3月に会社を退社したのち、実家に帰る。
合わせる顔もないので、ゆったり3日ほどかけて400のバイクで帰る。
弟と妹がそれぞれ入社した年。長男が会社辞めて実家に帰る。かなり辛かった。
帰宅ののち、しばらくニート状態だった。当時は、ニートという言葉も一般的ではなかったが。シンプルに浪人と言ってたかな。
辞めた直後に大阪の化学系の特許事務所を受けたが、うまくは行かず。甘くはない。
当時は、朝日新聞の土日の広告欄に特許事務所の募集があるなどということは知らなかったので。
いざとなったら、薬剤師の資格使うしかないのかな、と思っていたところ、東京の人材募集の会社の人から連絡を受けた。
静岡の研究所の管理の副部長(その研究所の管理のトップ)が、辞めてしまった自分のことを気にかけてくれていて、再就職斡旋の人材会社に手を回してくれていた。
見てくれている人は、見てくれているのかな、と感謝しかない。
副部長は、あんないい奴を惨めな辞め方させてはいけない、、と言ってくれていたそう。
会社勤務当時、実はやる気そんなになかったが、真面目には勤めていたのを見てくれていたのだろう。
東京の特許事務所勤務時代に入る。
御殿場の会社を出た年の5月から翌々年の2月まで。2年弱になる。
分野は、機械系。
志望は専門を生かした化学系だったが、そう甘くはなかった。
仕事があるので贅沢は言えない。
あちらも自分を採用するのに、あまり本意ではなかったのではないかと思う。
分野は一致しないが、なんとか事務所で生き残って、弁理士試験も合格しなければ、いけない。チャンスはつながった!と意気込んで東京に向かう。
自分は、あまり、やる気に満ちあふれた顔をすることができないので、ここでも、あまりいいイメージはなかたのではないか。
パソコンで文字打ち込むことも慣れていない。パソコンのオンもどこを押せばいいのやら、フロップ-に保存はどうやって?のレベルだった。
弁理士は、所長一人
勤務時間は、黙々と仕事をしている。
嫌な感じの人は、誰もいない。みな和気藹々とした雰囲気。
悪口、陰口はない。
虚勢をはる必要もない。
研究職とはまったく違う世界。
特許の仕事は、なかなか慣れないもので、感じすらつかめない日々だった。
ここを追い出されたら行くところがなかったので、必死だった。そうは見えなかったかもしれないが。
ここでも、習得速度の遅さは発揮していた。
いつか、いつか、と思いつつ、こなしていた。
気力を振り絞っていたが、何がきっかけか分からないが、突然、気力がなくなってしまった。
自分の場合、突然、こういうことになる。
2年目の正月すぎに、東京の事務所を退所した。
ふがいなさ過ぎて、悔しかった。
ここでも自分は、なにもできなかった。
しばらく、東京の事務所で、化学関係で採ってくれないかと、粘ったが、うまくは行かず、地元の大阪の事務所を目指すことにした。