茶の湯 徒然日記

茶の湯との出会いと軌跡、お稽古のこと

利休百首15

2012-06-25 21:56:49 | 利休百首
15.中継は胴を横手にかきて取れ 茶杓は直におくものぞかし


 中継(なかつぎ)は胴の横の部分に手をかけて持て、茶杓はまっすぐに置くものである、という15首。

 ”中継”、つまり”中次”は、薄茶器のひとつ。
 薄茶器でベーシックかつ最初の稽古に使うものといえば棗(なつめ)である。茶道を学んでいらっしゃる方にはすぐわかることとは思うが、棗は全体に丸みを帯びていて、蓋もなだらかな丸みのある形になっていて、蓋と本体の境目が比較的上の方にあるが、この中次は円柱形で、蓋は水平な形になっていて、蓋が深く、本体との境目が棗に比べて下の方にある。
 その形のゆえに、扱い方が違ってくる。棗を取り上げるときは上から鷲掴みする、中次は蓋が深く鷲掴みはできないので胴の横の部分に手をかけて横持ちにする。茶杓を置くときは、棗は丸みがあるので、櫂先をむこうに少し下げて手前におろすようにする、まっすぐ置くと茶杓が棗の蓋の上でクルクル回ってしまったり、畳の上に落とすことがあるからだ。一方、中次では、蓋が水平なので、櫂先をむこうに倒す必要はなくまっすぐに置ける。

 茶道を始めた当初、棗を綺麗な手の形で鷲掴みにすること、茶杓を蓋の上に置くこと、取り上げることに難儀した。なだらかな丸みのある形は素敵なのだが、扱いは難しい。慣れても油断すると茶杓がクルクル回って慌てることがある。
 棗に慣れた頃、初めて中次を見た時は、まさに茶筒だなあと思った覚えがある。
 その後様々な細工のものを見たりして、棗も中次もどちらもいい形だなあと思うのだが、これまでで出会った薄茶器の中で一番美しいと思っているのは、先生のお宅で見た、5代宗哲の黒の中棗である。時代を経て飴色めいた黒の棗は近くで拝見し、手に触れることもできたこともあって、私の中で存在感あり、今なお最高の棗として心に残っている。
 道具を扱う時のちょっとした間合い、手の形、そんなことでも、点前の印象は変わってくる。この首を読み返しながら、久しぶりに薄茶器を扱う手を復習してみた。

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4 コメント

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宗哲さんの棗 (ゴマ子)
2012-06-25 23:41:38
たまごさんおひさしぶりですね!
お元気ですか?
ひさびさのお茶日記、うれしいです。

宗哲さんの黒棗ですか・・・シンプルながらきっと気品があって素敵なんだろうなあ。

棗をとる手は難しいですね。
初心者のころ「それは『わしづかみ』っていうのよ」とよく注意されました。
茶杓くるくる、わかる~~(笑)
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おひさしぶりです (m-tamago)
2012-06-27 09:19:57
ゴマ子さん、こんにちは。
色々慌ただしく御無沙汰してしまいました。

棗をとる手、そうそう、鷲掴みって美しくない悪い例でよく言われましたね。
私も上から丸く半月になるように持つと指導されました。

ご参考までに以前書いた記事を添付しますね。
五代宗哲の棗
http://blog.goo.ne.jp/m-tamago/e/677ce8bd3c60ac0c04cd0d1f94e8eaea
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何度読み直しても勉強になる (春旦)
2012-06-27 21:13:47
よく稽古の時にそのように指導していましたよ
「・・・って利休百首に書いてある」ってね
良い真塗り棗って本当に重くて、そして確かに飴色めいてきますね
わたしの師匠も七代如心斎宗匠花押の真塗り棗をお持ちでした
いつも手のひらで撫でていましたねぇ~
手のひらの指紋で磨くのだと・・・
「利休百首」って何度読み直しても、勉強になります!
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利休百首 (m-tamago)
2012-07-04 21:23:55
春旦さん、こんばんは。
利休百首って、改めて読むとひとつひとつ復習にもなり、精進の度合いによって感じることもかわってきますね。本当に何度読み返しても勉強になります。

七代の花押のある真塗り棗ですか。これも素晴らしいのでしょうね。道具は使ってこそ味わいが増すともいいますから、春旦さんの先生も近いところにおいて大事になさっていたのでしょうね。
絵柄のある棗も素敵なものがいっぱいありますが、美の究極はやはりシンプルな塗りだけの方にある気がします。(ごまかしがきかない)


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