を造る。自由通路の出口は城山の一段山と城東のテニスコート
にぶつかるのではないか、一番お金のかかる方法にはなります。 いろいろな問題が出てくると思います。北側の道が狭すぎる。新駅舎が造られれば駅前広場がほしい。南側は今の10倍くらいの広場ができることに決まりましたが、反対側にも広場の整備をやらなければいけない。空間を作らなければいけない。
●そのメリットは。
 一番のメリットは佐野の市民
として誇れる駅ができる。駅に行くのがうれしい。近所のお年寄りがどこぞかに集まるのではなくて、駅に集まる。駅に集まって世間話をする。集える駅。夢のようですが、そんな駅が出来上がったらすばらしい。それが最大のメリットではないでしょうか。
 佐野の駅は小さな駅で寂しい、この町でこれから過ごさなければいけないのか。最初に降りて駅舎を振り返って見たら涙が出た、という人も多いんですね。これから10万都市を目指すというのに………。
 商工会議所の3階から回りを見回しても高い建物は数えるほどです。また休みの日にどこかへ出掛けようと思っても、何もやっていませんものね。文化会館でもそうですよ、たまにいい出し物でもあるのならいいんですがやっぱりパッとしませんね。見たいなと思うようなものがなかなかない。
 だんだんに、こんなことをやりながら佐野の町もよくなって行けばいいと思います。
●完成はいつ頃になるのでしょうか。
 平成9年度に着工、建設に約1年ということですから、平成10年までにはできるのではないでしょうか。
 土地区画事業で道がどんと抜
けた最終点に駅舎ができますので、実に目立ついい駅になると思います。それともう一つは現駅舎なんです。壊すことが決まってしまった訳なんですが、愛着があるんですよね。
 夜などに行ってみるとあの駅は、いかにも田舎の駅で寂しさがあり哀調をおびていていいんです。何か別の形で何とか残せないかなという感じもあります。 駅舎というのは外壁などに使っているものは、スレートなどで余りたいしたものは使っていないんです。たださすがに何百トンという列車が走りますから、基礎とか建物の構造体は頑丈にできています。どこの駅舎もそうですが、並の振動ではありませんので、そういう点では、しっかりした建物ですから、引きずって引きずれない事はない。今そんな事を言うと裏腹の事をいうことになってしまいますが………、ちょっと惜しいという気がない訳でもないですね。
●一つぐらいシンボルになるものを残すということは、いいことかも知れませんね。栃木駅なども歴史的な建物ですね。
 栃木駅はなんと高架事業が決まりましたので、桐生駅と同じに高い駅になる。
●佐野もそんな話がありました。
 佐野駅と違いまして、栃木駅はちょうど南側がたんぼになっているんですよ。ですからそういう事業がやりやすいんですね。線路を迂回させておいて、交換してから線路をもう一度乗せ上げるという事が可能なんですよ。佐野はそれができない。やるとなると事業費が650億位かかると言われています。周辺の踏切から全部高架にして行くんですからね。
 それで佐野駅が頂上になってビルの5階くらいになりますか。桐生駅を思い出していただければ、そうとう高いと思いますよ。あれも曲がりながら列車が上って行きますよね。佐野ではとてもできません。もしやるなら、今の駅舎をやめてしまって、富岡なり伊勢山まで持って行ってそこでやる。駅はあっちなんだと、そういうくらいにしかならない。これにはものすごい反対が出るでしょう。
●かなりいろいろな駅を見て来たようですね。
 そうですね。駅長さんや助役さんにお会いできたところもあれば、そうでなかったところもありました。
●橋上駅の費用はどのくらいなのですか。
 はっきりしたことは分かりま
せん。設計図ができている訳ではないんです。見積に掛かった訳ではないが、議会の方へご報告ということで話しているのは、まず10億以上かかる。おそらく15億以内だと思います。
●内容やデザイン等これからも提案して行くと言うことですか。
 もちろんです。おそらく委員会ができると思います。そこに青年部からもスタッフを出したいと思っています。私共ではなくて、デザイン関係の事業を行っている人に出てもらおうかと考えています。
 何人かいますので、そうすれば発言の迫力も違って来ます。 大事なお客様を佐野駅にお迎えに伺うことだってあるんです。寂しいですよね。それが立派な駅になれば、ああ佐野駅は立派な駅なんですね、と言われる。
●完成後は、お祭りなどの行事も変わっていくでしょうね。
 春にはさくらまつりをやっていますが、あれも盛大になるだろう。それから秀郷まつりのメイン会場の一つになるのではないだろうか。何か他でやっていたものを持って行くことは可能ですね。
●ロックコンサートとか盆踊りなどですね。

