わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
(『ルカによる福音書』11章4節)
まず知り合うこと
知りあえば
お互いに愛しあうようになるでしょう。
互いに愛しあえば
支えあうようになるでしょう。
もしほんとうに愛したいと願うなら
ゆるすことを知らなければなりません。
(マザーテレサ『愛のことば』より)
目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。
(同時にわたしたちのためにも祈ってください。)
(『コロサイの信徒への手紙』4章2節)
勉強も祈祷も熱心にしなければなりません。
愛を中心として
訓練もしなければなりません。
祈祷をして、精誠を尽くしなさい。
精誠を尽くす人には
必ず未来の世界が連結されるのです。
しかし、ある枝が折り取られ、
野生のオリーブであるあなたが、
その代わりに接ぎ木され、
根から豊かな養分を受けるようになったからといって、
折り取られた枝に対して誇ってはなりません。
誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、
根があなたを支えているのです。
だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。
倒れた者たちに対しては厳しさがあり、
神の慈しみにとどまるかぎり、
あなたに対しては慈しみがあるのです。
彼らも、不信仰にとどまらないならば、
接ぎ木されるでしょう。
神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。
もしあなたが、
もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、
元の性質に反して、
栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、
まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、
どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。
(『ローマの信徒への手紙』11章17節)
【枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった】
皆さんは
先祖の代わりとして生まれてきた
歴史的な復活体です。
その歴史はどのくらい長いでしょうか。
そのような長い歴史過程の苦労は、
結局は「私」一人をつくるものだったのです。
ですから、私たちは歴史的な結実体です。
だれでもメシヤ(キリスト)のうちにあるなら、
その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、
見よ、すべてが新しくなりました。
(『コリントの信徒への手紙二』5章17節)
天国では
犠牲になった者が主人です。
家庭は氏族のために、
氏族は民族のために、
民族は国家のために、
国家は世界のために、
世界は天宙のために、
そして天宙は神様のために犠牲になるのです。
結局、その目的は、
神様に到達し、
神様の愛を占領することです。
その特権をもっているのが人間なのです。
(R・S・M)
互いに重荷を担いなさい。
(『ガラテヤの信徒への手紙』6章2節)
困った時には手を差し延べ
苦しい時には励まし
嬉しい時には
互いに手を取り合って喜ぶ
そういう人間関係を築きなさい。
あなたがたが互いに
愛し合い、高め合う時
そこに神の国が造られるのです。
(R・S・M)
妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、
夫がそれを持っています。
同じように、
夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、
妻がそれを持っているのです。
(『コリントの信徒への手紙一』7章4節)
国や世界のために
夜も昼も意に介せず
夫と妻が公的な涙の事情を勧告し合い
親と子が受け答えをしながら暮らせる家庭には
「未来の幸福」が宿ることのできる
礎が芽生えます。
たとえ今は草屋か六畳一間の暮らしでも
そこには新たな国が興る
陽の光が輝きを放ち、
希望の泉がとうとうと流れるのです。
神の御心(みこころ)によるのであれば、
善を行って苦しむ方が、
悪を行って苦しむよりはよい。
(『ペトロの手紙一』3章 17節)
あなたが悲しい時
その姿を見ておられる神様は
もっと辛いことを知ってください。
あなたが傷ついている時
神様はもっと哀れな立場に立っておられます。
ですから、いつも
心に喜びをもつように心がけなさい。
(R・S・M)
同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。
夫が御言葉(みことば)を信じない人であっても、
妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。
それは、あなたがたの、
神を畏れ敬う清い生きかたをみるからです。
あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りをつけたり、
服を着飾ったりするだけの
外面的なものであってはなりません。
むしろ、内なる自分を、朽ちることのない飾り、
すなわち柔和でしとやかな心で装いなさい。
(『ペトロの手紙一 』 3章 1節)
