高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

マルセル「稜線の路」5

2022-09-19 15:30:30 | 翻訳
25頁

(つづき)シュザンヌもぼくと同意見です。男の言うことは、やはり重みがあります。おや! お暇しなければ。イタリー広場で六時からレッスンをするんです。きみ、ぼくに電話してくれるだろう?(バシニーにちょっと会釈してから外へ出る。) 


第五場

ヴィオレット、フェルナンド、バシニー 

沈黙。 

(バシニー、愛想のよい調子で。) それで? あなたは何かご計画がおありですか? 

(ヴィオレット) わたしは今年はリサイタルを開ける状態ではありません、断言しますわ。

(バシニー) というと?…

(ヴィオレット) だいいち、わたし、元気ではありませんの…

(バシニー) いいですか、あなたには、活動再開しか、問題になる事柄はないのです、お忘れなきように。ヴィシーで湯治をなさり、田舎の、私が知っている静かな一角で、元気を回復なされば、(つづく) 


26頁

(つづき) あなたは何でも出来る状態になっておられるでしょう。まったく、素晴らしいことです!

(ヴィオレット) わたしは問い合わせましたが、ホールの予約、広告、すべて目が飛び出るほど費用がかかります。わたしには、そんな法外なことをする力はありませんわ。 

(バシニー) もしや、あなたは、私が既にすべてを計算済みではないと、ご想像ですか? ホールの予約は、いとも単純なことで、私が引き受けています。もう済んでいます。あなたはフォーレ広間を十月十八日にお使えになれます。

(ヴィオレット、血の気が引いて。) なんですって? 

(フェルナンド) バシニーさん… 

(バシニー) 私の奉仕は、これが最初ではないでしょうに… この喜びは。 

(ヴィオレット) どんな権利で? 

(バシニー) 軌道に乗せてさしあげること、と私は呼んでいます。

(ヴィオレット) もう一度言いますが、どんな権利で? 

(バシニー) 何ですと? 

(フェルナンド) ヴィオレット! 

(ヴィオレット) わたしに相談なさいました? まったく、聞いたこともない仕方ですわ! わたしを子供とでも思ってらっしゃるの? (つづく) 


27頁

(つづき)あなた、ひょっとして、わたしがあなたの意図を見抜いていないとお思い? あなたはご自分の芸術崇拝をわたしに話しにいらっしゃるけど、シャコンヌとヴィエニャフスキのロマンスとの区別もご存じない! あら! いえ、言いすぎましたわ! でも、あなた、わたしが自分の首に縄をかけられるままにするとでもご想像になって? 

(バシニー) このひとは普通じゃない。 

(ヴィオレット) 首に縄よ。

(フェルナンド) 何がどうしたっていうの? 

(ヴィオレット) セルプリエ家での最初の晩、あなたはわたしを眺めて、値踏みする様子だった… もう! 凝視されたわ、断言しますけど。けっきょく、あの印象は間違ってはいないのだわ。ただ、わたしは気が弱くて自分を疑った。あなたにここに出入りすることを許してはならなかったのに。 

(バシニー) 彼女は、しょっちゅう、このような発作を起こすのですか? 

(フェルナンド) 彼女みずから、あなたに申しましたように、このところ元気がないのです。よく眠れませんし… 

(バシニー) パウルスが明晩、お宅に寄ります。この発作のことも一緒に診察してもらいましょう。 

(ヴィオレット) お受けしませんわ。 








マルセル「稜線の路」4

2022-09-19 14:47:50 | 翻訳
22頁

(つづき) もう私のほかは誰も、落ちぶれた仲間に手をさしのべることのできる者はいません。しかし先ず自助をすべきです。そして特に、なにか機会が生じたら、それを逃がさないようにすべきです。

(フェルナンド) それを私は、しばしばヴィオレットに言っているのです。彼女は或る種の事にたいして、まだ、とんでもなく無邪気なんです。お金のことを軽蔑しています。とても結構なことですけれど、時代の空気で生きていません。昔は、まだ学芸の保護者がいましたが… 

(バシニー) もうそれは当てにしてはいけませんな。消滅した種族です。マンモスやイグアノドンのように。 

(フェルナンド) 二年間というもの、私たちがなんとか持ちこたえていられたのは、わずかな遺産のおかげなのですが、それももう、既にほとんど全然残っていません。

(バシニー、奥を指して。) 彼が彼女にお金をせびりに来ないとお思いですか? 

(フェルナンド) 何と? 

(バシニー) フランシャールのことですよ。彼はお金に窮しています。繰り返して申しますが。

(フェルナンド) ご安心ください。財布の紐を握っているのは私ですから。私が彼をよく思っていないことを、彼は知っています… ああ! 哀れな男ですこと。

(バシニー) ええ、そのとおり、哀れな男です。


23頁

(フェルナンド) それにしても、彼のために私たちが払ったかもしれない費用のことを思うと… あなたが、四年前のヴィオレットをご存じでしたら… 

(バシニー) 現在の彼女を拝見しておりますが、お変わりなく元気そうです。 

(フェルナンド) 彼女は花のように良い顔色をしておりました。その後、たいそう心配事を抱えてしまい… (思わせぶりに。) にもかかわらず、すこし前から、彼女は改善したように思います。

(バシニー) おおよそ、何時頃からですか? 

