2022年11月05日(土) 筆
愛の路について
向き合うのではなく現在すること。
これができていればぼくは精神的に健全なのだ。そのためには間主体的な恩寵が要る。これが愛なのだ。
学問としての哲学は(事柄を問題化して)向き合おうとするが、これは意識の壁をつくることである。 ちがった哲学があってよいし、哲学を脱ぎ捨てることができるのがよい。
恩寵においては、行為が意識(反省)に引っ掛からない状態になっている。これが、間主体性が成功(現出)している状態である。
愛のほかはすべて非本質的なものである。
愛は行動である、とはぼくは言わないが、愛において人間は行動的になっている、とは、経験することである。
神経質とは、間主体的な愛の欠乏である。(というよりも包括的な愛を覚知できていない状態である。)