もう随分前の話、昨年の五月のこと、今月の淡交に剣道と茶に関する話が載っていますよとブログの読者の方が教えて下さった。有難いことに、育児の最中で購入しそこなっていた私にその方はコピーしてお送り下さった。なるほどなるほどとと思い、皆さんにもご紹介したいと思いつつ、時が過ぎました。先日片付けをしていてそのコピーが出てきたのでご紹介したいと思います。まずはそのまま引用します。
以下引用***************************************
自我関与 東洋英和女学院大学教授 岡本浩一
剣道の達人に、剣道の六段と五段ではどこが違うのですかとお尋ねしたことがある。
技術的な違いはほとんどなく、三分の競技試合だったら、どちらが勝っても不思議ではないというお答だった。ただし、午前中いっぱい、若手を相手に稽古をつけるというようなことをすると、歴然と違いが出るともおっしゃった。長時間やっても型が崩れない。その背景には剣道に対する思いの深さの違いがある。その思いの深さの違いが、技術のここが違うと明瞭に指摘はしにくいものの、確実な違いになって存在する。そして、六段になると、五段のときよりも、相手の隙がよく見える。ただし、五段のときは、相手に隙があると、打ち込まなければならないという感覚に囚われたが、六段になると、隙があっても、打ち込むほどでもないというような心の余裕を自覚する。それも、思いの深さのもたらすもののような気がする。そのようなお答えだった。
この言葉をもうすこし深く考えてみよう。五段ともなれば、技術的にはもう飽和に近付いている。なにをどうすれば次の段に進めるという具体的なメドがない。飽和を自覚しつつさらなる進境を求めるためには、仕事の前の朝練を週に一度や二度はこなしながら、できなかったことができるようになることを励みとするのではなく、技のバランスや気合いのわずかな向上を自覚できるような静かな心向きをじぶんのなかに確立し維持しなければならない。四十代、五十代の多忙な時期にそれを続けるのには、「報われなくとも良い」という相当な決意と全人格的な自己管理が要る。それが、思いの深さを生み、その思いの深さが、容易に崩れない安定感をもたらすことになるのだろう。
「容易に崩れない安定感」は、たんに稽古の時間や回数だけで生まれるものではない。深い自我関与を長時間維持することが必要なのである。
茶の湯にこのような自我関与をもたせてくれるものの第一は、なんといっても茶事の亭主だろう。
重大な茶事が急に決まり、それまでの一ヶ月間ほどのあいだ、二日と空けず師匠のところに通った人がいる。趣向、道具組の相談あり、稽古ありという濃密な日々だったという。その人自身も茶道教授をしておられる大ベテランである。そういう人が、上の点前でなく、運び水指の平点前の稽古を所望するときの教場の空気のようなものを想像してみた。ベテランが、来る日も来る日も平点前稽古を所望するのは、よほどのことである。その茶事を翌々日に控えたとき、師匠が「貴君は、この一カ月で十年分ほども成長した」とおっしゃったそうである。その成長が、技の成長だけを指した言葉でないことは当然である。
その方は、その茶事が終ってから、急に眼が開けたそうである。一言で言うなら、茶事に対する考え方、構え方が柔軟になった、そして、あの茶事も、こういう道具立てもあったな、ああいうう趣向もあったなというようなことが、「そうすればよかった」という後悔でなく、ひとつの広さとして考えられるようになったということである。ひとつの茶事に全人格を向けていく錐のように鋭い自我関与が、ゆとりと安定感、そして、目の広さを生むのである。
******************************************
主人は剣道を志し、ちょうど六段を目指しているところだったので、このコピーを見せて聞いてみた。すると、その通りかもしれないと言いました。五段と六段のどこが違うというわれても明確な差はない、試験の時どういう人に当たるかという問題はあるものの、合格不合格は先生の目に映る本人次第というところのようだ。先日の試験は残念な結果となったが、後日の知らせではあと一歩の結果(ランクA)であった。仕事も忙しい40代、遅く帰ってもほぼ毎日素振りだけは欠かさない主人を見ると剣道に対する思いの深さ、自己鍛錬の大切さを感じる。素振りをしながら少しずつ少しずつ心の余裕が積み上がり、容易に崩れない安定感につながっていくのかもしれない。
私も育児が忙しいからと言い訳しているわけにもいかない。先日、「もっとお点前をゆっくりと」と先生からご注意を受けた。「主婦になるとお嬢さんの時と違って何でもパッパと済ませようとしてしまうのよ」と。確かに何をするわけでもないが時間に追われる日々、その心持が点前にもあらわれてしまうのだ。毎日寝る前に少しでも茶のことについて考えたり、気持ちを落ち着ける時間を短くても持つよう心がけよう。
