こんなことを言って、
今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。
それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。
あるいは、何とかして
人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。
もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、
わたしはキリストの僕ではありません。
「ガラテヤの信徒への手紙」 / 1章 10節
新約聖書 新共同訳
天国に行ける人よりも
天国を築ける人でなければならない。
天国に行ける人は
神様に頼ろうとする人であり
天国を成せる人は
神様の頼りとなってあげようとする人である。
★教会の模範としてのマリアを考える、教皇一般謁見
謁見とアンジェラスの祈り
◆バチカン放送局 2013年10月24日18:15:19
教皇フランシスコは、バチカンで23日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
謁見中、教皇は「教会の象型と模範としてのマリア」をテーマに、カテケーシス(教会の教えの解説)を行われた。
「聖アンブロシウスがすでに教えたように、神の母は、信仰と愛とキリストとの完全な一致の領域において、教会の象型である」という教会憲章 (n. 63)のことばを教皇は提示。信仰・愛・キリストとの一致の模範としてのマリアを考察された。
まず「信仰の模範」としてのマリアを捉える上で、おとめマリアとは誰であったかを考えるよう教皇は招いた。そして、ユダヤの民の贖いを心から願う少女であったマリアが、贖い主の母となるという神の愛の計画を天使のお告げで知らされ、それに「はい」と受諾したことで、神の御子イエスの母となり、信仰の光の下、イエスに人生のすべてを捧げることになったその生涯を思い起こされた。
マリアの信仰はイスラエルの信仰の完成であり、マリアの中に贖い主を待ち望んでいたイスラエルの民のすべての歩みが凝縮されていると教皇は強調。この意味でマリアは、神の無限の愛の受肉であるキリストを中心に据える教会の信仰のモデルであると説明された。
一方、マリアはどのようにこの信仰を生きたのか、それはすべての母たちと同様に、毎日の生活の様々な心配や配慮の中をシンプルに生きるものであった。聖母のこの普通の生き方こそが、神との、またイエスとの深い対話の土壌となっていたことを忘れてはならないと述べた教皇は、「マリアは我々からかけ離れた存在ではなく、わたしたちの母なのです。試練や困難の時も神に信頼するマリアの信仰の模範に学びましょう」と呼びかけられた。
また、教会にとっての「愛の生きた模範」としてマリアを考える中で、教皇はマリアが親戚のエリザベトを訪ねていったエピソードに言及。エリザベトを訪問しながら、マリアは物的支援だけでなく、自分の胎内のイエスをももたらしたと話された。
「教会も、マリアのようにイエスという大きな贈り物を人々にもたらし、イエスの愛と平和と喜びを伝えなくてはなりません。イエスとその愛をもたらさない教会は死んだ教会です」と教皇は説き、さらに教会とわたしたちがもたらすその愛は、イエスのように無償の愛でなくてはならないと念を押された。
マリアが「キリストとの一致の模範」とされるのは、祈り働くその生活の行動のすべてが常にイエスとの完全な一致のうちになされていたからであると教皇は話された。
「マリアのイエスとの一致はカルワリオで頂点を迎え、マリアは心の殉教をもって、また人類の救いのために御父に命を捧げることでイエスと一致しました」「聖母は御子の苦しみを自分のものとし、御子と共に神の御旨を受け入れました」と、教皇はイエスと常に一致したマリアの生き方を指摘。
自分に必要な時だけイエスを思い出すのではなく、マリアのように、たとえ十字架の道であってもイエスとの深い友情、耐えざる絆を保てるかを自問するよう、信者らに勧められた。
(バチカン放送局 2013年10月24日18:15:19)
★「使徒的教会の素晴らしさを再発見しよう」教皇一般謁見
◆バチカン放送局日本語版 2013年10月16日 18:22:19
教皇フランシスコは、バチカンで16日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、信仰宣言(クレド)中の「聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます」という箇所の「使徒的」という表現に目を向けられた教皇は、なぜ教会は使徒的であるのかを、参加者らと共に考えられた。
教会が使徒的であるということは、イエスがご自分のそばに置くため、また派遣して宣教させるために召し出した使徒たち(マルコ3,13-19)と彼らと共に成長していった教会との緊密な関係を明示するものと教皇は説明。
実際、使徒という言葉はギリシャ語で「派遣された者」を意味するように、使徒とはイエスの業を引き継ぐようイエス自身によって選ばれ、召され、遣わされた人々であり、使徒たちが継続するその業は、第一に祈ること、第二に福音を告げることであると話された。
「教会が使徒的であるのは、それがキリストご自身がその権限を委ねた、使徒たちの宣教と祈りの上に築かれているからである」と話された教皇は、わたしたちの信仰、キリストが望まれた教会は、思想や哲学の上ではなく、キリストそのものに根差していることを忘れないよう招かれた。
教皇は、教会を何世紀にもわたり育ち、枝を広げ、実をもたらす木にたとえられ、その根はキリストと、キリストが選び派遣した使徒たちのキリスト体験にしっかりと根を下ろしていると説かれた。
使徒たちがイエスと共に体験し、イエスから聞いたことを、どのように今日のわたしたちまで伝えることが可能なのかと問いながら、教皇は「教会の中に住まわれる聖霊の助けによって、守り、伝える」教会の役割と、教会がそのために長きに渡り大切に守ってきた聖書、教理、秘跡、司牧者の聖務の存在を示された。
教皇はここで、教会を一つの川にたとえられ、歴史を通して流れるその川は水流を広げ、地を潤すが、その水源は常にキリストご自身であると話された。
また教皇は、「教会が使徒的なのは、世界中に福音をもたらすよう招かれているからである」と、教会の宣教性を強調。
キリストは使徒たちに宣教を託され、わたしたちにも人々に出会い、福音の喜びを伝えるよう招いていると述べた教皇は、「自分自身の中に閉じこもった教会は、教会のその本質を裏切るものです。さあ、使徒的教会の素晴らしさと責任を再発見していきましょう」と、信者たちに呼びかけられた。
(バチカン放送局日本語版 2013年10月16日 18:22:19)
【今日の御言葉】