 第二会場として機能すると思いますね。交通止めをする必要もないし、子どもたちも自由に遊べる。

●新駅舎と言っても通り一遍の駅ではなく、暖かみのある、佐野らしい駅だなと言われるといいと思います。

 佐野のキャッチフレーズは『水と緑と万葉の町』ですが、万葉の町と言ってもピンと来ない。それから緑と言ってもね、ただ水は良いと思っています。ですから水をふんだんに使った駅などはおもしろいと思います。 まさか屋根をラーメンで葺く訳にも行きません。いくらラーメンの町だからと言っても…。でもそういう発想がない訳ではないんです。ラーメンの屋台村とか、ただ個人的な利益に片寄る。本当はそれくらい思い切ったものを造った方がおもしろいんです。駅舎にお風呂だってできてしまうのですからね。そういう意味で、やろうと思えば何でもできる。それこそ日本中から注目される『佐野』になりますよ。
 若い人たちが駅の多目的ホールでロックコンサートを開く、それだっていいじゃないですか。
●町おこし、町づくりといってもいつも若者の声が聞こえない。
 最近はそうしたことが何かと話題になりますが、若者が騒ぐということが大切だと思っています。
 最初に動き出すのは、若い人たちです。この町だって、夜などは寂しくなってしまうが、これから若い人が頑張っていろいろなことをやっていけば、いい町になる。何もできないと思っていては、本当に何もできないですからね。
●今日は、どうもありがとうございました。



こならの森 93号

2008-04-21 | 創刊~100号
       ■こならの森93号■1995.12発行
表紙 「田中重光さん」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■

おぞねとしこのポエム…いぬ………3p
その他の情報…/猫バス17……4p
知らんの5つの市/旬=…5p
現代国語………6
お店………7p
創作童話 3回………8p
結婚…大山進さん&節子さん…96/11/19
1996年を占う………10-11p
12-19………歴史家が語る
JC・JOURNAL………20-21p
インフォメーション95………22-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