茶事を催せるのはずっと先のこと、ゆとりと安定感なんてもっともっと先のこと、せめて稽古日だけは集中し自己を見つめながらお稽古に励みたいと思い返したところである。
以下引用***************************************
自我関与 東洋英和女学院大学教授 岡本浩一
剣道の達人に、剣道の六段と五段ではどこが違うのですかとお尋ねしたことがある。
技術的な違いはほとんどなく、三分の競技試合だったら、どちらが勝っても不思議ではないというお答だった。ただし、午前中いっぱい、若手を相手に稽古をつけるというようなことをすると、歴然と違いが出るともおっしゃった。長時間やっても型が崩れない。その背景には剣道に対する思いの深さの違いがある。その思いの深さの違いが、技術のここが違うと明瞭に指摘はしにくいものの、確実な違いになって存在する。そして、六段になると、五段のときよりも、相手の隙がよく見える。ただし、五段のときは、相手に隙があると、打ち込まなければならないという感覚に囚われたが、六段になると、隙があっても、打ち込むほどでもないというような心の余裕を自覚する。それも、思いの深さのもたらすもののような気がする。そのようなお答えだった。
この言葉をもうすこし深く考えてみよう。五段ともなれば、技術的にはもう飽和に近付いている。なにをどうすれば次の段に進めるという具体的なメドがない。飽和を自覚しつつさらなる進境を求めるためには、仕事の前の朝練を週に一度や二度はこなしながら、できなかったことができるようになることを励みとするのではなく、技のバランスや気合いのわずかな向上を自覚できるような静かな心向きをじぶんのなかに確立し維持しなければならない。四十代、五十代の多忙な時期にそれを続けるのには、「報われなくとも良い」という相当な決意と全人格的な自己管理が要る。それが、思いの深さを生み、その思いの深さが、容易に崩れない安定感をもたらすことになるのだろう。
「容易に崩れない安定感」は、たんに稽古の時間や回数だけで生まれるものではない。深い自我関与を長時間維持することが必要なのである。
茶の湯にこのような自我関与をもたせてくれるものの第一は、なんといっても茶事の亭主だろう。
重大な茶事が急に決まり、それまでの一ヶ月間ほどのあいだ、二日と空けず師匠のところに通った人がいる。趣向、道具組の相談あり、稽古ありという濃密な日々だったという。その人自身も茶道教授をしておられる大ベテランである。そういう人が、上の点前でなく、運び水指の平点前の稽古を所望するときの教場の空気のようなものを想像してみた。ベテランが、来る日も来る日も平点前稽古を所望するのは、よほどのことである。その茶事を翌々日に控えたとき、師匠が「貴君は、この一カ月で十年分ほども成長した」とおっしゃったそうである。その成長が、技の成長だけを指した言葉でないことは当然である。
その方は、その茶事が終ってから、急に眼が開けたそうである。一言で言うなら、茶事に対する考え方、構え方が柔軟になった、そして、あの茶事も、こういう道具立てもあったな、ああいうう趣向もあったなというようなことが、「そうすればよかった」という後悔でなく、ひとつの広さとして考えられるようになったということである。ひとつの茶事に全人格を向けていく錐のように鋭い自我関与が、ゆとりと安定感、そして、目の広さを生むのである。
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主人は剣道を志し、ちょうど六段を目指しているところだったので、このコピーを見せて聞いてみた。すると、その通りかもしれないと言いました。五段と六段のどこが違うというわれても明確な差はない、試験の時どういう人に当たるかという問題はあるものの、合格不合格は先生の目に映る本人次第というところのようだ。先日の試験は残念な結果となったが、後日の知らせではあと一歩の結果(ランクA)であった。仕事も忙しい40代、遅く帰ってもほぼ毎日素振りだけは欠かさない主人を見ると剣道に対する思いの深さ、自己鍛錬の大切さを感じる。素振りをしながら少しずつ少しずつ心の余裕が積み上がり、容易に崩れない安定感につながっていくのかもしれない。
私も育児が忙しいからと言い訳しているわけにもいかない。先日、「もっとお点前をゆっくりと」と先生からご注意を受けた。「主婦になるとお嬢さんの時と違って何でもパッパと済ませようとしてしまうのよ」と。確かに何をするわけでもないが時間に追われる日々、その心持が点前にもあらわれてしまうのだ。毎日寝る前に少しでも茶のことについて考えたり、気持ちを落ち着ける時間を短くても持つよう心がけよう。
茶事を催せるのはずっと先のこと、ゆとりと安定感なんてもっともっと先のこと、せめて稽古日だけは集中し自己を見つめながらお稽古に励みたいと思い返したところである。
形からはじまり…技や技術から余裕・ゆとりという世界なのでしょうか?
