奈良滞在中に昔の街並み残る奈良町界隈を散策しました。江戸時代には大和盆地から産物を運ぶ人々が往来し問屋街として賑わった場所。奈良晒や砂糖、蚊帳などの老舗が今ものこり、外からは見えにくく中からは外がよく見える細かい格子の家が並んでいる。
その一角に寧屋工房という赤膚焼のお店がありました。赤膚町にある窯元とは違った風情、格子戸を開けると手前には茶碗やお皿が並べられ、奥の真っ暗な部屋では幻想的な灯りが灯っていました。作家武田高明さん、笑顔で気軽に赤膚焼についてお話をして下さいました。大変興味深いお話が多く、ついつい長居をしてしまいました。茶道具もありますが、特に燈火器の制作で有名で、お寺や博物館の敷地で光のパフォーマンスも行っているという。彼の作り出す幻想的な光の世界を一度体験してみたいと思いました。
寧屋工房
http://www.neiya.com/
赤膚焼を大別すると、奈良・桃山の古窯、徳川期の旧窯、徳川末期~現在の新窯の三期があり、現在の赤膚焼が確立したのは旧窯の中期以降。
奈良には古墳がたくさんありますが、その為古くから埴輪や陶棺、祭事用の土器などが作られていました。垂仁帝の頃、野見宿禰(のみのすくね)という埴つくりの名があり、赤膚付近に土師氏による土器生産の技術集団の里があったといわれている。
室町東山時代になると、茶の湯が起こり、土風炉(奈良風炉)の制作が始まります。これがのちの千家十職永楽家につながっていく。
天正年間(1573-92)になり、大和郡山城主豊臣秀長が常滑の陶工与九郎を招いて開窯、これが赤膚焼の起こりと言われる。
元和年間(1615-1624)に伏見奉行職小堀遠州の好みに応じて作陶したことから、遠州七窯の一つとされた。
正保年間(1644-48)に野々村仁清が旅の途中に立ち寄って茶器、水指、皿、鉢などの製法を口伝、享保年間(1716-36)には大和郡山藩主柳沢堯山が京都の陶工伊之助、治兵衛を呼び、御用窯として保護を受けるようになって茶器や日用雑器が多く作られるようになった。
一時不振に陥ったものの、天保年間(1830-44)に奥田木白が作陶を始めて赤膚焼の名は広く知れ渡るに至った。木白は寛政12年(1801)大和郡山境町、藩御用小間物柏屋に生まれ、幼名亀松、31歳で後佐兵衛と改め、のち武兵衛と名乗った。茶を嗜んで楽焼を焼いて楽しんでいたのが、家業を離れて陶工になり、屋号の柏屋をわけて、木白と称した。別号に木々斎、五行庵などがある。赤膚焼の特徴となっている萩釉も木白から使われるようになったもの。その息子も木左と称して陶器を作り、これまた見事だったため、二代目木白とも呼ばれている。
赤膚の名の由来は、肌が赤みを帯びているという説と、地元の地名という説の2つがある。赤みを帯びた器に乳白色の萩釉をかけて、奈良絵の絵付けをしたものが多い。
奈良絵とは、お釈迦様の生涯を描いた過去現在因果経を漢訳し、そこに経文の絵解きを添えた絵因果経を手本にしたもので、上下二本の線の中に人形や家が描かれているもの、奈良の風景、鹿、昔話、御伽草子など色々な模様が組み込まれている。かわいらしく、素朴でこの絵が描かれている茶碗などはどちらかというとカジュアルなイメージがある。
寧屋工房の茶碗を見ていて、ほとんどの高台の土が白い中に黒い(赤い?)土があることに気づいた。私は赤膚焼の土というと白い肌のイメージが強かったので聞くと、その昔、赤膚焼には赤土器座と白土器座とあったのが、江戸時代に奈良絵が流行して、奈良絵を生かす白い土が主流になったのだという。
工房の奥にはシンプルな形、表中央に雫のような焔のような形が彫られた茶碗があった。値段がついていない。聞くと、それは東大寺のお水取りの儀式の中で使われるお茶碗、”朱母”と呼ぶもので昔はそれでお寺が貴重な薬を煎じたのだとか。そして、その薬を浸した札を庶民にわけ、庶民はその札を湯で溶かして飲み、無病息災を願ったのだという。だから、売りものではないのです、と。
そのそばには東大寺の管長の箱書の添えられた天目茶碗もあった。大仏様にお茶をお供えする為の天目茶碗。差し上げるつもりで作って東大寺に参上すると、管長はそのうちのいくつかをとられ、さらさらと箱書きをして、御礼ですと言われたそうです。値段をつけるのもおこがましいが、箱書分でお値段つけさせて頂いていますと。こういう茶碗は他ではないので貴重なものではないでしょうか。
