地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

真実【宗教改革の先駆者… ヤン・フス(1370年ごろ~1415年)】

2013-06-16 00:54:02 | 今日の御言葉

不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

【コリントの信徒への手紙一 / 13章 6節】新約聖書 新共同訳



私たちは愛で生まれ
愛で生き

息子・娘を産んで
愛の目的地に到着して

永遠に神様と共に生きるために
神様の所に帰るのです。

私たちの一生は
愛で始まって
愛で熟して
愛の実として収められるのです。






★宗教改革の先駆者…
ヤン・フス(1370年ごろ~1415年)チェコ・フシネツ

: ちきゅう時の散歩 : 旅のしおり : 新おとな総研 :
YOMIURI ONLINE(読売新聞)


◆読売新聞 2013年6月14日




▲ヤン・フスの故郷のフシネツの目抜き通りは今日、鮮やかな色に塗られた建物が連なる


15世紀、チェコでカトリック教会を批判し、欧州の宗教改革の先駆けとなったヤン・フス。南部フシネツの貧しい農家出身のフスは、今でもチェコの人々から敬愛を集めている。

鮮やかな色の建物が続くフシネツの目抜き通りの端に、ヤン・フス博物館がある。かつてフスの生家があった場所という。「正しいと信じたことを貫き通す意志の強さが、感動を呼ぶ」。フスが異端の罪で火あぶりにされる場面を描いたパネルの前で、学芸員のヤナ・マウノバさん(30)が力を込めた。

フスの肖像画や彫像は丸顔だったり面長だったり、まちまちだ。「チェコがオーストリアのハプスブルク家に支配された時代、フスに関係する絵や書物は焼き尽くされた。本当の姿は誰もわからない」。マウノバさんが説明した。



▲ヤン・フス博物館内にある、フスが暮らしていた当時を再現する部屋


塩の交易ルートに沿うフシネツで育ったフスが、プラハのカレル大学で神学を学ぼうと思ったのは、聖職者の静かな暮らしに憧れたからという。その後の荒波は想像しなかっただろう。フスはカレル大学の教授、総長と出世する間、英国の聖職者ジョン・ウィクリフによるカトリック批判に共鳴し、教会改革に目覚める。免罪符販売や聖職売買を厳しく非難した。

無論、カトリック教会は黙っていない。フスはローマ教皇から破門され、ドイツ・コンスタンツで異端審問にかけられた。自説の撤回を拒み、火刑になったのは1415年。最期の言葉は「真実は勝つ」だったとされる。

プラハの礼拝堂の司祭としても、平易な言葉で語ったフスは、貴族や民衆の間で支持を広げた。フスの処刑後、フスを慕う人々が反乱を起こしたのが、約20年に及んだフス戦争だ。ローマ教皇の命令で、フス派討伐の「十字軍」が再三送られたが、フス派が毎回勝利した。この期間は、チェコが外国の干渉に打ち勝った、民族の栄光の時代として刻まれている。

◆郷土の人々に愛され続ける



▲フシネツの中央に立つヤン・フスのブロンズ像


17世紀以後、チェコを支配したハプスブルク家は、カトリック化政策を徹底してフス派を排斥したため、フスの記憶はかき消された。それでも19世紀、民族主義運動が勢いを増すと、フスは外国支配への抵抗の象徴として復権する。20世紀の初め、チェコスロバキア共和国初代大統領に就いたトマーシュ・マサリクはフスの「真実は勝つ」を国の標語にした。

「フスは、共産政権時代に対して複雑な思いがあるだろう」。こう語るのは、フシネツのルドビク・フリードバーガー町長(62)だ。町の真ん中に、フスの大きなブロンズ像が立つ。冷戦時代、共産主義政権が建てたものだ。「共産党は、教会権力に挑んだフスを革命家と呼び、同志として宣伝した」と町長は言う。

その共産党政権が民主革命で倒れて20年以上。「フスが郷土の出身というだけで、うれしいじゃない」。像の近くでペットフード店を営むブランカ・チェルマコバさん(34)は笑う。静寂を求めてフシネツを出発したフスは、ようやく穏やかな居場所を得たようだ。(文と写真 石黒穣)

( 読売新聞2013年6月14日 )

【ヤン フス】

カトリック教会の改革を唱え、教会の土地所有などを批判。異端者とされて火刑に処せられたのは、ドイツでルターが1517年に「95か条の意見書」を出して宗教改革の口火を切る約100年前にあたる。



◆コリントの信徒への手紙一 / 5章 8節

だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、
パン種の入っていない、
純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。


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