(フェルナンド) 正確には申せませんが、おおよそ、私たちがセルプリエ家であなたとお知り合いになった頃からです。 

(バシニー) おや! そうですか… 



第四場 

同上の人物、ヴィオレット、セルジュ 

(ヴィオレット) モニクの熱は三十七度九分です。 

(フェルナンド) 三十八度以下…  

(セルジュ) それでも熱には変わりない。(つづく)


24頁

(つづき)あなたは私が彼女を刺激しているとおっしゃるけれど、私は、彼女は意気消沈していると思いますよ。「赤ずきん」のお話をもういちどしてくれと言いませんからね。 

(ヴィオレット) きみがその話を彼女にしてからというもの、彼女はその話を暗記してるわよ。(バシニーは、この親し気な語り方を聞いて、不快な表情をあらわにする。

(セルジュ) 明日、彼女の容態がどんなだか、ぼくに電話して言ってくれたら助かるよ。ぼくが外出している場合はシュザンヌが電話に出るだろう。ぼくは時々苦しいんだ、きみには分からないだろうけれど。彼女はぼくの小さかった妹に似ていると思う、育て上げることのできなかった妹に。

(フェルナンド) ちょっと、ちょっと、あなたが今おっしゃっていることのほうを話題にしてください… 

(セルジュ) もしものことがあった場合、ほかのわれわれには…

(バシニー) 私があなたがたのところへパウルス医師を差し向けましょう… 

(セルジュ) それは! ええ、おねがいします。私のほうは何もできませんから。医者との面識がありません… 

(ヴィオレット) マダム・ジュルネなら彼女を完璧に治療しますわ。

(バシニー) 私は、女性の医者は信用しませんな。

(セルジュ) ぼくもです… たしかに、女性の医者は、理性に即したことをしません。(つづく) 







マルセル「稜線の路」3

2022-09-19 13:39:43 | 翻訳
19頁

(バシニー) 彼の行状は最低でしたな… ええ、私は知らされていますよ。家計がなっていないと聞かされています。

(フェルナンド) 彼女はどうってことありませんわ。

(バシニー) 彼女の持参金はヴィエイヤール銀行の株暴落に呑まれました。

(フェルナンド) まあ!

(バシニー) そのあげく、彼はもとの木阿弥になったのです。

(フェルナンド) ともかくですね、そんなことでしたら、ヴィオレットは彼と決して結婚しなかったでしょう。それはないと思いますわ。

(バシニー) ここだけの話にしますが、彼女が嘗てこの不幸な男のことをかいかぶることができたのは驚きです。彼には全く気概がなく、勝負を放棄したのですから。

(フェルナンド) 私の意見をお聞きになりたければですけれど、彼らの間には仲間意識のほかは決して何もなかったと思いますの。

(バシニー) ドアを指して。 同じことですな! 彼女は行きましたよ、それが仲間意識とは! 

(フェルナンド) いえ、私が言おうとしたのは… いまの時代にですね、とりわけアーティストどうしの間では… 彼女はとても若く、とても迷っていたということです。(つづく) 


20頁

(つづき)私のほうはサナトリウムにおりました。彼女はパリでほとんど誰とも面識がなくて。世間で読まれているもの、小レストランで話されているもの、すべて知らないんです… もちろん私は彼女に気をつけていようとしましたわ。でも離れていて、通信でですので、たいしたことはできません。そして、各人は、自分の経験をしなければならない。そうでしょう? 

(バシニー) その経験はちょっとやっかいなものに思われますな。娘さんは可愛らしい、が、あらゆる観点からしても、良い空気の地で生活させたほうがいいでしょう。 

(フェルナンド) 私の意見もそうです。でも、現在まで、ヴィオレットは娘と離れるのに同意したことがないのです。この種の感情と闘うのは、とても難しいことですわ。 

(バシニー) それを感傷癖と私は呼びますな。子供にとっての関心は、田舎に送ってもらえることです。これは、この訪問をおしまいにする手でもあります。なにしろ私の訪問は、あなたの妹さんにとってそんなに気持ちいいものではないはずですから… 

(フェルナンド) よく承りました。あなたのお力で、ヴィオレットが自分の義務を理解しますように… 

(バシニー) 彼女はどうにも頑固なふうに思えますな… いや! それは彼女の立派な気質の代償なのだと、よく解っております。


21頁

(フェルナンド) それは根本的な性格じゃありませんわ、すぐにお気づきになられたように。

(バシニー) 私がもうちょっと気づく感覚がなかったら、災難でしたな… 彼女は成功できます。それは確かです。私が言おうとしたのはそのことではありません。彼女は才能のある女性です。ありふれた才能ではありませんよ。国立音楽院を卒業するありふれた娘たちは、みんな… 悲惨です。出稽古をして回るうちだけは良いですが。わずかな謝礼金です。レッスンを受け持つ機会はもう滅多なことでは見つからなくなっていますので、卒業生の半数はけっきょく… 

(フェルナンド) 客引きになり果てるのですね。 

(バシニー) そしてそこでもなお、いまいましい競争があるのは間違いありません。そのうちのひとりは先週、水に身を投げたことを私は知っています。その娘は七つの大罪よろしくけがれていたのは本当ですが、持ちこたえている娘たちですら… 

(フェルナンド) ぞっとしますわ。 

(バシニー) 現代は、凡庸な者たち、虚弱な者たち、とりわけ、多分、お人好しな者たちにたいして、情け容赦がありません。私の申していることの意味はお解りでしょう。(つづく)