様々な話をして下さった後、奈良は高山茶筅、更紗、焼物、釜、風炉、漆器、茶道具はなんでも揃いますよ、一県で全部揃えられるというのもすごいことでしょう、やはりお茶の発祥の地なんですね、とおっしゃいました。そういえば侘び茶の祖、村田珠光も奈良県出身。
こちらで香合を求めました。私のとっての初めての香合です。思い出深い品となりました。また改めてご紹介します。
その嬉しい買い物の後、興福寺を通って近鉄奈良駅に向かおうとしたところ、品のいいおばあさまに折角だからこちらの仏様を拝んでいらっしゃいと勧められた。びんずるさま、もっている玉をこすり、よくなりたい体の部分を擦る。年を取って奈良に戻り、夕方になるとこうしてお散歩するのがいい、奈良はいいでしょう?おばあさまはその後も他の観光客に気軽に声をかけ世話を焼いていた。穏やかな笑顔が今も目に浮かぶ。
奈良で出会った素敵な二人は強く私の心に刻まれた。
その一角に寧屋工房という赤膚焼のお店がありました。赤膚町にある窯元とは違った風情、格子戸を開けると手前には茶碗やお皿が並べられ、奥の真っ暗な部屋では幻想的な灯りが灯っていました。作家武田高明さん、笑顔で気軽に赤膚焼についてお話をして下さいました。大変興味深いお話が多く、ついつい長居をしてしまいました。茶道具もありますが、特に燈火器の制作で有名で、お寺や博物館の敷地で光のパフォーマンスも行っているという。彼の作り出す幻想的な光の世界を一度体験してみたいと思いました。
寧屋工房
http://www.neiya.com/
赤膚焼を大別すると、奈良・桃山の古窯、徳川期の旧窯、徳川末期~現在の新窯の三期があり、現在の赤膚焼が確立したのは旧窯の中期以降。
奈良には古墳がたくさんありますが、その為古くから埴輪や陶棺、祭事用の土器などが作られていました。垂仁帝の頃、野見宿禰(のみのすくね)という埴つくりの名があり、赤膚付近に土師氏による土器生産の技術集団の里があったといわれている。
室町東山時代になると、茶の湯が起こり、土風炉(奈良風炉)の制作が始まります。これがのちの千家十職永楽家につながっていく。
天正年間(1573-92)になり、大和郡山城主豊臣秀長が常滑の陶工与九郎を招いて開窯、これが赤膚焼の起こりと言われる。
元和年間(1615-1624)に伏見奉行職小堀遠州の好みに応じて作陶したことから、遠州七窯の一つとされた。
正保年間(1644-48)に野々村仁清が旅の途中に立ち寄って茶器、水指、皿、鉢などの製法を口伝、享保年間(1716-36)には大和郡山藩主柳沢堯山が京都の陶工伊之助、治兵衛を呼び、御用窯として保護を受けるようになって茶器や日用雑器が多く作られるようになった。
一時不振に陥ったものの、天保年間(1830-44)に奥田木白が作陶を始めて赤膚焼の名は広く知れ渡るに至った。木白は寛政12年(1801)大和郡山境町、藩御用小間物柏屋に生まれ、幼名亀松、31歳で後佐兵衛と改め、のち武兵衛と名乗った。茶を嗜んで楽焼を焼いて楽しんでいたのが、家業を離れて陶工になり、屋号の柏屋をわけて、木白と称した。別号に木々斎、五行庵などがある。赤膚焼の特徴となっている萩釉も木白から使われるようになったもの。その息子も木左と称して陶器を作り、これまた見事だったため、二代目木白とも呼ばれている。
赤膚の名の由来は、肌が赤みを帯びているという説と、地元の地名という説の2つがある。赤みを帯びた器に乳白色の萩釉をかけて、奈良絵の絵付けをしたものが多い。
奈良絵とは、お釈迦様の生涯を描いた過去現在因果経を漢訳し、そこに経文の絵解きを添えた絵因果経を手本にしたもので、上下二本の線の中に人形や家が描かれているもの、奈良の風景、鹿、昔話、御伽草子など色々な模様が組み込まれている。かわいらしく、素朴でこの絵が描かれている茶碗などはどちらかというとカジュアルなイメージがある。
寧屋工房の茶碗を見ていて、ほとんどの高台の土が白い中に黒い(赤い?)土があることに気づいた。私は赤膚焼の土というと白い肌のイメージが強かったので聞くと、その昔、赤膚焼には赤土器座と白土器座とあったのが、江戸時代に奈良絵が流行して、奈良絵を生かす白い土が主流になったのだという。