両毛五市の歴史家が語る夢構想

佐野市 安蘇史談会 会長
京谷博次

京谷 郷土史家が語る夢構想ですが、非常に大きな課題で、それに十分に答えられるかどうか不安です。
 佐野というところは、言語学的には西関東方言です。三毳山という山がありますが、それを境にして西関東方言、端的に言えば、このあたりも群馬県に入るかなと感じております。
 この地域の特色を通史的に言えば、古代から現代に至るまで交通の要衝の地だった。古代におきましては、東山道というのが通っておりました。古い時代は一直線で、しかも道幅は広いという、そういうような特色があります。
 近い将来、21世紀の始めになると思いますが、北関東横断道が完成の暁には佐野にもインターチェンジが設置されます。そういうことでこの地域の重要性というのは、増大すると思います。
 それから、17世紀後半には、秋山川下流に越名河岸というのが開かれまして、今で言う東京都の産業とか文化の交流、そういったものに大きく寄与しました。当時、佐野乾山という人が佐野に来たということが記録もあります。
 また、何と言いましても佐野の文化を代表するのは天明鋳物だと思います。鎌倉時代より残るその鋳造製品は農具とか日用雑器のほかに美術工芸品も造られ、国の重用文化財に指定されておるものも数多くあります。
 それから、日本史の中でこの地域の住民が顔を出して来ますのは782年です。その頃編纂された万葉集の東歌と言う中に、下野、栃木県の歌が二首あります。その二つの歌が、この地域を詠んでいると言われています。その他にも、5つか6つも佐野に指定してもいいという歌もあります。そういうことで、この地域は古くから都人を引き付ける、風景、景観があったと思います。
 いよいよ明治を迎え近代化の進む中で、1880年、明治13年には栃木県下最初の私立銀行である佐野合本銀行が創立します。またJR両毛線の前身である、両毛鉄道の開通は明治21年です。この年に春日岡町に洋式を取り入れた公園が完成します。今の城山公園ですね。『西洋風』というところに、時代の先取りをしたという気風が伺えると思っております。
 それか、政治の面なんですが、自治の確立を目指す自由民権運動の高まりの中に、あるいは公害問題の先駆者の中に、田中正造を見ることができます。そして、田中正造を支援する大勢の人々の姿もあります。
 明治から昭和にかけては近代歴史画家の先駆者と言われる小堀鞆音、現代では陶芸家で人間国宝の田村耕一先生も佐野の人ですね。このように見て来ますと、佐野はけっして文化不毛の地ではない、十分に誇っていいと思っています。
 さて21世紀に向けての、佐野新都市整備事業というのがいよいよ開始されまして、佐野市も明るい近未来というのが約束されました。しかし、その開発によって、万葉に歌われた三毳山周辺の自然環境が損なわれては何もならないと思います。先頃、地球上における絶滅種というものを国連が発表しています。それによりますと、現在絶滅の危機にさらされている動植物は全部で9400種だそうです。特に哺乳類と鳥類の絶滅の早さが加速されたといいます。
 この近郊の植物につきましても、16年前に須藤清市さんという人が調査した記録があります。それによりますと、398か397種が三毳山で確認されています。しかし、現在はそれよりも少なくなっていると思います。
 田中正造も、「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず」と言っています。私は、昭和45年から10年間かけて編纂されました、『佐野市史』の中で欠落している、動物編、植物編、そういうものの編纂を通して、豊かな自然、水と緑と万葉の古里・佐野を残すこと、それを明日の子どもたちへの遺産とすることが、とりも直さず田中(正造)精神を後世に伝える佐野市民の責任だろうと思っています。


こならの森 92号

2008-04-21 | 創刊~100号
       ■こならの森92号■1995.12発行

C・o・n・t・e・n・t・s

表紙 「田中重光さん 斜光」

■こならの森1月号■
町ミステリー…富士町………12-18p
野良犬先生………19
おぞねとしこのポエム…………3p
その他の情報…/猫バス15……4p
知らんの5つの市/…5p
海棠市子の映画評……………6p
書評・絵本紹介………………7p
創作童話 2回………8p
結婚します…青木隆さん&幸代さん…95/10/1
JC・JOURNAL………10-11p
両毛五市シンポ……………12-19p
インフォメーション95………20-25p
現代国語………26p
杜 @皇が占う今月の運勢…………27
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

両毛五市シンポジューム

■PROFILE:
(株)虎昭産業
代表取締役社長
内山久枝さん
設立20周年。従業員数1300名。
弁当・総菜業 工場所在地:栃木県
佐野市・茨城県守谷町・東京都足立区

