茶の湯 徒然日記

茶の湯との出会いと軌跡、お稽古のこと

日々是修行

2008-12-25 18:25:24 | 茶の湯エッセイ
 禅の言葉や精神は、茶の道の根本を流れるものとして、大切にされる。
 習い始めた頃には形を学ぶことに必死で、そこまで思いが至ることはなかったが、長く続けていると、形の奥に潜む禅の言葉や精神が少しずつ見え、訴えかけてくるようになる。

 朝日新聞で連載されている花園大学教授の佐々木閑さんの”日々是修行”には日常忘れかけていたことを思い出させ、なるほどと感心させられる話が多く、楽しみにしている。先日の話は、お茶の先生のおっしゃっていたことに通じて、先生の偉大さを改めて感じた。そのまま引用する。

***以下引用***
日々是修行 <言葉を養分にするには>
 
 釈迦が生きていた2500年前のインドには、まだ文字がなかった。人が人へ、思いを伝える手段は、口から発する言葉だけ。その言葉は、音波となって相手の耳に届くと、そこで消滅する。それを記録しておく手段がなにもないのだから、いったん言葉を聞き逃せばそれっきり。失われた情報は二度と取り戻せない。聞いて覚えるという一瞬の作業が、思想を伝達する唯一の手段だったのだ。

 釈迦の教えは、そういった文字のない世界で、何代にもわたる師弟間の言葉のリレーによって受け継がれてきた。一言一句間違えないよう真剣に語る師匠と、それを丸ごと記憶しようと歯を食いしばって聞き入る弟子の、緊迫した空気の中で伝えられてきた、知力の賜物なのだ。
 「昔の人は大変だったんだなあ」と感心する前に、我が身のことを振り返ってみよう。現代は、映像でも音でも、好きなだけ保存できる時代になった。流れ込んでくる情報をためておいて、利用価値のあるものだけをゆっくり選んで頭に入れておけばよい。腰を据えて何度でも繰り返し学習できると思えば気も楽で、「学び」は日常の楽しい娯楽にもなる。
 しかし、そこに、「これが最初で最後だ」というギリギリの切迫感はない。すぐれた人の言葉を「宝物」として大切に胸に抱え、何度も反芻し、その意味が身体に染み込むまで理解する。そういう経験をさせてくれる切迫感がないのだ。
 どんなに多量の情報が洪水のように周囲を流れていても、自分自身が強い吸収力を持っていなければ、それを有効な養分として使うことはできない。どんな社会にあっても、最後に情報の価値を決定するのは、我々自身の真剣さなのだ。

 「お釈迦様が来ておられる」と聞いて、何日もテクテク歩いて会いに行き、そこで聞いた一度きりの教えを、一生かけて考え抜く。そういう生き方をしていた当時の信者からみれば、言葉をポイポイ使い捨てにする現代社会は、「知恵を磨くのが難しい、大変な時代だなあ」ということになるだろう。

***************************

 言葉を養分にするかどうかは、要はその人次第ということになるのだろう。
 先生はよくおっしゃっていた。「研究会にしろゼミにしろ、それは一回きりの機会なのだから行ったら真剣に聞くこと。その時メモはとらない。どうしてもというなら帰ってから思い起こして書き出すこと。」
 そういえば、研究会である業躰先生が「メモは取らないでください。その時書くと書いている間に前後の話を聞き逃してしまうから、書くなら全部を聞いた上で終わった後にお書きなさい。」と言っているのを聞いた。おっしゃる通りである。書くことに囚われれて、後で読んで、あれ、これって何の話だったっけ?ということはままある。
 私はお稽古場でも先生がおっしゃったことをすぐにメモにとる。そして、帰ってきてから新たにノートに書きなおす。けれど、書きなおした瞬間に安心している自分がいる。時折そのノートを読み直すとすっかり忘れていて、ああ、そうだったなんてことはよくある。やはり書き留めることで記憶に残るのではなく、また見ればいいやと思っているいい加減な自分がいるのだ。
 先生はその昔、相伝稽古のお点前をノートに書いていたが、ある日帰り道にそのノートを落としてしまったとか。それからはノートはなくしたら終わりと思い、お稽古場で見て頭に全部入れたという。そこで先生は真剣勝負を決意したのだ。「頭に入れちゃえばなくならないでしょ。二度見れば覚えられるものですよ。」先生はさらりとおっしゃった。切迫感をもってお点前を見聞きすれば、それは可能ということなのだろう。私の相伝稽古ノートを見ながらその話をして下さったということは、ノートに頼らず、それ位の精神でお稽古に臨みなさいと教えたかったのだろうと思う。「そのノートをなくしたらどうするの?」という先生の問いに、恥ずかしながら私は咄嗟に「絶対になくしません。」と答えた。まだまだだと先生は思ったに違いないが、私自身そのノートを手放すだけの真剣さと切迫感を持つに至っていない。ノートは私の宝物でもあり、いつかなくしてしまいたい物でもある。
 先生から学ぶことは、茶道の域を超えて広く深い。

