教職を専門職であるかのように主張したり,
教職が専門職でなければならないかのように主張する人が,
特に教育界には多い。
もともとは,
1966年のILO・UNESCOの「教員の地位に関する勧告」が,
教職専門職論のもとになっているのであろうが,
そこでは,
「教育の仕事は専門職とみなされるべきである」と
書かれているのである。
「みなされるべきである」ということは,
逆に言えば,
専門職とはみなされていない現状をふまえたものであったろう。
教職はおそらく,教育界以外の人たちからは,
専門職とは到底見なされないであろう。
自律的に自らの仕事をコントロールできるか,
専門職にふさわしい賃金等の待遇を受けているか,
専門職にふさわしい職業集団と倫理綱領をもっているか,など,
細かく考えてみると,
到底,教職は専門職ではないし,専門職になれる可能性もない。
いや,かつては,教職は専門職であった。
なぜなら,教職は聖職と見なされていたからである。
聖職者は,医者や弁護士と同じく,
もともとの意味で,プロフェッションである。
ゆえに,戦後,教職は専門職であることを放棄したのである。
教職大学院をつくっても,
教員養成を6年制にしても,
やはり,教職は専門職には成り得ない。
冷静に見て,教職は合理的な意味では,
専門職性に乏しい。
ふつうの大人ならば,誰でもできそうな職業であるし,
事実,勘のいい人なら,
教師よりも上手に教える人はたくさんいるであろう。
だから,民間人校長などという発想が可能になる。
このあたり,医者や弁護士と比較すると,
専門職性の有無が明らかになる。
民間人外科部長や民間人弁護士などをつくれと
主張する人はまれであろう。
もしも,どうしても教職を専門職だと言いたいのであれば,
教職については,非合理の理由を付与するしかない。
つまり,聖職性を主張するしかないのである。
さて,
教職を聖職と見なしてでも専門職であると主張するか,
それとも,専門職でないということを認め,
新たな職業意識を構築していくか,
どちらに進むべきだろうか?
教職が専門職でなければならないかのように主張する人が,
特に教育界には多い。
もともとは,
1966年のILO・UNESCOの「教員の地位に関する勧告」が,
教職専門職論のもとになっているのであろうが,
そこでは,
「教育の仕事は専門職とみなされるべきである」と
書かれているのである。
「みなされるべきである」ということは,
逆に言えば,
専門職とはみなされていない現状をふまえたものであったろう。
教職はおそらく,教育界以外の人たちからは,
専門職とは到底見なされないであろう。
自律的に自らの仕事をコントロールできるか,
専門職にふさわしい賃金等の待遇を受けているか,
専門職にふさわしい職業集団と倫理綱領をもっているか,など,
細かく考えてみると,
到底,教職は専門職ではないし,専門職になれる可能性もない。
いや,かつては,教職は専門職であった。
なぜなら,教職は聖職と見なされていたからである。
聖職者は,医者や弁護士と同じく,
もともとの意味で,プロフェッションである。
ゆえに,戦後,教職は専門職であることを放棄したのである。
教職大学院をつくっても,
教員養成を6年制にしても,
やはり,教職は専門職には成り得ない。
冷静に見て,教職は合理的な意味では,
専門職性に乏しい。
ふつうの大人ならば,誰でもできそうな職業であるし,
事実,勘のいい人なら,
教師よりも上手に教える人はたくさんいるであろう。
だから,民間人校長などという発想が可能になる。
このあたり,医者や弁護士と比較すると,
専門職性の有無が明らかになる。
民間人外科部長や民間人弁護士などをつくれと
主張する人はまれであろう。
もしも,どうしても教職を専門職だと言いたいのであれば,
教職については,非合理の理由を付与するしかない。
つまり,聖職性を主張するしかないのである。
さて,
教職を聖職と見なしてでも専門職であると主張するか,
それとも,専門職でないということを認め,
新たな職業意識を構築していくか,
どちらに進むべきだろうか?
>ふつうの大人ならば,誰でもできそうな職業であるし,事実,勘のいい人なら,教師よりも上手に教える人はたくさんいるであろう。
確かにそうですね。ふつうじゃない大人が先生をやっていたりすると困りますが。
>民間人弁護士などをつくれと主張する人はまれであろう。
素人集めた裁判員制度はちょっと心配です。
教師が専門職であるかそうでないかとは別の事柄として、
私は、教師は「聖職」であると思っています。
教師は「聖人」が就く職業です。
つまり、「知識・道徳的にすぐれている人」・「知識人かつ人格者」がつく職業が教師であると思います。
しかし、現状は、生徒に危害を加える暴力教師、暴言教師などの
「犯罪者」たちが学校で沢山教師をしているため、
聖職とは言えない状況になってしまっているのが本当に残念に思っています。
校長の中にもどれだけ多くの犯罪者がいることか。私はやつらを現実に知っています。
異常事態が長年続いています。
生徒に危害を加えてきた犯罪者教師、問題教師たちを追放できた暁には、
教師は、聖職者としての信頼、権威をきっと獲得することができるでしょう。
教師が名実共に聖職者と呼ばれる日がくることを心から期待しています。
犯罪者教師たちを、神聖な場所である学校から追放、一掃すること、
それが聖職者の進むべき道であると確信しています。
教会が神聖な場であり、牧師が聖なる職業、聖職であるように、
学校は神聖な場であり、教師は聖なる職業、聖職であると考えています。
神聖な場所(学校)に巣くう堕天使・悪魔ども(暴力教師などの堕落している教師)を追放することが
天使(聖職者教師)の使命でしょう。
聖職者である教師が正義(堕落教師の追放など)を貫けない現状が問題だと感じています。
聖職者が正義を貫けるようにするためにも法改正の必要性を感じます。
madographosさん、できることなら聖職者として、神聖な場所である学校から堕落教師たちを追放し、
児童生徒たちを守ってあげてください。これからもご活躍を期待しています。
ふつうの大人ならば,誰でもできそうな職業
本当に元教師ですか。
現場でいやなことでもあったのですか。
考えさせれる記事ですね。
教師は専門職でもあり、誰でもできそうな職なんだとも思います。そして、そのようなバラついた見方があるからこそ現代の教育の混迷があるのではないかと思います。
ひとつ言えることは、教育者の職が軽んじられていることが、このようなバラついた認識が蔓延する原因になっているのではないでしょうか。
人造り、人材排出に失敗している我が国の状態に、皆が無責任になっている現状があるんだと思います。
子供にとって身近な教育者であるはずの親が、機能不全に陥っている現代では、学校の先生が親の役目も担わなければならなくなっています。これが”誰でもできる”という認識を招いてしまっているものと思います。
ですから、親の役目が機能すれば、学校の先生は本来の専門職に戻れるものと思います。
自らの責任を果たさず、教育の難しさを知らずに、表面的な部分で報じたり意見を言ったりする人が多いうちは、世の中も変わらないと思います。
結局、それを変えていくのも教育の役割だとは思うのですが、今は国の力を借りないと民間ではできないことだと感じています。
勝手なことを申し上げて失礼しました。
私は,教師ではあって,元教師ではありません。「ふつうの大人ならば,誰でもできそうな職業」というところに,どうしてそれほど過敏になる必要があるのでしょうか。特別に専門的な職業である理由が教職には希薄なのだということを認めない限り,教職の尊厳も限界も本当には見えてこないと思いますよ。
親代わりであっても、教師はやはり尊敬できる人物の方がいいのではないでしょうか。聖職ではなくても、技術職ぐらいではあってほしいですし。