細川忠興と聞いて何を思い浮かべるだろうか。細川ガラシャの夫、やきもち焼きの男、私の中での薄っぺらな忠興像である。
誰の書いた本だったか、細川ガラシャの一生、その夫として登場した忠興は、果敢な武士でありながら、美しい妻への独占欲からやきもち焼き、冷徹で気性の激しい男性として描かれていた。今も覚えている逸話は、美しいと評判の奥方を一目見ようと覗き見をした庭師の首を切り、妻に突きつけたという話。妻はそれを見て驚きもせず食事を続けたとあり、高校生の私はすごい夫婦だなと思ったものだった。昔のことで本当かどうかわからないが、忠興の印象はあまりよくなかったのである。また、この時初めて、細川ガラシャが明智光秀の娘であるということも知り、驚いた。歴史上の人物は思いがけないところで繋がっていたりする。その細川忠興が茶の世界でも重要な位置にいると知ったのは随分後になってからだった。そして、利休様との逸話を知るに至って随分と印象が変わった。
利休七哲の一人である細川忠興、茶の世界では三斎の号で知られる。七哲の中でも利休様の茶風を忠実に踏襲したといわれる。また、天正19年正月の秀吉による利休様下向の際に古田織部とともに淀の船着場まで見送ったことは有名である。
忠興は、永禄6年(1563)、藤孝(幽斎)の長男として誕生。幼名は与一郎。武将としても名高いが、有職故実や歌でも知られた父の影響で、幼少から和歌、連歌、絵画、能楽など多方面の教養を身につけた。忠興の名は松永久秀討伐で信長に組して武勇を馳せ、信忠の一字を与えられたことからで、信長の命で明智光秀の娘玉子(のちのガラシャ)と結婚した。細川家の家紋の九曜は、忠興が信長の小刀の柄に描かれていたものを大変気に入っていたことを信長が覚えていて与えたものと伝わっているそうだ。
茶人として特に有名な逸話は、利休様が切腹することになった時、二本の茶杓を削り、細川三斎と古田織部に与えたという話。三斎は利休様の死後、その茶杓に「ゆがみ(命)」と銘し、織部は「泪」と銘したという。
しかし、その茶杓には違った説もあるようである。京都の松屋久重が三斎から聞いた話として、ある時、三斎が茶杓を取り出して櫂先を切って利休に見せたところ、利休はそれを直して「舌切雀」と名づけて三斎には返さず所持してしまった。そのため、「そなたが常使いとして所持していた茶杓を取り上げたのだから、命とも名づけた杓を送る」といって利休が送ってくれた茶杓だというもの。「ゆがみ」という銘は、茶杓に添った三斎の消息(平野遠江守長泰に譲った時の消息)で、三斎が節上が左に傾いているところから名づけたとしている。と同時に三斎はこの茶杓をみると涙がこぼれるほどだとも書いていて、利休様最後が思い出される縁の深い茶杓であったことが伺えると本にはある。ゆがみと命という銘はそれらの逸話からきているようだ。
この茶杓「ゆがみ(命)」は平野権平長暁の時、細川家六代宣紀へ献上されて再び細川家所有に戻り現在に至っている。(以上、主婦の友社“茶人と名器”筒井紘一著より)
謀反人とされた利休様を見送った茶人三斎。天下人秀吉に知れれば命も危ういのに師匠への思いを最後まで捨てなかった男。父明智光秀の謀反にも関わらず、幽閉という形で妻を救い、終生愛し続けた男。冷酷で激しいと言われながらも、義理や愛情を簡単に捨て去らない姿が私の目には魅力的にうつる。妻ガラシャはキリシタンとなり、終生を神に捧げ、キリシタン迫害にも恐れず、教えを守り続けたとされる。夫妻それぞれ形は違っても伝えられる逸話に愛情深さや芯の強さが感じられて、気になる二人である。
大徳寺高桐院は細川家の菩提寺でもあり、三斎の墓石は利休様から送られたという石燈篭である。しっとりとした石畳を進むと静かな空間が広がっている。お庭を眺めながら緋毛氈の上で抹茶を頂くこともでき、心地のよい場所だった。
元首相の細川護熙氏はこの細川家の末裔。彼自身、陶芸をなさる。私が一時お手伝いしていた書道サロンの展覧会では細川氏が作った茶碗が飾られていた。やはり忠興の血を引くお殿様、様々な文芸に秀でておいでなのだろう。
誰の書いた本だったか、細川ガラシャの一生、その夫として登場した忠興は、果敢な武士でありながら、美しい妻への独占欲からやきもち焼き、冷徹で気性の激しい男性として描かれていた。今も覚えている逸話は、美しいと評判の奥方を一目見ようと覗き見をした庭師の首を切り、妻に突きつけたという話。妻はそれを見て驚きもせず食事を続けたとあり、高校生の私はすごい夫婦だなと思ったものだった。昔のことで本当かどうかわからないが、忠興の印象はあまりよくなかったのである。また、この時初めて、細川ガラシャが明智光秀の娘であるということも知り、驚いた。歴史上の人物は思いがけないところで繋がっていたりする。その細川忠興が茶の世界でも重要な位置にいると知ったのは随分後になってからだった。そして、利休様との逸話を知るに至って随分と印象が変わった。
利休七哲の一人である細川忠興、茶の世界では三斎の号で知られる。七哲の中でも利休様の茶風を忠実に踏襲したといわれる。また、天正19年正月の秀吉による利休様下向の際に古田織部とともに淀の船着場まで見送ったことは有名である。