工房の奥にはシンプルな形、表中央に雫のような焔のような形が彫られた茶碗があった。値段がついていない。聞くと、それは東大寺のお水取りの儀式の中で使われるお茶碗、”朱母”と呼ぶもので昔はそれでお寺が貴重な薬を煎じたのだとか。そして、その薬を浸した札を庶民にわけ、庶民はその札を湯で溶かして飲み、無病息災を願ったのだという。だから、売りものではないのです、と。
そのそばには東大寺の管長の箱書の添えられた天目茶碗もあった。大仏様にお茶をお供えする為の天目茶碗。差し上げるつもりで作って東大寺に参上すると、管長はそのうちのいくつかをとられ、さらさらと箱書きをして、御礼ですと言われたそうです。値段をつけるのもおこがましいが、箱書分でお値段つけさせて頂いていますと。こういう茶碗は他ではないので貴重なものではないでしょうか。
様々な話をして下さった後、奈良は高山茶筅、更紗、焼物、釜、風炉、漆器、茶道具はなんでも揃いますよ、一県で全部揃えられるというのもすごいことでしょう、やはりお茶の発祥の地なんですね、とおっしゃいました。そういえば侘び茶の祖、村田珠光も奈良県出身。
こちらで香合を求めました。私のとっての初めての香合です。思い出深い品となりました。また改めてご紹介します。
その嬉しい買い物の後、興福寺を通って近鉄奈良駅に向かおうとしたところ、品のいいおばあさまに折角だからこちらの仏様を拝んでいらっしゃいと勧められた。びんずるさま、もっている玉をこすり、よくなりたい体の部分を擦る。年を取って奈良に戻り、夕方になるとこうしてお散歩するのがいい、奈良はいいでしょう?おばあさまはその後も他の観光客に気軽に声をかけ世話を焼いていた。穏やかな笑顔が今も目に浮かぶ。
奈良で出会った素敵な二人は強く私の心に刻まれた。
お会いでき、奈良絵について話を聞く事ができました。
とても気さくな方で、お釈迦様の話、人形や鹿にも意味がある事などゆっくりご説明して頂きました。
が、メモを取らず、折角のお話も既に忘れているのですが・・・
図柄の可愛さから、ひとつくらいは手に入れたいと思ったのですが、
なかなかの金額にすごすごと帰って参りました。
求められた香合に興味津々です!
懇親会に出席したメンバーで講師先生に何か奈良の記念の品でも・・・と思うのですが、予算の都合でいつも会計(私)は悩んでしまうのです。
奈良町~猿沢池界隈は最も奈良らしいところ。
昔、よく飲みに行った頃がありました。
確かに奈良絵は図柄がかわいいですが、昭山さんのもの、特に登窯で焼いたものはいいお値段していますね。
>求められた香合に興味津々です!
お楽しみに。といっても高いものではなく、色々話をして下さるうちに気に入って購入することにしたのです。
武田高明さん、作陶家としては昭山さんのようには有名ではないし陶歴は異色らしいですが(ご自身で言ってらした)、親しみやすい素敵な方でしたよ。
奈良のお土産というと、奈良漬とか、習字する人なら墨、筆とか、赤膚焼のお皿とかかしら。。。。。
>奈良町~猿沢池界隈は最も奈良らしいところ。
そうですね、本当に味わいがありますね。
夕暮れ時、素敵なおばあさまにもお会いしていい思い出になりました。
がさばらない事とそこそこの値段で買えること、側に置いて使えば旅を思い出すからです。今テーブルに赤膚焼の湯飲みがあります。何年前かな~~リックを背負い二人で奈良に旅行したのは!!
tamagoさんの香合にも沢山の思い出が詰まりましたね。旅行記楽しく読ませていただいています。
そういえば、知り合いに、旅先で必ずお猪口を購入してコレクションしている人がいました。かさばらないし、お酒好きな方だったので、ちょうどよかったのかもしれません。
今回の旅、本当に思い出一杯となりました。奈良サイコーです!旅行記続きで恐縮ですがあともう少しおつきあい下さいね。
そうですよね、旅先でいいお話を聞いて購入した道具は何者にも変えがたいですね。お茶席でもその逸話をご披露できるし。
何より友との奈良旅の時に購入という最高のプレミアがついてますから!贅沢な香合です。
たまなさんもお気に入りの道具があったらご紹介くださいね~。