高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

実存とは品格のことである

2022-11-08 16:05:20 | 日記


2022年11月08日(火) 02時

 
ヤスパースのエクシステンツを実存と訳しているが、ぼくは、内実においては人間の品格のことであると思う。実存的に生きるなどという言い方は訳の分からない言い方であり、品格をもって生きるといえばよい。すると、品格をもって生きるためには信仰が不可欠であることが理解されてくる。超越者への信仰である。これは本気で信じなければならないのであり、依存的であると云われようが甘いと云われようがほうっておけばよい。信仰がないために恥ずかしい思いをするよりもはるかによいのである。 
 
ぼくは生きているかぎり品格のための信仰をもち、これに拠って信じてゆこうと思う。 
 
 
超越者への信仰は、教義的に規定された神への信仰ではない。ヤスパースの信仰を知るためには彼の『哲学』を読まなければならない。立派な信仰である。キリスト教に対峙するためではなく自分の信仰を持つために。
 
 
 
 
 
 



”精神の独立(高田博厚の思想)”

2022-11-08 15:52:52 | 日記

いまこのときこそ読むべき高田さんの透徹した普遍的経験知 


2022年11月06日(日) 03時08分33秒

2021年09月13日(月) 16時19分11秒

テーマ: 高田博厚 芸術論


ここで問題になっている「精神の独立」は、まさに個々の精神の独立者が生まれることに懸っている。日本で現在求められるべきこともこれである。直ちに政治行動を求めることではない。高田博厚の言う「人間」思想はじつに牢固としたものであることが、つぎの文章を引用した「美術と平和」(1974)と題された一節からも、読み取れる。
 
 
《戦後のアメリカとソヴエト・ロシアの巨大な力にはさまれたヨーロッパの知性者が唱え求めたものは「精神の独立」であった。それまで共産党に組していた人々も、この精神の独立を護るためであった。
 長いヨーロッパ経験で、私が見てきたものは「社会悪」以上に強い「政治悪」であった。「社会」が存在する以上「政治」は不可避物であり、それの実施のためには、「悪」を行わざるを得ない。右翼であろうと左翼であろうと政治悪はある。デモクラシーになったら、それならばこの「悪」は失くなるか? 失くならないで「悪」という毒素を「自由」「民主」の名において一般に撒き散らし、一見「悪」でないように見せるだけである。左右を問わず、専制形態を取らざるを得ないのは政治的必然であるが、それだけに「悪」が凝集して「見える」のである。しかし「知性」が社会に対して待つ(持つ)「権威」は、「政治悪」が不可避のものであれ、またそれが右からのもの左からのものであれ、「悪」を是認しないことにある。「権力」や「暴力」に真に対抗できるものは、長い目で見る時、軍隊でも武器でもない、「知性」である。》 
 
(高田博厚『もう一つの眼』 43-44頁)
 
 
 
高田博厚は普遍的な理念を教えてくれる。