川端康成「掌の小説」所収の「指輪」を、トテトテトテさんにすすめていただいた。
読んだはずだが、遠い過去のことで記憶は蒸発しているのだった。青空文庫で探したが、まだ著作権保護期間中(TPP粉砕!)。文庫本は今もどこかにあるはずだ。読むのを楽しみにする。
さて、「川端康成 指環」で検索すると、『片腕』がヒットする。この作品のイントロ部分は、実にエロチックで蠱惑的だ。引用してみよう。
「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言つた。そして右腕を肩からはづすと、それを左手に持つて私の膝においた。
「ありがたう。」と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝はつた。
「あ、指輪をはめておきますわ。あたしの腕ですといふしるしにね。」と娘は笑顔で左手を私の胸の前にあげた。「おねがひ……。」
川端の生まれは大阪天満だが、幼児期から旧制中学校卒業期まで暮らしたのは、大阪郊外の茨木市。
ある日、仕事で茨木に立ち寄った。行きは阪急だったが、次の約束はJR乗り換え。阪急とJRは歴史的に仲が悪いせいか、同じ地名なのに駅は離れた場所にあることが多い。特に茨木(阪急は「茨木市駅」だが)はそれが極端で、両駅は徒歩15分、1キロは離れている。
阪急とJRのほぼ中間に市役所があり、そのあたりを走る道路が「川端通り」とネーミングされている。春には桜の名所らしい緑の遊歩道がある。天気もよく、次の約束まで時間があった。思い立ち、せっかくなので川端康成文学館を訪ねてみた。
平日の午後のことで、瀟洒な記念館には来館者は私のほか誰もいない。映画『古都』のポスターやスチールが展示されていたのを、何となく覚えている。が、強烈な印象を残したのは、『眠れる美女』の自筆原稿だった。くねくねとのたうち、生き物のように見え、背筋に悪寒が走った。あのぞわぞわ感は、今でも忘れられない。
(複製原稿でみると、そうでもないのだが……やはり、ヤバい人の文字である)
茨木は、かの酒呑童子と並び称される高名な鬼、茨木童子ゆかりの地でもある。ご当地キャラでもあり、市役所前の高橋という橋の欄干に、鬼の像がある。
この茨木童子が一条戻橋で渡辺綱に腕を斬り落とされたエピソードがある。道に迷っていた若い美女を、渡辺綱が馬に乗せてやると、女は突然鬼の姿になり綱の髪を掴み愛宕山に連れ去ろうとしたが、綱は慌てず名刀・髭切で、鬼の腕を斬り取って難を逃れた。その後、綱の屋敷に、年老いた伯母に化けて腕を取り返しにきたという。
片腕というと、『この世界の片隅で』のヒロインすず、『路地恋花』の友禅職人・佐倉を思い出す。前者は戦争の暴力に奪われる側で、後者は惜しみなく贈与する側だが。片腕を斬られた茨木童子も、一説には女だったともいわれる。川端康成もこの説を知っていたのではないだろうか。
(教訓。もし腕を貸したいなんて奇特な女が現れたならば、それは鬼だと疑ってかかったほうがいいよ)
【ネタバレ】なんで言及は不要です。
くろまっくさんは「美少女」とおっしゃる。川端康成は「娘」と書いています。「眠れる美女」でもタイトルはなるほど「美女」。本文は「娘」で。他の川端作品でも「娘」はたいてい十一、二~十四歳くらいまででしょうか。このことはロリータとは何かに関わる極めて繊細な問題だろうと。ご承知のように「娘」の年齢は作品ごとに様々。では具体的にそれは初潮前か初潮後かと問われれば、いずれでもありはしないと考えています。あえて造語すれば「初潮中」という比喩を当てはめて述べるしかない、人生でただ一回限りの、女性だけが知っている特権的期間を指して「娘」という言葉が使用されているのではと思います。川端作品に接するときはいつもなんですが、子供でもなく大人でもない女とはつまり比喩的な意味での「娘=初潮中」であり、年齢にはさしたる具体性などなく、ほぼその辺りの適当な表現にすぎないのでは?一見シュールに見えはします。それはそれで読者の読みの自由だと思います。ともあれ川端作品に出てくる「娘」が果たす機能というのは謡曲に出てくる「神」の機能に通じているのではと思うのです。日本だけじゃなく外国でも「神」はたいてい両性具有ですよね。ころころとよく変身しもします。この「神性」の具現者として、初潮前の性ではなく初潮後の性でもない、むしろ両方を同時に含んでいる初潮中の「娘」の性の奇怪さを曝露したくてたまらない自分がいる、ということを描き出さずにおれなかったのでは。「片腕」でいえば「いいわ、いいわ」/「いたい」の時期。「眠れる」の老人は不能です。不能でなくちゃいけない。ゆえに繰り返し「家」に通うハメになっています。「未熟の野生の温かさ」は不能者の官能に訴えて離しはしないのですが、不能ゆえにどこまでも不可能です。不可能ゆえに何度も繰り返し「娘=初潮中」のいる「家」へ通いつめてしまう。老人にとってその「娘」は「神性」の体現者として、決してフェティシズム(物心崇拝)やネクロフィリア(死体愛好趣味)の対象ではなく、恥ずかしいほど目に見えすぎる不可能性で武装された「神性=処女と非処女とのあいだ」に対する宗教的崇拝対象と化しているのだろうと。老人が不能であればあるほど嫌でも高まるほかない「神性」とでもいいましょうか。トテトテトテ~。