主が来られるときまで忍耐しなさい。
農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで
忍耐しながら、
大地の尊い実りを待つのです。
「ヤコブの手紙」/ 5章 07節
新共同訳 新約聖書
危険から守り給えと祈るのではなく、
危険と勇敢に立ち向かえますように。
痛みが鎮まることを乞うのではなく、
痛みに打ち克つ心を乞えますように。
人生という戦場で
味方をさがすのではなく、
自分自身の力を見いだせますように。
不安と恐れの下で救済を
切望するのではなく、
自由を勝ち取るために
耐える心を願えますように。
成功のなかにのみ
あなたの恵みを感じるように、
卑怯者ではなく、失意のときにこそ、
あなたの御手に握られることに
気づきますように。
(『Bipode More Rokka Karo』ラビーンドラナート・タゴール )
『奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則の記録』
((幻冬舎)石川拓治 著より)
★成功するまで失敗し続ければいい。
ローマ法王に米を食べさせた男
・高野誠鮮さんインタビュー
【STORY OF MY DOTS】
◆greenz.jp 2014年4月28日 (グリーンズ)
http://greenz.jp/2014/04/28/jousenn_takano/
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地方の過疎問題や、それに対しての地域おこし活動が注目されるようになりました。限界集落を元気したいと思ったとき、あなたならなにをしますか?
高野誠鮮さんのやり方は、斬新なものでした。地元のお米を、はるか遠くのローマ法王に食べてもらうことでブランディングしたり、お酒の飲める女子大生限定で民泊をさせたり、古文書からUFOの記述を見つけてマスコミを大勢呼んだり。一見すると突拍子もないアイデアで次々と結果を出していきました。
特集「STORY OF MY DOTS」は、“レイブル期”=「仕事はしていないけれど、将来のために種まきをしている時期」にある若者を応援していく、レイブル応援プロジェクト大阪一丸との共同企画です。
今回は、まるでスーパーマンのような企画力と実行力を持つ高野さんの、現在に繋がる道程のお話をお届けします。
夢中になった航空宇宙の世界
▲高野誠鮮(たかの・じょうせん)
石川県出身。羽咋(はくい)市役所職員、日蓮宗僧侶、科学ジャーナリスト。テレビの構成作家として活動した後、実家の寺を継いで僧侶と羽咋市役所職員を兼務。著書に『ローマ法王に米を食べさせた男 過疎の村を救ったスーパー公務員は何をしたか?』
「学生時代はもう、馬鹿でしたよ。好きなことはやるんだけど、まったくモノを考えていませんでした」と話す高野さんが、多感な学生の頃に出会ったのは航空宇宙の世界。ちょうど、アメリカとソ連がロケットの打ち上げ競争をしており、未知なる宇宙のロマンに世界中が思いを馳せていた時代でした。
当時もっとも最先端だった、スタンフォード大学のペーター・スタルクさんという教授に、手紙を書いたんです。辞書片手に、下手な英語で「ぼくは先生のことが大好きです」って。今考えると気恥ずかしい熱烈なファンレターですね。
しばらく経ったある日、高野さん宛にものすごく大きなダンボールが届いたといいます。中身は、ペーター・スタルク教授の書いた山ほどの論文と返信のお手紙でした。
「君みたいな熱い学生からこんな熱烈な手紙をもらったのはひさしぶりだ。わたしの書いた論文を君にみんなあげよう」って書いてありました。もう、うれしくてうれしくて。
それ以来、ますます航空宇宙の世界に、のめり込んでいった高野さん。しかし、そこでもうひとつ大きな気づきがあったといいます。それは「自分から叩けば響いてくれる人がいる」ということでした。
アメリカで情報収集と戦略の大切さを学び、人脈を作る
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高野さんは、同じく夢中になったハンガリー出身の元情報将校、コールマン・ボン・キブスキーさんにも手紙を書きました。やはりファンレターです。すると、当時アメリカにいたコールマンから「アメリカに来ないか?」と返事がきたのです。