 虎昭産業の内山です。総菜業を営んでおります。平均30万食を1300人の従業員で一生懸命作られせていただいております。
 どうしてこういう仕事を始めたのかというきっかけをお話しますと、私には二人の息子がおり、幼稚園の年少組のころ自転車に乗せて連れて行く訳ですが、当時はスクールバスなどというものはありません。遠く自転車で連れて参りますが、幼稚園では2時間くらいしか見ていてくれません。それで帰ってくるとまた迎え、ということになりますので、(家に帰らずに)幼稚園の近くの喫茶店で仲の良いお友達とコーヒーを飲みながらおしゃべりを楽しくしていた訳です。毎日そうしていますと、こんなふうに時間を過ごしていては………という事になりまして、お友達と何か始めましょうということになりました。
 約四畳半程の場所にテーブル、はかり一台、ガス台2台、鍋釜3つ、その程度で(総菜屋さんを)始めました。一生懸命工夫しましたので、スタートから非
常に売れたんですね。あまりの忙しさに、お仲間に入っていただいたお二人が悲鳴を上げてやめてしまった。結局最後に私だけが残りました。やめてしまおうかどうしようか、そのときに主人が励ましてくれました。せっかく始めたんだから続けたら、応援するから。
 それで二人のパートさんを改めてお願いしました。ちょうど今から28年前でございます。
 私は実は60歳でございますが、何も60にならなくても、30でも40でも必ず人を育てる立場になります。部下が出来て人を育てます。人を育てる立場には必ずどなたもなる訳です。ところが、自分が育てられている時には、本当に真剣に育ててもらわないと、ご自身が人を育てる立場になった時に育てられないんですね。不思議なものです。 男性はどうご自分を作られるのか、これはほとんどの男性がお仕事を通して、お仕事というのは人の付き合いがありますから、人との付き合いの中から戦い強調しあい、時には耐え難い屈辱にあっても家族を思いますと、あらゆる辛抱をして、そして責任感の強い男性が作られて行く。お互いに男女は神様から頂いた使命が違います。男は子供を産むことが出来ません。子供を育てることをも難しいです。でも、女性に出来ない多くのことを男性は出来ます。
 ところであなたには、『存在感』がお在りでしょうか。存在感というのはどういうことかと申しますと、そこにいるだけで明るくなる、楽しくなる。これは立派な存在感でございます。例えば、小さなお店があったとします。なぜか繁盛している。もしそこが食べ物やさんであれば、きっとおいしいんでしょう。ブティックであればセンスがいい。あるいは、ビューティサロンであれば、そこの先生のカットがお上手なのです。
 何かの理由でそこのお店が繁盛していらっしゃる。ですから、お店のサイズが小さくてもお店は大きな存在感がある訳です。
 一方200人も、300人も従業員を抱えている会社でありながら、ちょっと寂しげな寂れた会社があったとします。きっとそこの企業のお得意さんは、そこの企業の経営技術やサービスがお気に召さないのではないか、ですから注文が来ない。当然寂れて来ます。寂れるにはかならず原因があるんですね。そういう大きな会社であっても、その会社には存在感がないんですね。ですから存在感ということは企業の大小でも、平社員でも社長でもないんです。
 私は会社の社長さんとのお付き合いが多ございます。でも本当に存在感のある社長さんとはめったに出会えないんです。
 ところが、あの子は将来楽しみという、こういう社員は大勢います。それは、その人に存在感があるからなんですね。ですから、役職が部長だ社長だと言ってもそんなこと関係ありません。その方が周囲にいらっしゃるだけで幸せを撒いている、それだけで十分な存在感だとご認識をして頂きたいと思います。
 さて、またお話を変えて恐縮でありますが、今はほとんどが夫婦で働いている家庭が多ございます。しかし一方でお金を使うときはどうでしょうか、ほとんど女性が使っているんではないですか。食費の材料から衣服から、例えば日用品からほとんどが女性が払っています。
