教育論の本質 2010-04-03 | 教育 世の中にある, ありとあらゆる教育論は, すべてが正しく, そして, すべてが間違っている。 #学校 « キャリア教育を考える | TOP | 学級経営の心構え »
1 Comments コメント日が 古い順 | 新しい順 同じような考え方でも (tsuguo-kodera) 2015-08-18 08:21:41 だからどうするのかが問題なのです。管理人様が過去にコメントバックして頂いたようにです。 私は以下のように結論付けています。教育実践は人の個性で正も誤もあります。主語と目的語と第三者の組み合わせの、一期一会の個でしょう。5W1Hのすべての組み合わせでです。 飛躍します。だから教育は寺子屋が理想なのです。私の祖先は寺子屋を数百年続けた家系だと郷土史にあります。 教育論を語れば語るほど矛盾に遭遇するのです。親鸞なんら善人なおもて往生云々です。 親鸞や円了のように、阿保や子供をただで教えたら矛盾は生じないのでは。俗の中に誠あり、私は凡人、陽明学しか救えられないのです。実践で、です。 私のイワシの頭ではそんな風にしか考えられません。すみません。 返信する 規約違反等の連絡 post a comment ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
私は以下のように結論付けています。教育実践は人の個性で正も誤もあります。主語と目的語と第三者の組み合わせの、一期一会の個でしょう。5W1Hのすべての組み合わせでです。
飛躍します。だから教育は寺子屋が理想なのです。私の祖先は寺子屋を数百年続けた家系だと郷土史にあります。
教育論を語れば語るほど矛盾に遭遇するのです。親鸞なんら善人なおもて往生云々です。
親鸞や円了のように、阿保や子供をただで教えたら矛盾は生じないのでは。俗の中に誠あり、私は凡人、陽明学しか救えられないのです。実践で、です。
私のイワシの頭ではそんな風にしか考えられません。すみません。