『思し召し』(おぼしめし)
☆-----お考え-----
「思(おぼ)す」は、
「思う」の尊敬語です。
「思ふ」に尊敬の助動詞「す」がついて、
「思はす」になり、
やがて、「おもほす」→「おぼす」と
変化していったのだそうです。
その上に、さらに尊敬の意を強める
「召す」がついた「思し召す」は、最上級の尊敬語。
昔は、敬語を、身分によって、
何段階にも使い分けていました。
この「思し召す」などは、
帝(みかど)や中宮(ちゅうぐう)に限って、
用いられる言葉だったそうです。
その感覚が、現代にも残っているのでしょうか。
今でも、神に近い存在に対して、使われる言葉ですね。
人の力では、どうしようもないこと……。
それを、運命とか、宿命と呼ぶ人もいるでしょう。
でも、『思し召し』と、とらえてみると…。
そこに、天からのメッセージがあるのではないかと、
思えてきませんか。
『思し召し』と、尊んで受け取る気持ちがあれば、
きっと、何事も、よい方向に、
いかしていけるのではないかと思うのです。
『駒返り』(こまがえり)
☆-----若返ること-----
今では、あまり使われなくなりましたが、
歳時記には、「駒返る草」「草駒返る」などの
表現として、残っています。
冬の間、枯れていたように見えた草が、
青々とよみがえってくること。
もちろん、春の季語です。
昔は、人が若返るという場合にも、
「駒返る」といいました。
語源は、「子めき返る」が
変化したものではないかといわれます。
「めく」は、「春めく」「ほのめく」などの
「めく」と同じ。
それらしい状態になるという意味を添える、
接尾語です。
子どものような状態に戻るということですね。
もともとは、「若返る」と書いて、
「こまがえる」と読ませていたようです。
「駒」は、子馬をあらわす漢字。
「こま」という言葉も、
「子馬(こま)」からきたという説もあります。
『駒返り』の「駒」は、当て字ですが、
若々しい駿馬のような、躍動感が感じられますね。
春の息吹を感じて、さまざまな命が、
いきいきと、よみがえる季節。
それらを見つめる私たちの心も、
駒返っていくような気がします。
『白日』(はくじつ)
☆-----照り輝く太陽-----
「白」という漢字は、象形文字。
頭蓋骨をかたどったものだという説と、
月が輝いている様子を映したものだ
という説とがあります。
たしかに、光の輝きは、
その強さが増すほどに、
白く感じられるものですね。
『白日』は、もともと、
晧々(こうこう)と照り輝く太陽を、
あらわした言葉。
やがて、そんな太陽が照っている、
昼間のことも、さすようになりました。
白日青天(せいてん)、または、青天白日……。
晴れ渡った、雲ひとつない青空に、
太陽が輝いている様子です。
身の潔白や、
何の障害もなく自由なことのたとえに、
よく使われます。
やがて、『白日』だけでも、
同じ意味を持つようになりました。
私利私欲のない心境という意味でも、
使われるようです。
輝く太陽の下で、何にもとらわれずに、
生きていけたら…。
こんな想いを托した「白日夢」を、見たいものですね。
『油断』(ゆだん)
☆-----注意をおこたること、気をゆるすこと-----
『油断』の語源については、
諸説あって、決め手はないようです。
まず、『涅槃経』の故事に由来するという説。
昔、王が、ある家臣に、
油の鉢を持って歩くよう、命じたそうです。
「もし、一滴でもこぼすと、命を断つ」
と言い添えて。
油がこぼれると、命が断たれる……ここから、
『油断』という言葉ができたとか。
ただ、『ゆだん』という言葉には、
「弓断」「遊端」などの漢字が、
当てられている例もあるのです。
そこで、この『涅槃経』説は、
疑わしいともいわれます。
素直に、
「火を灯す油が断たれると、
真っ暗になり、危険であるから」
という説もあります。
また、ゆったりとした様子をあらわす古語、
「寛(ゆた)に」が、変化したという説も……。
これは、後に『油断』という漢字が
当てられるようになったということです。
たしかに、気持ちがゆるんだときに、
『油断』してしまうことが多いものですね。
ゆったりとした心地よさの影に、
『油断』がひそんでいる…。
語源説ともども、その可能性があるということですね。