社会人 製薬会社
当時 4月初日くらいに薬剤師の試験があった。
人事の人には強く勧められていたので、勝算はないが仕方なく受験
なんかいろいろ模擬試験みたいなの送ってもらったが、修論発表前なので、寝る時間確保に大変だった。そんな余裕がない。
グループとはほとんどコミュニケーションなかったが、今になって思えば、一体、なにしてた?
人事の人は、理系の事情知らない。
気は進まないが、一応、受けようとはしてた。ところが、試験当日、熱を出してしまう。
人事の人には、逃げたと思われただろうが、本当のこと
知らぬ間に無理を重ね、開放されたのが嬉しすぎたか。。
大学入るときも微熱に悩まされたので、長引かなければいいかな。
この年は、1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン
行くところ、災難がある。
会社の研修の第2部が、富士の、あの基地があったあたりと同じ場所なので、河口湖になっていた。
研修は非常に楽しいものだった。
大学の研究室のときみたいな、禍々しいものなかったし。
研修も終わって、御殿場にて勤務。
大学時代は悔しかったこと多かったので、挽回しようという気はあった。頑張ったほうかとは思う。
しかし、如何せん、大学時代に身につけるべきものを全く身につけていない点は否めない。
O大学大学院薬品化学専攻 のアドバンテージはまったくない。
3年くらいはなんとかごまかせると思っていたので、それまでに、違う道を見つけなければならない。しかも、周りに人に悟られないように。。
自分の趣味として、念願の400ccのバイク購入。
ヤマハのXJR400
暇をみては、出かける日々
1年目に、北海道に行くつもりが、青森でUターン。
2年目は、どこかには行ったと思うが、忘れた。
3年目に北海道に着く。
礼文島にも渡ったかな。
研究職を抜けて目指すべき道は、割と簡単に見つかった。
新人の年は、1年かけて、東京の王子の研究所に研修がある。
合成から薬理から病理から、、一通り済ますが、最後に、特許の研修があった。
弁理士、という職種を初めて知った。
自分が目指すべき道はこれかな、と直感があったので、すぐに取りかかる。
当時は、自前のパソコンもなく、携帯も所持していなかったので、どうやって情報集めたかその手段は忘れたが、静岡にLECがあったので、そちらで、週1くらいに、通学して、個室でビデオみて勉強した。
独学では、なかなか進捗悪かったが、とにかく、楽しかった。
本来的には勉強好きなほうなので。
残業もほどほどに、帰宅後、勉強、勉強、勉強。夢のある生活はいいな、。
あまり、そういう生活してると、その会社での出世は望めない。
あっという間の3年が経った。
ちなみに、薬剤師は、2年目の春に受かった。
そんなに勉強してなかったが、嬉しいものだった。
新聞にも載るが、御殿場で知ってるひと、見てくれる人は居ない。と思ってたら、会社で見てくれてる人がいた。
試験に受かる、というのはええもんだな。
淡々と、自分の勉強を帰宅後にしつつ、仕事も、一応、真面目にしてた。あとあとに、役に立つと思ってたし。何事も真面目にはする性分だったので。
ここでも、自分の習得速度、遅いな~、などと思ってたが。
3年目の年末くらいに、会社の景気が悪くなったとか。会社の主力製品を他社と共同で販売したところ、シェアがだいぶ食われたとか。。なにやってんだろうか。
そのしわ寄せで、のんびり研究している馬鹿どもから、営業に回す。。とか、なかなかな理屈で、何人かが、割を食うと。。。
やる気のない自分は、多分真っ先に、やられるだろうな、と思ってたら、やっぱり、当たった。
その頃には、転職のタイミング計ってたので、営業職の転勤は辞退して、退職することにした。
ふんぎりをつけるにはちょうどよかったか
本心では、あと1年居たら、そこそこの結果残せるかな~などと思ってたが。
追い出しコンパとかもしてくれたけど、ここでも、誰も、本心では惜しんではくらなかった。不徳のいたすところである。
東京の特許事務所にするか、大阪の特許事務所にするか、当てはなかったが、もう、覚悟を決めるほかなかった。
寮を出る。バイクに荷物を積んで、和歌山の自宅へ戻った。
なんか、無限に暇な時間がるのが、いたたまれなくて、3日ほどかけて家に。
楽しくはなかった。落ち武者気分だった。
しばらく、無職の覚悟である。