忠興は、永禄6年(1563)、藤孝(幽斎)の長男として誕生。幼名は与一郎。武将としても名高いが、有職故実や歌でも知られた父の影響で、幼少から和歌、連歌、絵画、能楽など多方面の教養を身につけた。忠興の名は松永久秀討伐で信長に組して武勇を馳せ、信忠の一字を与えられたことからで、信長の命で明智光秀の娘玉子(のちのガラシャ)と結婚した。細川家の家紋の九曜は、忠興が信長の小刀の柄に描かれていたものを大変気に入っていたことを信長が覚えていて与えたものと伝わっているそうだ。
茶人として特に有名な逸話は、利休様が切腹することになった時、二本の茶杓を削り、細川三斎と古田織部に与えたという話。三斎は利休様の死後、その茶杓に「ゆがみ(命)」と銘し、織部は「泪」と銘したという。
しかし、その茶杓には違った説もあるようである。京都の松屋久重が三斎から聞いた話として、ある時、三斎が茶杓を取り出して櫂先を切って利休に見せたところ、利休はそれを直して「舌切雀」と名づけて三斎には返さず所持してしまった。そのため、「そなたが常使いとして所持していた茶杓を取り上げたのだから、命とも名づけた杓を送る」といって利休が送ってくれた茶杓だというもの。「ゆがみ」という銘は、茶杓に添った三斎の消息(平野遠江守長泰に譲った時の消息)で、三斎が節上が左に傾いているところから名づけたとしている。と同時に三斎はこの茶杓をみると涙がこぼれるほどだとも書いていて、利休様最後が思い出される縁の深い茶杓であったことが伺えると本にはある。ゆがみと命という銘はそれらの逸話からきているようだ。
この茶杓「ゆがみ(命)」は平野権平長暁の時、細川家六代宣紀へ献上されて再び細川家所有に戻り現在に至っている。(以上、主婦の友社“茶人と名器”筒井紘一著より)
謀反人とされた利休様を見送った茶人三斎。天下人秀吉に知れれば命も危ういのに師匠への思いを最後まで捨てなかった男。父明智光秀の謀反にも関わらず、幽閉という形で妻を救い、終生愛し続けた男。冷酷で激しいと言われながらも、義理や愛情を簡単に捨て去らない姿が私の目には魅力的にうつる。妻ガラシャはキリシタンとなり、終生を神に捧げ、キリシタン迫害にも恐れず、教えを守り続けたとされる。夫妻それぞれ形は違っても伝えられる逸話に愛情深さや芯の強さが感じられて、気になる二人である。
大徳寺高桐院は細川家の菩提寺でもあり、三斎の墓石は利休様から送られたという石燈篭である。しっとりとした石畳を進むと静かな空間が広がっている。お庭を眺めながら緋毛氈の上で抹茶を頂くこともでき、心地のよい場所だった。
元首相の細川護熙氏はこの細川家の末裔。彼自身、陶芸をなさる。私が一時お手伝いしていた書道サロンの展覧会では細川氏が作った茶碗が飾られていた。やはり忠興の血を引くお殿様、様々な文芸に秀でておいでなのだろう。
ガラシャ夫人は美しいだけではなく、気丈な方だったようですね。
内面はとても激しいものをお持ちだったのではと思います。
たまごさんも読まれた(私の日記)と思いますが、、、
細川護熙氏がサンフランシスコのアジア美術館で、講演をされました折り、私の掛け花入れを、お礼として差し上げました、
いまごろあの子はどうしているかしら?とたまごさんの日記を読みながら、思い出しています。
あたしはこの本を高校生の頃に読んで本当に刺激を受けました。
明智光秀についても違う目線から描いているので
”謀反を起こした悪い人”って一方的に信じるのはよくないなあと思ったものでした、
このとき、あたしも”奥さんにぞっこんのお殿様”としか印象がなかった細川忠興ですが、
お茶をするようになって彼が”ただのお殿様”ではないことを知りびっくりしました。
細川護煕氏は文化人ですよね。
だからさっさと政界からも身を引かれたんでしょうか?
「政界を60歳で引退した後、ふとしたことから始めた作陶だが、念頭にまず浮かんだのが茶陶だった」と
書いておられます。血は争えないということでしょうか。 表千家お家元の奥様は護熙氏の妹様でいらっしゃいます。
>細川護熙氏がサンフランシスコのアジア美術館で、講演をされました折り、私の掛け花入れを、お礼として差し上げました、
読みました読みました。
今ごろ細川家で大切にされていることでしょう。楚々とした花と共に。細川氏は最近は書にも力をいれていらっしゃるようですよ。
同時期に読んでいたわけですね。高校生の私も刺激を受けました。
光秀も謀反人というイメージから賢く、いいお父様であったのだと変わりました。
人には色々な側面があり、感じ方も人それぞれですよね。知らないことがまだまだたくさんと思います。
>細川護熙展「焼き物と書」が平成16年11月30日より日本橋三越で三越100年特別企画として開催されました。
私は残念ながらそれは見落としています。。。。。
でも、展覧会で見た茶碗は見事なものでした。
>表千家お家元の奥様は護熙氏の妹様でいらっしゃいます。
そうなんですか、それは知りませんでした。
やはり文化に通じた一族でいらっしゃるのですね。