大石又七さんは20歳の時、マグロ漁船第五福竜丸の船員として、久保山愛吉さんら23人とともにマーシャル諸島ビキニ沖で、アメリカのブラボー水爆実験に遭遇した。放射能を含んだ珊瑚の白い粉―「死の灰」を浴び、大火傷とその後に続く急性障害・子の死産を経て、晩発性障害を何度も患っている。60年後の今年3月1日に娘さんとマジュロ島に行き、初めて慰霊の式典に参加された。そして「核兵器も原子力発電も私は断固として反対します」と発言された。
平和のために『ビキニ事件』を忘れない
船を下りて洗濯屋を営まれている大石さんは、著書『矛盾―ビキニ事件、平和運動の原点』で、平和の大切さを強調する。1950年ジョリオ・キュリー議長の世界平和評議会による「ストックホルムアピール」から始まった戦後の世界平和運動が、朝鮮戦争での原爆使用危機、ソ連・仏と原水爆実験が繰り返される中、日本でも東京杉並区の原水爆禁止署名運動が築地の魚市場から始まった。1955年7月「ラッセル・アインシュタイン宣言」が出されると、瞬く間に約3200万人以上もの署名が集まり、同年8月には第一回原水爆禁止世界大会がヒロシマで開催された。
しかし、ビキニ海域への放射能調査のため20代の若い科学者たちが『俊鶻丸』に乗り、7ヶ月に及ぶ調査をし、多くの報告を持って帰ったにもかかわらず、政府はマグロの放射能検査を中止した。『ビキニ事件』はもみ消された。日米交換公文調印で「原発の平和利用」と引き替えであったこと、お金で処理されたことが明らかにされている。当時の鳩山首相が「日本に原爆貯蔵してもよい」と言明し、アメリカは中国・台湾での核使用を公言している。
1954年から30年経った84年、大石さんは初めて和光中学校で生徒に『ビキニ事件』を語り、2011年の3・11東日本大震災と福島原発事故で中止されるまで、あらゆる場所での講演を、毎年切れ目無く続けてこられた。
マーシャル諸島へ行きヒバクシャに会う
ビキニ核実験でロンゲラップ島のヒバクシャ82人は、2日で避難させられた。しかし3年後の「安全宣言」で帰島を強制された。アメリカのやったことは体内被ばくの人体実験であり、放射線データの収集であったとその当時の記録が示している。ヒロシマのABCC(原爆傷害調査委員会)で行われていたのと同じである。そして28年後の1982年には、また離島させられる。なぜなら一部は除染されていたが、その時も今も除染されていない場所が存在し、島民の白血病、流産・死産が繰り返され、原爆症と同様の症状がなくならないからである。ところが2010年アメリカはまた帰島を強制し、支援を打ち切るという暴挙に出ている。新築された教会も、建てられた50軒の家も荒れ放題であり、「アメリカ人が暮らして、椰子蟹を毎日食べても、それでも元気であるならいいが、私たちは絶対帰りません。」とロンゲラップ島出身のレメヨさんは言う。
大石さんはマーシャル諸島に行く度に話をされているレメヨさんたちヒバクシャも徐々に声を大きくしてこられた。故郷を無謀に奪われ、故郷に戻れない悔しさをはっきり語られ、みんなで歌を歌われている--♪放射線を浴び、甲状腺ガンを患い、人生はめちゃめちゃ~核のせいです。私だけではありません、すべての環礁の、すべてのヒバクシャが、そう感じています~♪
子どもへ熱い思いを伝えたいと語り部になって
とりわけ大石さんは多くの子ども達に話をしてこられた。最初は目の不自由な少女に話をするために、手の中に入る模型船を作った。ある時、東京町田市和光中学校から、文化祭の資料収集のために6人の生徒と先生が訪れた。元乗組員の話を聞きたいと言う。大石さんは展示館にある福竜丸の模型を自作した。それがTVに出て、全国から依頼が来て、世界のヒバクシャとの交流が生まれたのだ。
それから『ビキニ事件』の重要な意味を考えるようになったという。「原爆の1000倍という巨大な水爆が、爆発と同時に作り出した27種類もの『死の灰』を多量にかぶり、その放射能が体内や特に骨の中に蓄積されるという内部被曝の恐ろしさを伝えたい。被害を受けるのは人間だけではない。あらゆる生物、特にあの広い太平洋を泳ぐマグロが何千何万カウントと汚染され、日本中がパニックを起こしたのだ。俺は学校で話す度にこのことを生徒たちに話した」。
第五福竜丸の数奇な運命
鰹釣り漁船だった第五福竜丸が、マグロ漁船に改造されて、静岡焼津から南太平洋に出た。被爆後は東京水産大学の練習船となり、そして東京湾夢の島に捨てられていた。1968年、当時26歳の武藤宏一さんが新聞に投書したことから、保存運動が始まり、地元の人々が身を投じての働きかけにより美濃部元都知事の保存・展示が決まり、展示館ができた。武藤さんは「上から押しつけた知識教育だけでは、本当の平和に対する認識は本人の内部に根付かないと思う」(77年6月)と言い40歳で亡くなるまで、後にヒロシマの平和資料館館長になる高橋さんと保存運動を続けられた。武藤さんは、4歳の時、父が兵隊に行き帰らなかった経験から、自身も「父の足跡をたどる平和学習」を続けておられたのであった。
大石さんが展示館や学校で毎年取り組まれている『ビキニ事件』の経験と平和の大切さを子どもたちに伝える活動は、ご高齢のため80歳で終えられたが、東京都にマグロを大量に埋めた築地にマグロ塚を作らせ、100年先の未来にタイムカプセルを繋げようと運動を続けておられる。
「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名
核兵器の全廃に向けた『宣言』の後のパグウォッシュ会議は、核実験が繰り返され、切迫した状況下で行われた。湯川秀樹博士とその甥の小川岩雄さん、朝永振一郎博士が参加し、世界10カ国24人の著名な科学者がその社会的責任を探る会議だったという。小川さんは日本の汚染データを持って参加したそうだ。「アインシュタインとの出会いが秀樹の平和運動の契機でした」と語る妻スミさんの言葉を小川さんは何度も聞いたという(中国新聞『検証ヒロシマ17―平和運動の黎明』より)。「科学者の責任」を常に問い続けた湯川博士。だが事態は進み、福島第一原発は、アメリカの原子炉を買って運転したのだった。
大石さんは言う。「憲法9条を持つ日本の自衛隊は、軍事訓練を直ぐ辞め、災害救助隊に名前も内容も変えるべきだ」「責任を感じるなら、発電所の中で、陣頭指揮を取るのが筋だ!!」。
(M)