露地は日常俗世界と茶室という非日常の世界を繋ぐ特別なポジションに位置する。そこを通る時、どんな気持ちになりますか。
露地にはいつも水が打たれている。茶事の中では三度の水が打たれる。客の席入りの前に打たれる最初の水、中立の前、客が露地に出る前に打たれる水、そして最後の立水。水が打たれているということは準備が万全整っていますよ、どうぞお通り下さいとの知らせでもある。
南方録にも露地に水を打つ意味が書かれている。
“露地に水うつ事、大凡に心得べからず。茶の湯の肝要、ただこの三炭、三露にあり。能々功者ならでは、会ごとに思うやうに成がたきなり。大概をいはば、客露地入の前一度、中立の前一度、会すみて客たたるる時分一度、都合三度なり。朝、昼、夜、三度の水、全て意味ふかき事と心得べし。。。。”
この後、津田宗及が最後の立水は客に帰れといわんばかりで納得しがたいと問うと利休様はわび茶は初めから終わりまで4時間をこえてはいけない、客が帰るにちょうどよい時分だからこそ亭主は露地を見直してそそうがないように水を打ち、客もその潮時を察知して席を立つのだと答えている。
NHKアーカイブスで、昔の表千家での茶事の様子を撮った番組を再放映していた。露地の掃除の場面で、苔や石を磨くのはわかるとしても、露地の木の葉ひとつひとつの塵をふき取る弟子達の様子に驚いた。同時に、それほどに露地には心が尽くされているということを改めて認識させられた。きれいにする為に誰かが蔭で大変な努力をしているのだ。私たちもそのことを感じながら、自分の心の塵を落としつつ進むべきなのでしょう。
私はまだ実感するに至らないが、露地には席主らしさも表れるという。きれいなだけでなくどの草木をどう配置するか、季節によっても席主の心が配られているはず。
茶事や茶会で茶室に向かうべく露地を歩く時、自分が浄化されていくような清々しい気分になり、やがてしっとりとみたされる。露地を抜けにじり口から茶室に入る瞬間、心が凛とする。緊張しながらも、一番無心な時、何度体験しても初々しい。
茶道を習っていない方にはぴんと来なかったかもしれませんが、例えば寺院の庭や、和食屋さんの庭など考えてみて下さい。一見何気なく自然に美しい気がしますが、その蔭には手入れ、心入れがあるはずです。そして、時間にもよって乾いてしまっているかもしれませんが、門前、入口や通路に水が打たれているか、少し注意してみて下さい。店主の気持ちが読み取れるかもしれません。
露地にはいつも水が打たれている。茶事の中では三度の水が打たれる。客の席入りの前に打たれる最初の水、中立の前、客が露地に出る前に打たれる水、そして最後の立水。水が打たれているということは準備が万全整っていますよ、どうぞお通り下さいとの知らせでもある。
南方録にも露地に水を打つ意味が書かれている。
“露地に水うつ事、大凡に心得べからず。茶の湯の肝要、ただこの三炭、三露にあり。能々功者ならでは、会ごとに思うやうに成がたきなり。大概をいはば、客露地入の前一度、中立の前一度、会すみて客たたるる時分一度、都合三度なり。朝、昼、夜、三度の水、全て意味ふかき事と心得べし。。。。”
この後、津田宗及が最後の立水は客に帰れといわんばかりで納得しがたいと問うと利休様はわび茶は初めから終わりまで4時間をこえてはいけない、客が帰るにちょうどよい時分だからこそ亭主は露地を見直してそそうがないように水を打ち、客もその潮時を察知して席を立つのだと答えている。
NHKアーカイブスで、昔の表千家での茶事の様子を撮った番組を再放映していた。露地の掃除の場面で、苔や石を磨くのはわかるとしても、露地の木の葉ひとつひとつの塵をふき取る弟子達の様子に驚いた。同時に、それほどに露地には心が尽くされているということを改めて認識させられた。きれいにする為に誰かが蔭で大変な努力をしているのだ。私たちもそのことを感じながら、自分の心の塵を落としつつ進むべきなのでしょう。
私はまだ実感するに至らないが、露地には席主らしさも表れるという。きれいなだけでなくどの草木をどう配置するか、季節によっても席主の心が配られているはず。
茶事や茶会で茶室に向かうべく露地を歩く時、自分が浄化されていくような清々しい気分になり、やがてしっとりとみたされる。露地を抜けにじり口から茶室に入る瞬間、心が凛とする。緊張しながらも、一番無心な時、何度体験しても初々しい。
茶道を習っていない方にはぴんと来なかったかもしれませんが、例えば寺院の庭や、和食屋さんの庭など考えてみて下さい。一見何気なく自然に美しい気がしますが、その蔭には手入れ、心入れがあるはずです。そして、時間にもよって乾いてしまっているかもしれませんが、門前、入口や通路に水が打たれているか、少し注意してみて下さい。店主の気持ちが読み取れるかもしれません。
玄々斎の「我が家法 不立文字 肉伝のみ」は迫力ある言葉ですね。様々に改革し、新しい点前や作法を考案し続けた人ならではと感じます。
露地に凝縮された精神性はすごいものがあります。とはいえ、それにとらわれて過ぎてもいけないのでしょう。
この書物の著者は渡辺又日庵 玄々齋の兄であり弟子でありました 概説本を書こうとしたところ 玄々齋に「我が家法 不立文字 肉伝(口伝くでん=口で伝えるより更に厳しい伝えの意味で肉の文字)のみ」と拒まれたのを ゆくゆくのモノと思い書かれたもの だそうで その中で 「雨の日 路地行くのに 濡れまいと足早く急ぐのは 未練である」 と解かれているそうです
茶室までたどる路地は この世の塵・芥を落し 蹲いにて 更に清浄とする 為にある
もてなされる 客も 然り
また 亭主は 帛紗にて道具清める
堅い!!!
確かに聞いてしまうとそこまで?と思うこともあるんですが、最終的には人をもてなすにはどうしたら気持ちよく喜んで頂けるかということだけなんです。
主客とも感謝と思いやりをもって一期一会を楽しめれば最高です。
NHKアーカイブス、本当に驚きでした。まさかそこまでとは。自分が茶事をする場合もそういう細かいところまで注意しなくてはいけないのだな~としみじみ。
本当に感謝の気持ちで露地を通らなくてはですね。
神経研ぎ澄まされた感性が必要な世界だなぁと思いました。
NHKアーカイブス、見損ねてしまって残念でした。
木の葉の塵をふき取るとはすごいですね。
かなりの驚きでした。
これからは感謝の気持で露地を通させて頂かなくてはと
思いました!