しかし本来技術と、余裕やゆとりの丁度その中間にあるものに気づき、それを窮め越えなくてはいけないということなのかもしれませんね…(いまのわたしかな?)
この『自我関与』のお話は、『不立文字』言葉や文字で表すことのできない領域ですね
わたしもお茶事を経験したことがありますが、やはり趣向にばかりとらわれていたかもしれません(なにせへそ曲がりな性格…教科書通りのお茶事がいやでした)
ですがその時は全身全霊を打ち込み、一生懸命で悔いはありませんが、やはり『あ~しとけば、こ~しとけば』と反省は残ります。
またそれがなければ、向上心は望めませんね。
剣道は試合が舞台であれば、茶道はお茶事が舞台…ということでしょう
勝敗を越えたゆとりと「容易に崩れない安定感」…あこがれでいっぱいです。
恥ずかしながら、開放されて楽しいです。このままお休みしたいとまで思ってしまう始末。
今までは、先生に魔法をかけられていて、(他の方は依存症、洗脳だとか…)ここまでやってこられたのだと思いました。
毎日が大切で、不器用な私は、あんまり忙しいと忘れてしまい、ガサツになってしまうことも。
気持ちの問題なのだとは思うのですが、稽古などによって他の事が制限されてしまうのは。
また、戻ってくることがあるのかなと思う毎日です…。
>この『自我関与』のお話は、『不立文字』言葉や文字で表すことのできない領域ですね
そうですね。なかなか言葉では説明しきれない、それこそ禅の、精神世界とでもいいましょうか。
お茶事も回数も大切でしょうが、どれだけ入れ込んだか、どのような方と時を過ごしたか、その中での学びも人それぞれなのでしょうね。
>剣道は試合が舞台であれば、茶道はお茶事が舞台…ということでしょう
そうですね。そう考えると私はまだ舞台に上がっておりません~。お稽古は一通り付けて頂いたとはいえ、ほんの入り口だと感じるばかりです。
お茶だけでなく、小さな日常の中でも精神的なゆとりと安定感を得る学びがたくさんあるように思います。日々を大切にしたいと思いながら、今は時間に追われて終わっていく感じです。
解放されて楽しいという気持ち、少しわかります。
私もお稽古は楽しいし、行くと充実しているのですが、家の方も忙しくなって主人にしわよせがいって申し訳ない気持ちも残り、悩むことしばしばです。折角再開したお稽古ですが一旦中断しようかとも考えつつ、6月からお稽古の回数を減らしました。残念な気持ちもあったり、でも、これでよかったとほっとする気持ちもあったり。
一日の時間は決まっているし、やれるキャパも制限があるし、何が大事なのか、その時々で選択して自分が楽しい、よかったと思えるように過ごすのが一番な気がします。
ともともさんもお稽古したいなと思った時が戻り時かもしれませんね。
「道」という言葉がつくからには、やはり茶道と根底に流れるものは同じ、または似通っているのですね。
>「報われなくとも良い」という相当な決意と全人格的な自己管理が要る。それが、思いの深さを生み、その思いの深さが、容易に崩れない安定感をもたらすことになるのだろう。
心に響く言葉です。
なかなかその境地にはいたりませんが、確かに剣道も茶道も、欲(金銭欲や名誉欲など)とは離れたところにありますね。
自分を修練する場といいましょうか・・・
お茶事、確かに深いです。普段のお稽古の集大成かつ応用力が求められます。
それが剣道の試合にあたるのでしょうか。
自分でお茶事を催すにはまだまだ、まだまだ遠い道のりですが
私もたまごさんを見習って、毎回のお稽古を丁寧に充実していたものにしようとおもいます。
お互い先生がお元気なうちに、いっぱい吸収しなくてはね(^_-)
とても深いテーマでうまくいいあらわすことができませんが
たまごさん、すばらしいコラムをご紹介してくださってありがとう。
本当に茶道にしろ剣道にしろ、「道」という言葉がつく伝統には同じ精神が宿っている気がします。
「報われなくとも良い」と思うって難しいことですよね、ついつい見返りを求めてしまう自分がいて。
でもそれも離れてこそ「道」は輝いたものになるんでしょうね。
お互いまだ茶事には程遠いですが、いつか自分なりの席を設けてお互いに招きあえたらいいですね。今は毎回のお稽古を丁寧に充実していたものにしましょう。
おっしゃる通り、高齢の先生がご指導くださる間に頑張らなくては~(^_-)