独覚は、菩薩の下の位で、声聞よりは上らしく、仏の悟りの一部分を、体験した人のようで、私は、仏教を学んだわけでもなく、どこか、宗派に入ってるわけでもない普通の人なので、下記、麟角喩独覚のようです。
独覚には、仲間と共に修行する部行独覚と、完全に独りで悟る麟角喩独覚があり、麟角喩独覚は、寂しく一人で、孤独に生きて、寂静な体質の人間というものを好むようで、わが道を行く、マイウエーの修行者で、過去世から、そのような態度で、修行を続けていなければ、この世で、独覚にはなれないようです。独覚は、縁覚のセグメント内であり、ゆえに、辟支仏という名前も頂戴しているようです。
はっきり、書いてあります。師なくして独自にさとりを開いた人が独覚(辟支仏)であると。
阿頼耶識を理解して、独覚になったのは、今から40年も前のことですが、独覚という言葉は、昨日始めて知りました!
仏の悟りの一部分だとしても、その阿頼耶識の無限のループ体験(阿頼耶識の簡単な説明 参照)は、まずは、傍若無人な全くの恐ろしい体験で、一生の間、一時も忘れることの出来ない強力な恐怖体験で、まぎれもなく、現実のリアルなものです。その恐怖に続いて起こる大音量の命の鼓動「土天海明の己のシラブル」が響き渡り、意識(心)が、頭上のブラフマの開き口から、物凄い勢いの発光するクリアーライトと融合して、ロケットのように、次元上昇して行きます!この世の3次元から11次元まで、一瞬の内に無限の上昇道を通って、ついに、何も無い宇宙空間に行き着き、うわーと、ふわーと、急停止して、そこに、蓮の花に座った阿弥陀仏が現われ出ます!リアルな心(意識)が体験する、ハッキリした現実認識で、けして夢幻ではありません。そのような衝撃的な体験ですが、まぎれもなく生きている自分の心(意識)の、この世と同じ感覚の体験です。
輪廻を止めて、輪廻からの解放
阿頼耶識の簡単な説明
脳天のブラフマの開き口
辟支仏
pratyeka-buddha、प्रत्येक बुद्ध(sanskrit))
サンスクリット原語あるいはその俗語形からの音写で、旧訳では一般的である。また「縁覚」「独覚」とも漢訳されるように、師なくして独自にさとりを開いた人をいい、仏教やジャイナ教でこの名称を用いる。
仏教では、十二因縁を観じて理法をさとり、あるいはさまざまな外縁によってさとるゆえに縁覚という。独覚は、仲間をつくって修行する部行独覚と、麒麟の一角の如く独りで道を得る麟角喩独覚とに分ける。大乗仏教ではこの立場を自己中心的なものと考え、声聞とともに二乗と呼んで下に見る。
特に天台では、仏の世で十二因縁を観じて覚ったものを「縁覚」、無仏の世で飛花落葉などの外縁を観じて覚ったものを「独覚」と区分している。
独覚
部行独覚と麟角喩独覚
倶舎論巻第十二では、独覚には部行(ぶぎょう)独覚と麟角喩(りんかくゆ)独覚の2種があるとする。部行独覚と麟角喩独覚は説一切有部の論書に説かれるもので[11]、前者は仲間を組んで修行する独覚、後者は修行の伴侶をもたずに独りでいる独覚を麒麟の一本の角に喩えたものである[12]。部行独覚は、先に声聞であった時に不還果までを得た人が阿羅漢果を証する時に仏の教導を離れて独り自ら覚るのをいう[6]。麟角喩独覚は、独居して100大劫の間に善根功徳を積んで独り覚る者をいう[6]。麟角喩独覚に相当するものはパーリ上座部にもある[11]。初期教典『スッタニパータ』の「犀の角」(33-75)では、独りで覚る人の生活がサイの角に譬えられ[12]、この詩頌の示すところは部派教典において辟支仏に結びつけられた[11]。
声聞界・縁覚界
声聞界と縁覚界の二つは、仏教のなかでも小乗教の修行で得られる境涯とされ、この声聞界と縁覚界をまとめて「二乗」と呼びます。
声聞界とは、仏の教えを聞いて部分的な覚りを獲得した境涯をいいます。
これに対して、縁覚界は、さまざまなものごとを縁として、独力で仏法の部分的な覚りを得た境涯です。独覚ともいいます。
二乗の部分的な覚りとは「無常」を覚ることです。無常とは万物が時間とともに変化・生滅することをいいます。自分と世界を客観視し、世間すなわち現実世界にあるものは、すべて縁によって生じ時とともに変化・消滅するという真理を自覚し、無常のものに執着する心を乗り越えていくのが、二乗の境涯です。
私たちも日々の生活の中で、自分自身を含めて万物が無常の存在であることを強く感ずることがあります。
ゆえに大聖人は「世間の無常は眼前に有り。あに、人界に二乗界無からんや」(241㌻)と言われ、人界に二乗界が具わっているとされたのです。
