地上を旅する教会

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然り【400年継承 霊魂祭 七尾・本行寺の住職 一日だけ司祭】

2013-06-08 11:24:04 | 今日の御言葉



「然り、わたしはすぐに来る。」

アーメン、主イエスよ、来てください。

主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。


【ヨハネの黙示録 / 22章 20-21節】新約聖書 新共同訳




▲高山右近の足跡を案内する小崎住職
(左)=いずれも七尾市小島町で


【石川】

★400年継承 霊魂祭 七尾・本行寺の住職 一日だけ司祭に

◆中日新聞 2013年6月7日


 「住職が一日だけ司祭になる日」が、七尾市小島町の本行寺で四百年にわたって続けられている。


 五月二十六日に営まれた、隠れキリシタンの例祭「アニマー(霊魂)祭」。キリスト教が伝来した十六世紀のポルトガルの料理が再現される一風変わった祭り。近年は信者でない人も多く訪れ、観光資源として注目されている。

 本行寺は一四八三年ごろ、能登畠山時代の茶道文化を築いた円山梅雪が開いたとされる。小崎学円住職(74)によると、加賀藩祖前田利家に招かれたキリシタン大名の高山右近が、境内に修道所を建て信仰を広めたという。

隠れキリシタン料理提供

 一六一四年、禁教令を発令していた徳川幕府により右近が国外追放。その後も信者や加賀藩の臣下が、キリストのため、決まって毎年五月二十六日に集まり祭りを続けてきたという。そこで供応されていたのが「隠れキリシタン料理」。今は、調理師免許をもつ住職が、寺に残る文献や口伝をもとに作っている。



▲アニマー祭で提供される隠れキリシタン料理


 御膳には、キリストの血を意味する赤米「大唐米」や、日本では黒色で敬遠されていたヤリイカの墨煮、右近が好んだ柿など五皿と赤ワイン、砂糖菓子が並んだ。「神前で、みんなで手を合わせて食べることに意味がある。それは神様も仏様も同じ」と住職は言う。

 二月には県の要請で、この「隠れキリシタン料理」を特許庁に商標登録。観光ツアーにも組み込まれるなどして、今年のアニマー祭には大阪府や奈良県から三十人が訪れた。「この日だけ、私は司祭になるんだ。面白いでしょう」と住職は境内を回り、胸に十字架が隠された仏像や、右近が追放される前に思いをはせた「嘆きの階段」を案内した。

 二〇一五年は、右近の没後四百年。「すでに『北陸新幹線を使って来ます』と予約をしてきた団体もある」という。住職は「私も年だし、手間や費用がかかって難しいが、来てくれた全員に料理を提供できるよう態勢を整えたい」と意気込んでいる。 (荒木正親)




▲イラスト・すずきたける


戦国武将の実力
★信仰か地位か迫られ~高山右近(1552~1615)


◆2013年5月23日 読売新聞


 高山右近(うこん)は、「利休七哲」の一人に数えられる茶人であるが、最後まで信仰を貫いた熱心なキリシタン大名として有名である。

 なお、通称の右近というのは、右近大夫あるいは右近允(うこんのじょう)
の略であり、名乗りは友祥(ともなが)
・長房・重友などが伝えられているが、いずれも当時の文書には出てこない。洗礼を受け、洗礼名をドン・ジュストといったので、ジュストを漢字にし、「重出」と署名したこともあった。

 織田信長から摂津一国を任された荒木村重の与力大名として高槻城(大阪府高槻市)の城主となっていた天正6年(1578年)、村重が信長に反旗を翻し、右近も同調した。信長は村重の与力大名の切り崩しにかかり、右近が熱心なキリシタンであることに注目した。宣教師のオルガンティーノを使って右近を説得させている。

 「抵抗をやめれば布教を保護するが、抵抗を続けるなら弾圧する」との脅しに屈した右近は、村重の有岡城(兵庫県伊丹市)に人質を出していたが、信仰の方を取り、あらためて信長の家臣として有岡城攻めに加わっているのである。


 その後、信長から優遇され、高槻には教会・セミナリオ(神学校)が建ち、高槻近辺の人口2万5000人のうち、1万8000人がキリシタンになったという。

 信長死後は豊臣秀吉に従い、天正13年には播磨明石城(兵庫県明石市)6万石を与えられ、同じ秀吉家臣の蒲生氏郷や黒田孝高( よしたか ) らを改宗させている。

 ところが、それから2年後の同15年6月、それまでキリスト教を容認していた秀吉が、俗に「伴天連バテレン
追放令」として有名な禁教令を出したことによって事態は一変した。



 禁教令が出た以上、大名としての地位を守るために信仰を捨てるか、信仰を守るために大名を捨てるかの二者択一を迫られる形となった。ほとんどのキリシタン大名は信仰を捨て、身の保全を図ったが、右近は信仰を守り通す道を選んだのである。そのため、所領を奪われ浪人となってしまった。本当の宗教者として生き抜く覚悟を示したわけであるが、なかなかまねのできる生き方ではない。

 その後、小西行長、さらに前田利家に招かれ、客分待遇ながら重臣の扱いを受けていたが、慶長19年(1614年)に国外追放処分を受け、長崎からフィリピンのマニラに送られ、翌年、マニラで病死しているのである。

(2013年5月23日 読売新聞)


プロフィール
小和田哲男 (おわだ・てつお)
静岡大学名誉教授
1944年、静岡県生まれ。
専門は日本史、特に戦国史研究。
今川氏家臣団の研究などで知られ、
主著に「今川義元」「戦国の城」。



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