 ということは、女性がいかに消費者の立場に立つ機会が多いかということです。例えば100円の大根を買うときも消費者ですね。あるいは1万円のカシミヤのセーターを買うときも消費者です。非常に消費者という立場に立つときが多いわけです。 私共は今3つの工場で1300人の非常に働き者で頑張り屋の誠実な従業員が一生懸命にお総菜やデザートやサンドイッチを作ってくれています。その時の従業員やパートさんは仕事として一生懸命やってくれています。パートさんたちがお仕事を終わって、家路につきます。もよりのスーパーでお買い物をします。そうすると、その瞬間に彼女たちは消費者に変わる訳です。手に取ったホウレン草が堅そうだとか、汚れている。あるいはお肉。脂が乗っているとか、のっていないとか、お値段は………。もう非常に厳しい目でもってその商品を見る。そして、いろいろと選択した商品をカゴに持ってレジにいきます。今日のこの人、サービスが悪いわ、と思っているかもしれない。要するに消費者の目になると非常に厳しいんですね。 女性の方は非常に商品に対する不満、「何でこんな大きなパックにしちゃうの」とか、「もっと小さくしてくれれば助かるのに」とか、いろいろな不満を一番知っていらっしゃるんです。
 ですから、女性が一番起業家になりやすいと思いたいんですね。
 はっきりと言いますと、企業は、大企業から我々の中小企業までが、何とか自分の商品が売れないものか、あるいは売りたいと思っている。どうしたら売れるのか、これはお客様がこうしてほしいという商品を作れば売れる訳ですよね。ですが、これは一生懸命考えても分からない。大企業に至ってはそのために何百億の開発費を投入して新製品を作っています。どうしたらいいのか、どうしたら売れるのか、そういうふうにお金をかけて技術者や企画者をそろえてもなかなか消費者のお気に召す商品が出来ない。
 ところが女性は、毎日何回となく消費者の立場で実感としてたくさんの商品を、気に入らない、気に入る………とやっている。だとしたらば、女性の目というのは起業家には非常に必要なことです。また起業家になってふさわしい資質とかチャンスをたくさん持っていると思うんですね。
 ですがそれは、自分たちが世界や、世の中を見るときに、全て男性と同じ目線で世の中を見てそして男性と同じように厳しい責任感を持って見ればの話なんです。そうでなければ、いくら消費者の機会が多かろうが何であろうが、けして起業家にはなれない。紅一点という言葉がありますが、世の中そう甘くはありません。
 起業家になるには男も女もまったく同レベルで戦って行かなければならない。
 そうすると、女性の皆さんは消費ということにたいして、厳しい目を持っていらっしゃるから後ちょっとです。
 ほんのちょっと視線を変えてよく見ましょう。そして、厳しさもちょっと自分たちの暮らしの中に入れれば何にも遜色無く起業家としては男性よりもいいんではないかなと思うのであります。
 私も、今までに非常にいろいろなことを見て参りましたが、ご自分だけの幸せだけを願っている方はどこかでつまずきます。それは本当にはっきりしていることです。
 一方で「私、力がないんだけれど……」と、大変自信が無さそうな非常になよなよとした方が、「それでも何か私、できますか」というふうに、伺いを立て、「あっそれなら私にも出来ますよ。やらせてください」。こういう姿勢で長い間暮らして来た方は、自分だけの幸せだけを考えて来た人とはまったく差が出てくるんですね。
 皆さんは今幸せでしょうか、私は幸せです。しかし、今頂いています幸せというのは、皆さんもご努力したでしょう、私もしましたが、自分たちがした努力というのは今頂いている幸せのせいぜい5パーセントか10パーセント、後は全部、人様から頂いたものです。だとすれば、私たちも人様の幸せを作ることに協力しなければ、申し訳ない。御恩返しが出来ないではありませんか。
 ではどうしたら御恩返しが出来るのか、それは先程申し上げた、存在感のある人になると言うことです。そこにあなたがいらっしゃるだけで、周りの人が幸せになる、これは十分なお返しです。
 先程のお話ですが、小さな商店がある。「今日買いました。おいしかったわ。明日も買いましょう。」存在感あるじゃないですか。回りに幸せをまいてい
る。恩返しということは、何かを作って差し上げるということだけではなくて、自分がはつらつとして生きて行く、そして回りが「あの子いい子だね」という、もうそれだけ十分存在していると思う訳です。