大好きな人から手紙の返信が届き、航空宇宙の先進国に誘われては、いてもたってもいられません。高野さんはアルバイトでお金を貯め、ヒアリングのカセットテープで英語を一生懸命学んだそうです。そして二十歳のころ、ついにアメリカの土を踏みました。
コールマンには随分可愛がられました。情報収集の大切さとやり方、どういう戦略がアメリカという国で取られているのか、また、軍事的な戦略の立て方なども徹底的に叩き込まれました。
物凄い人的ネットワークも作ってくれ、“人脈というのは人にひけらかすものではなく、人に分け与えて活用するもの”という哲学も教えてもらいました。
「彼らとのつながりが、ぼくの価値観やモノの考え方に影響を及ぼしたことは間違いありません。戦略の大切さも相当教えてくれた」とも話す高野さん。
それから10年以上経った後、地元の羽咋市でUFOによる村おこしや、徹底的に戦略を練って農作物のブランディングをするとは、当時の高野さん自身、おそらく想像もつかなかったことでしょう。まるでつながりが無いように思える青年期の日々が、後々の人生に大きな影響を与えたのです。
「あなたは家を継ぐ人」と言うふたりの預言者との出会い
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アメリカから戻り、そのときの知見を元に、宇宙関連雑誌のライターや、名物テレビ番組『11PM』などのUFO特集に構成作家として関わるようになっていった高野さんでしたが、ある時奇妙な出会いがあったといいます。
取材でニューメキシコに行ったとき、何気なくインディアンのおばあちゃんに、タロットカード占いをしてもらったんです。すると、のっけから「あなたは長男ですね」と言うんです。ぼくは次男なので、当たらないなあと思っていたら、次に「あなたは家を継ぐ人です」と言われました。
高野さんの実家はお寺でした。「長男であり、家を継ぐ人間だ」と言われたことが気になり、帰国後今度はよく当たるといわれていた、新宿の占い師のところに足を運んだそう。すると、またしても「長男ですね?」といわれてしまいます。
高野さんにはひとつ年上の兄がいましたが、すでに他県で家を建てていたため寺を継ぐつもりはなく、高野さんが継がなければお寺には別の人が入ってしまう。そんな状況でした。
ふたりの占い師に言われて、もう寺を継ぐのは運命だと思いました。
月給わずか6.8万円の役所臨時職員へ
しかし、大好きでやっていた航空宇宙やテレビの世界を離れて、将来寺を継ぐために実家のある羽咋市に戻ったものの、その当時は父が現役僧侶だっため、すぐに寺を継ぐというわけにもいきませんでした。
決してやりたかったわけじゃありません。それしか選択肢がなくて、役所の臨時職員になりました。月給が手取りで6.8万円。年齢制限があるため、もっと収入のいい正規職員になるための試験さえ、すでに受けられないという状況でした。
高野さんは上司に聞きました。「どうにか正規職員になる方法はないのか?」しかし、答えは「よっぽどこのまちにとって無くてはならない存在にならないと無理だ」という突き放したもの。そこで高野さんは決意しました。
無理だといわれるほど燃えるんです。やってやろうと思った。
高野さん28歳のころでした。
好きでない仕事だったからこそ、おかしなところがよく見えた。
▲高野さんが羽咋市で行ってきた取り組みは本にもなっている。『ローマ法王に米を食べさせた男 過疎の村を救ったスーパー公務員は何をしたか?』(講談社)
実は、高野さんの父も公務員で僧侶でした。その姿を小さい頃から見ていた高野さんにとっては、父親への反発もあり、そのどちらの職業についても批判的に見ていたといいます。
批判的に見ていたからこそ、おかしなところがよく見えたんです。たとえばその頃行なわれていたまちづくり大会。担当の人は大会に「600人も集めた」といって得意になっていました。また、よその地域の成功事例を聞くセミナーや、勉強会ばかりをやっていたんです。
「まちづくりそのものはいつから始めるんだろう?」と感じた高野さんは、担当者に「ぼくがまちづくりをしてもいいですか?」と質問。これまでのやり方に否定的だった高野さんに「やりたかったら勝手にやってみろ。臨時職員だから予算はつかないけどな」という言葉をもらいます。
なにも後ろ盾はありませんでしたが、高野さんの快進撃はここから始まりました。
まちをおこし、人をおこす。
まず手始めに、まちに足りていないところばかりに目を向けていたやり方から一転。歴史書から古文書までを読みあさり、羽咋市の一番だけを集めた『羽咋ギネスブック』を仲間たちと自費で作成し、まちの人に配布しました。
