KONASUKEの部屋

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金燈籠

2018年11月08日 | 旅行
金燈籠。

解説。
以下全文

 町人文化の華が咲き誇った文化文政の頃 ここ大田原宿は江戸の文化を奥州へ伝える旅人と みちのくの産物を江戸へ送る商人の行き交う宿場として栄えた
 たまたま文政二年(1819年)10月に「町内安全」の祈りをこめて建立されたのが金燈籠であり もの堅い人心の安らぎとなった常夜燈でもあった
 この燈籠は鹿沼の技工が鋳た由であり 本体基部には当時の町内有志及び世話人38氏が鋳名されている貴重な文化財であったが 太平洋戦争末期に供出し その姿を消したのは誠に残念なことであった
 その後 昭和30年7月 町内有志により三斗小屋宿から金燈籠を譲りうけ 百人講の尽力により復元されたことは 先人の意を継ぐ自然の情として高く評価されるところであった
 然しながら時代の推移に伴う車の激増により 金燈籠はその安住の地を失い 十字路の片隅に放置状態にあったのを昭和33年8月に黒磯市へ返還になったものである
 折しも金燈籠建設委員会が結成され 金燈籠再建の計画を発表したところ 上町内有志を中心とする各位の深い理解によって再建できたのは何よりも幸いなことである
 ここに「上町 江戸 白川」と刻まれた台石に往時を偲び 祖先の息吹きを感じとりながら 建設用地提供者並びに別記協力者一同に感謝すると共に 上町「金燈籠」が末永く伝えられることを望むものである

  昭和54年8月吉日
    金燈籠建設委員会代表
         上町クラブ会長  萩原高一
                   青柳 栄撰
                   中井本雄書
(カタカナはひらがなに、漢数字はアラビア数字に、旧漢字は現代の漢字に直してあります。)


要は江戸時代に作られた金燈籠を復元したもの、ってことだな。
改めて見てみると、台座に・・・

上町(何か置いてあって、「町」の字が隠れているが)

江戸

白川
と彫られている。

往時、ここが江戸と陸奥(みちのく)を結ぶ場所だったことが分かる。

まぁ、金燈籠の写真の背景を見てもらえば分かる通り、現在は大通りに面していて、金燈籠は目立たない。

ポケットパークとして整備されている。

芭蕉の「奥の細道」の一部が抜粋されている。
以下、全文。

奥の細道 元禄2年

 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらえて老いを迎ふる者は、日日旅にして旅を拪とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、

那須野  芭蕉
 那須の黒羽といふ所に知る人あれば、これより野越にかかりて、直道を行かんとす。遥かに一村を見かけて行くに、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜を借りて明くればまた野中を行く。そこに野飼ひの馬あり。草刈るをのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬにはあらず。
「いかがすべきや。されどもこの野は縦横にわかれて、うひうひしき旅人の道踏みたがへん、あやしう侍れば、この馬のとどまる所にて馬を返し給へ。」
と貸し侍りぬ。小さき者ふたり、馬の跡したひて走る。独りは小姫にて、名をかさねといふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、

かさねとは八重撫子の名なるべし
              曽良

 やがて人里に至れば、あたひを鞍つぼに結び付けて、馬を返しぬ。

 昭和53年5月  里の僧撰文して
          野夫これを建つ

初めての人じゃぁ、道に迷うかも知んないから、放し飼いの馬に乗ってけ、と。
馬は勝手に戻るから、馬が立ち止まったところで、乗り捨てていいよ、ってところか。
「那須野」の話も粋だけど、この碑も粋だねぇ。
「里の僧」とか「野夫」とかって(笑)

ど~でもいいけど、ちょっと気になる、このマーク。
金燈籠の土台にあったんだけど?
漢字の「不」のようでもあるけど、バランスが悪すぎるよねぇ?
他に何か、意味があるのか?
誰かのイタズラなのか?
今のKONASUKEには分かりかねます。

このベンチは、「とちぎの元気な森づくり県民税」で作られたそうな。
たぶん、「木製品整備支援事業」ってヤツだろうな。

「金燈籠」の場所はこの辺↓


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