 さて話は変わるが、都会に住んでいると日常でお坊さんの話を聞く機会というのはほとんどないと言っていい。昔はお寺が身近にあってお坊さんと話す機会もあったのだろうが、今や大方の人はお寺に行くのはお墓参りの時だけ、節目の法事の時にお坊さんのお話を少し聞ける程度であろう。最近は、法事すら忘れられてしまうことがあるので、ある寺では、パソコンで各檀家のデータを管理して、十三回忌など法事が近付くと葉書で施主に知らせるというようなサービスもあると聞いた。小さなコミュニティに行けば、まだお坊さんが村人の悩み相談にのったりということもあるいはあるのかもしれないが、寺と檀家の距離が昔より遠くなっている事実は否めない。
 永平寺を訪問した時、今も厳しい修業をしてお坊さんを目指している人がいるのだなあと厳かな気持ちになった。若い僧侶が立派な修行を積んで、自分のお寺に戻った時、学んだ精神を周囲の人たちに気軽に伝えられる場が広がればいいのになあと思う。東京のどこかのお寺が空いているテラスを開放して、人々が集える場にしたというようなニュースや、手紙で種々の悩み相談を行っているお坊さんのグループの話を耳にしたから、近年少しずつ、お坊さんの方から民衆に働きかける輪も広がってきてはいるようだ。
 禅の精神は、生きていく上での大切なことをたくさん教えてくれるように思う。茶道を長く続けなければ私がそれに気付くこともなかったかもしれないと思うと、改めて茶道との縁を有り難く思う。これからも形とその奥にある精神を深く掘り下げていきたい。日々是修行。

 花園大学といえば、お坊さんの為の大学、仏教を学ぶところというイメージだけでよく知らなかったので今回初めてHPを検索してみた。ご参考までに添付します。
花園大学HP
http://www.hanazono.ac.jp/about/greeting
”本学の建学の精神は「仏教精神によって人格を陶冶すること」にあり、とりわけ臨済禅師によって示された「臨済禅」の心に学ぶことを眼目においています。仏教の精神 であり、特に臨済禅をその根本としています。”
コメント (7)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 破魔弓と羽子板の由来 | トップ | 賀正2009 »
最新の画像もっと見る

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
深いなあ~~ (ゴマ子)
2008-12-26 17:07:52
うーむ。今日も深いお話ですね。
私の先生のところでもお稽古のとき
席中でメモを取るのはご法度です。

どうしても、ということは
お稽古が終わってから、せめて水屋など人目につかないところでささっと書き留めなさいといわれます。

ノートは確かに大切ですが、なくしたら終わりですよね・・・実は私も一度、お稽古場において帰って
先輩が押入れに隠して(?)置いてくださってたことがありました。
以来、注意していますが、たまごさんがお書きになっているのと同様
書いたら安心して忘れてしまっています。

お釈迦様の時代は、文字通り「口伝」だったのですね。
せめて今日のお話を覚えて、少しでも当時の僧たちの必死さを思い起こし、もっと真面目にお稽古に励もうと思います。
返信する
メモ (m-tamago)
2008-12-29 17:01:04
ゴマ子さん、コメントありがとうございます。
他の人はどう考えているのかなと思ったので、とても嬉しかったです。
やはりお稽古場でのメモはご法度なのですね!
新聞記事を読んで”口伝”という真剣勝負であること、私も心しなくてはと思い返しました。
お互い頑張りましょうね~。
返信する
Unknown (Unknown)
2008-12-30 10:45:24
うーん、確かに、
話を聞きながらポイントを書き留めることで
安心(あるいは油断)してしまうっていうこと、ありますね。
わかります。
その「油断」を戒めておられるのかな、
先生や業躰先生は。
茶道だけでなくて、あらゆることに通じますね。

さて、後半の話題についてですが、
最近、ユニークな(伝統的でなさそうな)お坊さんの本を読みました。
『「自分」から自由になる沈黙入門 』(幻冬舎)
というタイトルで、
http://www.amazon.co.jp/「自分」から自由になる沈黙入門-小池-龍之介/dp/4344014782/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1230600700&sr=8-1

著者は小池龍之介さん、30歳。

仏教の考え方+how toが実にとっつきやすくわかりやすく書かれています。
自宅兼お寺で座禅会をしたり、あちこちで説法をしたり、もしておられるようです。
●家出空間
http://iede.cc/

いわゆる仏教っぽさ、お寺っぽさのかけらも(一見)ない、かわいらしいサイトです。

あ、ついでに、このサイトもおもしろいです。
●超宗派仏教徒によるインターネット寺院 虚空山彼岸寺
http://www.higan.net/

返信する
あー、すいません、 (うきき)
2008-12-30 10:46:16

上の投稿は私、うききです。
失礼しました。
返信する
お坊さんのサイト (m-tamago)
2009-01-04 17:47:24
うききちゃん、こんにちは。
本当に書き留めるということは大事なことでもあるんだけど、それに甘んじてしまうところもあるよね。
大事なことは本当の意味で自分のものにしてしまわないと失われてしまうってことだよね。

お坊さんの本、ネットの紹介ありがとう。いろいろな媒体を使ってお坊さんも活動しているんだね。
うききちゃんは色々なことを知っているよね~。また教えてね。
虚空山彼岸寺のサイトを開いたら、元旦に奥様が無事出産したという記事が載っていてなんだか御縁を感じたよ。



返信する
あてはまる… (チカ)
2009-09-26 01:34:59
学ぶということに関して緊迫感がない…
というところで、ああ、自分にも当てはまると反省です…。

情報を手に入れやすい今に油断しているようです。

これからはもっと真面目にお稽古に励もうと思います。
返信する
あてはまりますか (m-tamago)
2009-09-27 13:57:07
チカさん、こんにちは。
学ぶということは難しいですね。学んだ気になっている自分がいたり。。。
情報社会は便利だけど、この佐々木さんのお話からとても大切なことを学びました。あとは実践のみ?!

先生のようにお点前を二度見ただけでは頭に入りませんが、何度も何度も繰り返していくうちに覚えて、続けていくうちにしっかり体に染み込んでいくしかないのでしょう。日々是修行。
お互い精進いたしましょう。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

茶の湯エッセイ」カテゴリの最新記事