二乗の境涯を目指す人々は、無常のものに執着する煩悩こそ苦しみの原因であるとして、煩悩を滅しようとしました。しかし、そのために自分自身の心身のすべてを消滅させるという誤った道(灰身滅智といわれる)に入ってしまいます。
二乗が得た覚りは、仏の覚りから見れば、あくまでも部分的なものであり、完全なものではありません。しかし、二乗はその低い覚りに安住し、仏の真実の覚りを求めようとしません。師匠である仏の境涯の偉大さは認めていても、自分たちはそこまで到達できるとは考えず、自らの低い覚りにとどまってしまうのです。
また、二乗は自らの覚りのみにとらわれ、他人を救おうとしないエゴイズムに陥っています。このように、「自分中心」の心があるところに二乗の限界があります。
ダブリますが、以下、阿頼耶識を理解することで独覚となるようです。人間として生まれたら、まずは、一番達成したい、最大の目的のはずです!確かにすばらしいもので、体験しないと分りませんが、確実に100%本当のことですが、そのことを、一般に理解して頂くのは、ほんとうに難しい、最大の難であるのは認識しております。特に、私は一般の普通の人なので、他人を導こうという、意識もありませんので、確かに、自分中心の麟角喩独覚のようです。ただし、潜在的独覚の人にとっては、以上の私の文章で、そうだ、それだ、それだったんだと、納得する人達が、日本でも、数万人はいるはずのようなので、そういう人達にとっても、気付きの文章になれることは、重要かと思います。また、少しでも、そんなのがあるのかという情報を発信することも、大切かと思い記しています。そのようにこの文章でアクセスが上がることを祈っております。
心の最大の目的は、阿頼耶識を理解することで、心が体験する現象、阿頼耶識が、永遠にループする、単に自然にまかせられた運動の状態で、心の意志が、何も働いていない、絶対運動だと、心が理解し、認識できることにより、その永遠のループから、心が目覚め、その心が体験する現象、阿頼耶識が、この世の幻だと分ること。(汗)
あるがままの阿頼耶識の中で、人間もこの身このままにおいて、空であり、何も生まれず、何も死なない、無限のループの状態にある。このこと(法身)を理解することが、人間として生まれてきた一番の目的である。
独覚には、仲間と共に修行する部行独覚と、完全に独りで悟る麟角喩独覚があり、麟角喩独覚は、寂しく一人で、孤独に生きて、寂静な体質の人間というものを好むようで、わが道を行く、マイウエーの修行者で、過去世から、そのような態度で、修行を続けていなければ、この世で、独覚にはなれないようです。独覚は、縁覚のセグメント内であり、ゆえに、辟支仏という名前も頂戴しているようです。
はっきり、書いてあります。師なくして独自にさとりを開いた人が独覚(辟支仏)であると。
阿頼耶識を理解して、独覚になったのは、今から40年も前のことですが、独覚という言葉は、昨日始めて知りました!
仏の悟りの一部分だとしても、その阿頼耶識の無限のループ体験(阿頼耶識の簡単な説明 参照)は、まずは、傍若無人な全くの恐ろしい体験で、一生の間、一時も忘れることの出来ない強力な恐怖体験で、まぎれもなく、現実のリアルなものです。その恐怖に続いて起こる大音量の命の鼓動「土天海明の己のシラブル」が響き渡り、意識(心)が、頭上のブラフマの開き口から、物凄い勢いの発光するクリアーライトと融合して、ロケットのように、次元上昇して行きます!この世の3次元から11次元まで、一瞬の内に無限の上昇道を通って、ついに、何も無い宇宙空間に行き着き、うわーと、ふわーと、急停止して、そこに、蓮の花に座った阿弥陀仏が現われ出ます!リアルな心(意識)が体験する、ハッキリした現実認識で、けして夢幻ではありません。そのような衝撃的な体験ですが、まぎれもなく生きている自分の心(意識)の、この世と同じ感覚の体験です。
輪廻を止めて、輪廻からの解放
阿頼耶識の簡単な説明
脳天のブラフマの開き口
辟支仏
pratyeka-buddha、प्रत्येक बुद्ध(sanskrit))
サンスクリット原語あるいはその俗語形からの音写で、旧訳では一般的である。また「縁覚」「独覚」とも漢訳されるように、師なくして独自にさとりを開いた人をいい、仏教やジャイナ教でこの名称を用いる。