また、古文書の中に「麦わら帽のような形の飛行物体」という記述を見つけたことからうどん屋さんに「UFOうどん」というメニューを作ってもらってマスコミを集めたり、『UFOに市民権獲得か!?』という雑誌記事がブレイクして羽咋市の議会で取り上げられることになったり。
自分のまちがどんどんメディアに露出していくにつれ、市民も徐々に盛り上がってきます。
▲法政大学や明治大学の学生と地元住民とで作った棚田雛壇。学生と観光客を呼び込み、地域住民との繋がりも作った。
▲移住者で『神音カフェ』オーナーの武藤一樹さん。山あいの中のカフェながら、「看板は無い方がいい」と高野さんにアドバイスされ、驚くもののお店は盛況。「高野さんと会って人生が変わった」と話す。
その後は、先祖代々の仏壇があるために、古民家を移住者に貸したがらない人に対して、僧侶である高野さんみずから「抜魂」という儀礼を行い、貸主の心配を解消。また、若者を呼びこむために棚田を雛壇に見立てたひな祭りを、毎年都内の学生と地元住民で一緒につくりあげてきました。
▲絶え間なく買い物客が訪れる農産物直売所『神子の里(みこのさと)』。丹精込めて作ったものを正しい価格で販売し、農家自身の首を絞める安売り合戦はさせない。生産者の意識も徐々に変わっていった。
さらに、補助金頼みになっていた農家の所得を上げるため、農家自らが価格をつけられる直売所を、農家自身の出資を募って設立。補助金という足かせを外すことで農家の本気を出させ、商品や値付けにも工夫された直売所には、たくさんのお客さんが訪れるようになりました。
▲“ローマ法王に食べさせた米”『神子原米(みこはらまい)』で作ったおむすびも並ぶ。粒立ちがしっかりしていて、冷めてもふっくらおいしい。お米は発売とほぼ同時に完売する。
極めつけは、羽咋市の米をブランディングするため、田んぼのある神子原(みこはら)という地元の地名から“神の子キリスト”という連想をつなげ、ローマ法王への米の献上を実現。晴れて『ローマ法王献上米』になったお米に買い手が殺到しました。
でも、そこは高野さん、すぐには売りません。問い合わせには「品切れです。有名デパートになら残っているのでは?」と答え、今度はお客さんから問い合わせがきたデパートから「卸させてください」と電話が鳴ります。こうして神子原米は有名デパートにも並ぶことに。
高野さんの地域への貢献は、枚挙に暇がありません。このころには高野さんはすでに「まちに無くてはならない人間」になっていました。
成功するまで失敗し続ければいい。やめなければ成功する。
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多くの成果を残してきた高野さんでしたが、成功したものはあくまでも氷山の一角。成功の裏には、それ以上に多くの失敗があったと言います。
『天皇皇后両陛下御用達米』というブランドを作りたくて天皇皇后両陛下にお米を送ったら、「今晩の夕食に召し上がっていただきます」と宮内庁から返事が来て、ガッツポーズ。こりゃあ売れるぞ!と思いましたよ。
盛り上がった高野さんは、石川県県人会の事務局長や、地域のお偉方をみんな集めて、東京の赤坂のホテルでどんちゃん騒ぎをしたそう。
さんざん騒いだあと部屋に帰ったら、留守電のボタンが点滅していたんです。聞いたら宮内庁からで「今朝の話はなかったことに…」と。そんなずっこけや赤っ恥はたくさんあります。ふりかえれば、楽しい思い出ですよ。
恥をかいても、それでもチャレンジし続けることの大切さを、高野さんは大好きな航空宇宙の話に絡めて教えてくれました。
米ソのロケット打ち上げ競争が始まったときに、アメリカ側は数えきれないぐらいに失敗していた。打ち上がりもしないで、ポコンと横に倒れたりね。
ところがその失敗を繰り返していくうちに、月にまで到達するほどの世界最大級のロケットエンジンを作ってしまった。最高傑作です。これは失敗の積み重ねなんですよ。失敗するというのはやった証拠なんですよ。
ぼくはよく言われました。「そんなことやって失敗したらどうするんだ」って。ぼくの答えはいつも同じです。「成功するまでやったらいい」答えは簡単なんです。
うまくいく秘訣は、私心を無くすこと。
▲高野さんもお気に入りという直売所併設の蕎麦屋『そば処 里山』にて。
行動すれば、失敗もするし、人とぶつかることもある。高野さん自身、羽咋市の農家の所得を増やしたいと考えたとき、最初に農協の組合長とものすごくぶつかったといいます。
