高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

マルセル「稜線の路」19

2022-09-27 13:32:31 | 翻訳
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(アリアーヌ) 私が彼を一度でも自分の夫にしようと思ったかどうか、そんなに確かでもないのです。病気になる前、私は、公共の意見と私が呼ぶものに敢然と挑むことしか、考えていなかったのです。子供じみていましたわ。その後、私の関心は他のものに移りました。

(ヴィオレット) でも、あなたが出会われた時は…

(アリアーヌ) ジェロームと? 彼とは出会ったとは言えません。私たちは一緒に育ったのです。私たちの二つの家族は昔からずっと知り合いだったのです。私がセルジュ・フランシャールに恋の炎を覚えた頃、ジェロームはオックスフォードにいました。

(ヴィオレット) それでは彼がイギリスから戻ってからですね? あなたがお感じになったのは… 

(アリアーヌ) ええ、そうかもしれません。(沈黙。) 数か月か、多分ほんの数週間後、私は彼にそのことを、病気や熱の発作のことを語るのと同じような調子で、話したのです。ルガノ湖の上のあたりでしたわ、思い出します。そのときの散歩の途中で、私たち、結婚式の日を決めたのです。

(ヴィオレット、動揺して。) どうして、そこまでわたしに全部お話しになるのですか? 


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(アリアーヌ、それには答えずに。) あの高地で、この冬の間ずっと、あなたはお気づきになるはずもないですけれど、私はあなたのことをたいへん思っていたのです。ジャンヌ・フランカステルさんがクリスマスに私を訪ねて以来です。彼女はあなたにたいして真の愛情をいだいています。

(ヴィオレット) そう信じていらっしゃるのですか?

(アリアーヌ) そう断言すると、あなたをびっくりさせることになるのですか?
 
(ヴィオレット) ジャンヌはあの人々の一人で… いえ、ごめんなさい。

(アリアーヌ) ぜんぶおっしゃって。

(ヴィオレット) 他人への好奇心が幻想を生むことがあると思われる人々の一人かと。わたしは、じぶんが好奇心を触発しているという印象を、いつも持っていました。それにしても、どうしてなのかしら。 

(アリアーヌ、小声で。) それはそんなに不思議なことだとは思えません。彼女は訪問の際、あなたの写真を持っていて、それを私に見せてくれました。

(ヴィオレット) 解りませんわ… 

(アリアーヌ) それはアマチュアの撮ったしごく普通の写真でした。でも、あなたの眼差しが私をたいへん感動させたのです。音楽家の眼差しです。それ以来、私はあなたに… おおいに助けていただきたいと思っていたのです。(つづく)


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(つづき)ここで短期滞在をするつもりなのですが、その間に、私はぜひとも、あなたと伴奏練習をしたいのです。私は腕が少し鈍りましたが、以前はそんなに下手というわけではありませんでした。

(ヴィオレット、狼狽して。) でも…

(アリアーヌ) ご不快ですか? 音楽が生命の欲求となる状態があるものですが、私は再びそういう状態にあるのですよ。私、パリでは、身体的にも精神的にも苦しいのです。山地でひじょうに努力して蓄積した、ささやかな力を、失ってしまいます。そういう場合、音楽が、いってみれば、私が自分を作り変えるのを、助けてくれるのです。

(ヴィオレット) でも、あなたはお出来にならないのですか?…

(アリアーヌ) 独りで弾くことを、と? ええ、もちろんですが、私にとって、それは同じことでは全然ないのです。なにより、独りで弾くと、私の演奏のなかにある曖昧で不充分なものすべてに眩惑されてしまいます。それは私にとって、悲しみと失望の種となってしまうのです… そして、どう言ったらいいでしょう? 私がなによりも好きなのは、協調的な音楽なのです。感心できる言葉を、思いつきませんか? 私の知っている、最も夢心地にさせる経験のひとつを表現できる言葉を… 私は高地でたくさんソナタを、ハンガリー人の若い女性の友だちと一緒に弾きました。彼女はこの秋亡くなりました。この喪失は私にとって深い苦悩だったのです。(つづく)