 企業は社会貢献をしなければ存在感がありません。
 企業の社会貢献はたくさんの事があると思いますが、ただ一つだけ上げなさいと言われれば、これはずっと利益を出し続けてその利益に対して十分な納税をし、国家社会に貢献をする。利益を出し続けるということは、この企業にはお得意さんがいるわけです。お得意さんを追い続けて一生懸命にやらせて頂く。例えば、虎昭でありますと、キンピラとかサンドイッチとかが、「おいしい、おいしかったよ虎昭さん、また買うよ」というこの繰り返しで私共は30万食作っているんですから、どこのどなたか分からないんですが、30万人の方が食べてくださるかもしれない。お顔は分かりません。その方が無言のうちにご褒美としてくださるのが、利益なんですね。ですから利益は、お客様がいて、『お客様のために召し上がって頂きたい。喜んで頂きたい。』という思いで作れば、お客様は買ってくださいますから、また利益が上がる。そして利益が上がって御恩返しをする、これが社会貢献です。そういうふうに考える訳です。
 では、企業の社長としての貢献は何かと言いますと、これもたくさんありますが、私はいい人材の育成、これしかないと考えています。ではいい人材というのは、どういう人材なのか、これはもちろんのこと虎昭産業にとってのいい人材、役に立つ人ということもございます。でも、それでは人材とは言えない。 大体はたで見るよりも、実際にやった方が仕事というのは単純、もしくは辛い、あるいは退屈と言うことが現実です。その中で、こんなことやってられないわよね毎日。と思うことも実際にある。でもそれをそのように思ってしまうのか。例えばウチの社員が肉ジャガを煮ています。大学出ているんですよ。「俺がこんなことやってられるか」と思うのと、「ああ、今日もこんなに注文が来た、ありがたいな、だれかが食べてくれるんだな。」この自分の仕事を通して、そういう喜びを感じられるようになれば、最高の人材なんです。自分の仕事を通していくらかでも、社会に貢献していると思えるということは大変な人材です。そいう意味で、そういう心を持てるように、どう社長が教育をして行くのか、これは非常に荷の重いことでありますが、何としてもそのように社員を仕込まないといけない。したがって我が社は社員の教育に厳しいです。それは父親の愛情でしょうか、そうわ申しましても人間は弱いものですから、非常に、こんな厚い壁にぶつかって、長いトンネルに入ってしまってどうにも出られない。こういうこともございます。そのときには宥めたり、慰めたりして引っ張り上げ、そして頑張れよと言うふうに勇気づける。これは母親の愛情です。
 ですから、社長というのは、親の愛情がなければ出来ない。そして、親の愛情というのは汲めども汲めども尽きることなく出てくる訳です。
 それは今、私は実感として思っています。ですから企業のトップの社会への貢献というのは、いかにいい人材を何人作れるか、これに尽きるのではないかなと思う訳です。
 さて、自転車操業という言葉があります。これは普通はお金が苦しいとか、あるいは人手がなくて、頂いた注文をやっとの早さで作っているという時に使います。しかし、私はこの言葉は大好きです、自転車というのはその人の体力に合わせて真っすぐにペダルを踏んでいれば、前に行くんですね。ですが、ちょっといい気になり、片手をポケットに入れてルンルン気分でよそ見をしますと、小さな石にぶつかってよろっとしたり、場合によっては倒れます。これは個人でも企業でもそう、油断をしたりいい気になると、会社がおかしくなったり、あるいは必ず個人でも失敗をする。ですから真っすぐにペダルを踏んでいればいいい。そして、先ほど存在感ということを申しあげましたけれども、存在感イコール期待されているということなんです。
 そうしますと、虎昭産業が佐野市で期待されていると致しますと本当にありがたい、うれしい。でもこの期待は、その期待に応えなければいけませんから、これは重い荷物であります。
 必ず成せば成るでございます。普通の人がちょっとやれば何とかなるんですから、どうぞ皆様の将来も輝かしいものになりますように、陰からお祈り致しております。