ぼくは、「今の農協は“脳が狂う”と書いて脳狂だ」といった。「お前、おれにけんか売りに来たのか?」といわれましたよ。
それで、
「ここの農家の所得は年87万円で、農協職員は600~700万円とかもらっている。米価は毎年下がっています。農協職員の給料は毎年下がるんですか?」と聞いた。下がるどころが上がっているんですから。これは狂っているとしか考えられないと思った。
でも、その2年後、大喧嘩した組合長が直売所オープンの際の来賓代表挨拶で、「本来農協がやらなきゃいけないことを役所がやってくれた」とお話してくれたそう。
私心を無くすこと。自分を無くしてしまえば物事うまくいくんですよ。自分をかっこよく見せたいとか、自分だけがお金儲けしたいとかそういうのを無くさないと、一瞬は人を騙せてもうまくいかない。私心が無いことが伝われば、反対していた人たちも味方になってくれるんです。
どうすればできるか、それだけを考えればいい。
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現在の高野さんは、映画『奇跡のリンゴ』で知られるリンゴ農家の木村秋則さんとともに、自然栽培を普及するための活動にも力を入れています。農薬や肥料を使わないという自然栽培は、農産物の総量に対する割合でいえば、わずか1%にも満たないもの。
しかし、どんなにハードルが高くても、高野さんは“できない理由”を考えるのではなく、できる可能性にかけて実行していきます。
どうすればできるか、それだけを考えればいい。できない人はやらないからできないだけなんです。以前なにか提案したとき、70歳代の方に反対されました。「そんなことくらいは、わしだって考えていた」って。ぼくは言いましたよ。「いつまで考えているんですか?なぜ今までやらなかったんですか?」って。
切れた電球の下で、暗いと不平をいったり。議論してたって、いつまでも明るくなんかならないですよ。実際に電球を変えなきゃ、明るくなんかならないんです。
なにかを始めるとき、決断ができないとき、進路に迷うときに思い出したくなるような高野さんの言葉です。なにかをやるとき、そこには責任が発生します。でも、自分で責任をまるごと負うという気概こそが、現状を前に進めるためには大切なことなのかもしれません。
人間は揺らいでしまうと、理由を自分ではなく外に出したがるものなんです。あの人が反対してるからとか、まだ時期じゃないとか、補助金がないとか。理由を外に出すから、うまくいかなくなると後で人を恨むんですよ。それは卑怯者です。自分ができることを精一杯やればいいんです。自分以外の人や環境を理由にしちゃいけない。
そして、自分の目指す先がわからないときに、どう考えたらいいのか、自分の役割の見つけ方についても教えてくれました。
頭でいくら考えても答えが出ないことは、たくさんあります。でも、頭は浅知恵でも、ぼくらの身体は天才です。自分の身体を見てください。正常な細胞は、死ぬときに自分の残ったエネルギーをほかの健常な細胞に与えて死にます。その正常細胞の生き方を真似すればいいんです。
つまり、人間はどう生きるべきか、それは慈悲利他(じひりた)であり、自分以外の他者を生かすこと。それが人間の生き方なんだと思います。
高野さん自身がそうであるように、「若い人に活躍してほしい。自分の知恵を伝えたい」という大人はどんな分野にも数多くいます。自分が動けばそんな出会いはきっとそこかしこにあることでしょう。まずは、それをすると決めること。進む先にはきっと師になる人が待っています。
http://greenz.jp/2014/04/28/jousenn_takano/
(greenz.jp 2014年4月28日 )
■磯木淳寛(Isoki Atsuhiro)
フリーライター。
食、農業、地域、文化などをテーマに雑誌や
webの原稿を手掛ける。
地域に根差した固定種で野菜を育て、
伝統的な日本文化を発信するカフェ&宿泊施設
『ブラウンズフィールド』の企画・運営も務める。
『月刊ソトコト』『NORAH』『離島経済新聞』
『農業ビジネスマガジン』ほか。
【Facebook】磯木淳寛
【Twitter】 http://twitter.com/qotoro
【WEB】ブラウンズフィールド
▲木村秋則さん (写真)
(『奇跡のリンゴ』石川拓治)
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