仏教では、十二因縁を観じて理法をさとり、あるいはさまざまな外縁によってさとるゆえに縁覚という。独覚は、仲間をつくって修行する部行独覚と、麒麟の一角の如く独りで道を得る麟角喩独覚とに分ける。大乗仏教ではこの立場を自己中心的なものと考え、声聞とともに二乗と呼んで下に見る。
特に天台では、仏の世で十二因縁を観じて覚ったものを「縁覚」、無仏の世で飛花落葉などの外縁を観じて覚ったものを「独覚」と区分している。
独覚
部行独覚と麟角喩独覚
倶舎論巻第十二では、独覚には部行(ぶぎょう)独覚と麟角喩(りんかくゆ)独覚の2種があるとする。部行独覚と麟角喩独覚は説一切有部の論書に説かれるもので[11]、前者は仲間を組んで修行する独覚、後者は修行の伴侶をもたずに独りでいる独覚を麒麟の一本の角に喩えたものである[12]。部行独覚は、先に声聞であった時に不還果までを得た人が阿羅漢果を証する時に仏の教導を離れて独り自ら覚るのをいう[6]。麟角喩独覚は、独居して100大劫の間に善根功徳を積んで独り覚る者をいう[6]。麟角喩独覚に相当するものはパーリ上座部にもある[11]。初期教典『スッタニパータ』の「犀の角」(33-75)では、独りで覚る人の生活がサイの角に譬えられ[12]、この詩頌の示すところは部派教典において辟支仏に結びつけられた[11]。
声聞界・縁覚界
声聞界と縁覚界の二つは、仏教のなかでも小乗教の修行で得られる境涯とされ、この声聞界と縁覚界をまとめて「二乗」と呼びます。
声聞界とは、仏の教えを聞いて部分的な覚りを獲得した境涯をいいます。
これに対して、縁覚界は、さまざまなものごとを縁として、独力で仏法の部分的な覚りを得た境涯です。独覚ともいいます。
二乗の部分的な覚りとは「無常」を覚ることです。無常とは万物が時間とともに変化・生滅することをいいます。自分と世界を客観視し、世間すなわち現実世界にあるものは、すべて縁によって生じ時とともに変化・消滅するという真理を自覚し、無常のものに執着する心を乗り越えていくのが、二乗の境涯です。
私たちも日々の生活の中で、自分自身を含めて万物が無常の存在であることを強く感ずることがあります。
ゆえに大聖人は「世間の無常は眼前に有り。あに、人界に二乗界無からんや」(241㌻)と言われ、人界に二乗界が具わっているとされたのです。
二乗の境涯を目指す人々は、無常のものに執着する煩悩こそ苦しみの原因であるとして、煩悩を滅しようとしました。しかし、そのために自分自身の心身のすべてを消滅させるという誤った道(灰身滅智といわれる)に入ってしまいます。
二乗が得た覚りは、仏の覚りから見れば、あくまでも部分的なものであり、完全なものではありません。しかし、二乗はその低い覚りに安住し、仏の真実の覚りを求めようとしません。師匠である仏の境涯の偉大さは認めていても、自分たちはそこまで到達できるとは考えず、自らの低い覚りにとどまってしまうのです。
また、二乗は自らの覚りのみにとらわれ、他人を救おうとしないエゴイズムに陥っています。このように、「自分中心」の心があるところに二乗の限界があります。
ダブリますが、以下、阿頼耶識を理解することで独覚となるようです。人間として生まれたら、まずは、一番達成したい、最大の目的のはずです!確かにすばらしいもので、体験しないと分りませんが、確実に100%本当のことですが、そのことを、一般に理解して頂くのは、ほんとうに難しい、最大の難であるのは認識しております。特に、私は一般の普通の人なので、他人を導こうという、意識もありませんので、確かに、自分中心の麟角喩独覚のようです。ただし、潜在的独覚の人にとっては、以上の私の文章で、そうだ、それだ、それだったんだと、納得する人達が、日本でも、数万人はいるはずのようなので、そういう人達にとっても、気付きの文章になれることは、重要かと思います。また、少しでも、そんなのがあるのかという情報を発信することも、大切かと思い記しています。そのようにこの文章でアクセスが上がることを祈っております。
心の最大の目的は、阿頼耶識を理解することで、心が体験する現象、阿頼耶識が、永遠にループする、単に自然にまかせられた運動の状態で、心の意志が、何も働いていない、絶対運動だと、心が理解し、認識できることにより、その永遠のループから、心が目覚め、その心が体験する現象、阿頼耶識が、この世の幻だと分ること。(汗)
あるがままの阿頼耶識の中で、人間もこの身このままにおいて、空であり、何も生まれず、何も死なない、無限のループの状態にある。このこと(法身)を理解することが、人間として生まれてきた一番の目的である。