「神様と会ったことはなかったけれど
わたしは夫を通して神様を知った。
純愛というものを知らなかったけれど
わたしは夫を通して純愛を知った。
兄の愛、兄弟の愛・・・・・・、
夫はすべての愛をわたしに教えてくれた。」
そのように妻から言われ
「神様より立派な人」として記憶されなければなりません。
そうして妻が
すべての母親が、
すべての新婦、
すべての姉を代表したような立場に立てるように、
その心情を誘発させる夫とならなければなりません。
人格的な価値は相手によって決定されるのです。
(R・S・M)
あなたがたをほかの者たちよりも、
優れた者としたのは、だれです。
いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものが
あるでしょうか。
もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして
高ぶるのでしょうか。
(『コリントの信徒への手紙一』4章7節)
百を与えて忘れることのできる神様の前に、
私は千を与えても忘れることができるようになれば、
神様が私の相対になってくださるというのです。
「一度善のために、神様以上にやってみよう」
と実践した人が、
地獄に行くでしょうか、
天国に行くでしょうか。
(R・S・M)
天国へ行くか、
地獄へ行くかは自分自身が決定します。
神様が決定するのではなく、
自分が決定するのです。
不平を言えば地獄であり、
不平を言いたい時に感謝していけば
天国だというのです。
(R・S・M)
つまり、こういうことです。
惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、
惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。
各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、
こうしようと心に決めたとおりにしなさい。
喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
神は、あなたがたがいつもすべてのものに十分で、
あらゆる善い業に満ちあふれるように、
あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることが
おできになります。
(『コリントの信徒への手紙二』 9章8節)
神様は常にあなたのことを
愛しておられます。
ですから、あなたは
神様に愛された分だけ
多くの人に尽くしてあげなさい。
人の和は、与えることによって
大きく広がっていきます。
(R・S・M)
神様から出発したものは
神様へと還っていきます。
純粋な愛を中心として生きていけば
永遠に循環することができ
永遠に愛を中心として回るのです。
そうでないものは永遠ではありません。
いつかは止まってしまうのです。
(R・S・M)
そして、こうも言われた。
「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
二人は一体となる。
だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
従って神が結び合わせてくださったものを、
人は離してはならない。」
(『マタイによる福音書』 19章8節)
誰がかわったのですか。
愛自体が変化したのではなく
愛を守るべき人が変わってしまったのです。
愛は革命されるものではありません。
革命することもできないのです。
純愛は変わりません。
純愛は永遠に変わらないのです。
私たちは知っているのです。
苦難は忍耐を、忍耐は練達を
練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。
(『ローマの信徒への手紙』 5章5節 )
しんどい夫にとっては、
おいしい夕食よりも一言の言葉、
初めて出会ったときに微笑んでくれた
あの純粋な表情、
どろどろとしていない
本然の純粋な愛らしい姿、
あの声が慕わしいのです。
初めて出発したときに感じた純粋な愛!
そこには色をつける必要がありません。
けばけばしたものも必要がなく
飾り立てる必要もありません。
革命する必要がなく
素顔のままで永遠に保障されることを願うのです。
(R・S・M)
あなた方に新しい掟を与える。
互いに愛し合いなさい。
(『ヨハネによる福音書』13章34節)
憎しみのあるところに愛を
罪のあるところにゆるしを
争いのあるところに一致を
誤りのあるところに真理を
疑いのあるところに信仰を
絶望のあるところに希望を
闇のあるところに光を
悲しみのあるところに喜びを
慰められるよりも慰めることを
理解されるよりも理解することを
愛されるよりは愛することを
(マザーテレサの愛した祈り…アッシジの聖フランシスコ)
この大軍を前にしてもおそれるな。
おじけるな。
これはあなた方のたたかいではなく、神のたたかいである。
その時、あなた方が戦う必要はない。
堅くたって、主があなた方を救うのを見よ。
ユダとイスラエルの人々よ、
恐れるな。
おじけるな。
明日敵に向かって出て行け。
主が共にいる。
(『歴代誌下』 20章15節)
環境に流されてはいけません。
イスラエル民族がカナンに復帰(帰還)したのちに
滅びたのは
環境に吸収されたからです。
(R・S・M)
勉強も祈祷も熱心にしなければなりません。
愛を中心として
訓練もしなければなりません。
(R・S・M)