高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

ヤスパース『哲学』翻訳 第三巻「形而上学」「第三章 超越者への実存的関係の諸々」2

2022-11-28 17:50:50 | 翻訳



(ヤスパース『哲学』翻訳 第二巻・第三巻)

 
 
(83頁)
 
没落と上昇
 
 超越者を私が摑み取るのは、私が超越者を思惟したり、何か或る規則的に繰り返し得る行為を通して超越者と関わり合ったりすることによってではない。私は超越者へ飛翔したり、超越者から離反的に没落したりするのである。私が実存的に一方を経験するのは、他方を経験することによってのみである。すなわち、上昇は、没落の可能性と現実性とに結びついており、同様に、没落も、上昇の可能性と現実性とに結びついているのである。数千年来、太古の諸思想は、人間の落下と登攀とを超越的な次元で関連させてきた。
 1.没落と上昇における私自身。— 絶対的意識において私はなるほど存在を確信しているが、しかしそれは時間的に持続する完成の安らぎにおいてではない。むしろ私は自分を常に自己生成あるいは自己喪失の可能性のなかで見いだすのであり、多様なものの中に分散している自分、または、本質的なものの中に凝集している自分を、様々な懸念や心配の中に無理やり引き入れられている自分、快楽で自己忘却している自分、あるいは自己現前している自分を、見いだすのである。私は、本来的自己が存在しない荒野を、そして、非存在であるこの現存在からの飛翔を、ともに知っているのである。
 私が自分を絶えずその中で経験するところの危険状態というものは、その意味が、実存的な逸脱を公式化するあらゆる試みによって触れられるところのものである。すなわち:
 a)絶対的意識としての根源とは、自己生成としての能動的運動のことである。ここで没落とは、(84頁)無時間的な存立としてであれ、規則づけられた受動的な運動としてであれ、固定化されたものとしての単に客観的なものの中に陥ってしまうことである。
 根源とは、充実した内実のことである。没落とは、形式化と機械化によって空虚な形骸に固執するようになることである。
 根源は実存の歴史的持続性として存在する。没落は、恣意的なもの、作られたもの、合目的的なものに向かうのであるが、そうなるのは、これらがもはや自らの根拠を、自らを包み越えて自らに魂を吹き込むものの中に持っていない限りにおいてなのである。
 いずれの場合においても、没落によって、ひとつの単に客観的なものが存在として受け取られているのである。その客観的なものは実存の機能として初めて真理を有するのであるけれども。固定化、形式化、製作されること、これらすべては同じことなのである。
 b)絶対的意識において根源であるものは、内実の位階秩序に関する決然とした態度である。ここで、没落とは、無制約的なものが制約されたものにされたり、制約されたものが無制約的なものにされたりする、逆転のことである。
 c)絶対的意識において根源であるものは、本質と現象の同一性において真実のものであり、結果において、ものを根拠づけるものである瞬間が及ぼすところの、それ相応な影響を固持する忠実として、自らを明らかにする。この場合の没落は、単なる主観性としての体験や身振りといった不実なものの中に現われてくる。この主観性は、なるほど瞬間においては現実であるが、この主観性の意味が仮象に留まるゆえに、不実なのである。あるいは、この場合の没落は、私がもはや自分において活かしていない諸内容を通用させたり、承認したり、言表したりすることとしての、不実さとして現われてくるのである。
 d)絶対的意識において根源であるものは、現前する無限性として自らに関わっているものであり、そのことによって充実しているものである。この場合の没落は、単なる繰り返しの無際限性へ赴くことであり、この場合の繰り返しは、もはや、不断に新しい現前的な自己産出ではないのである。
 2.私が評価するように私は生成する。— 私の落下と上昇の過程においては、私にとって単純に現存しているものは何も無く、すべては、あり得る評価に服している。私は、自分の行為に、自分の内的な態度に、私に交わりにおいて他者が出会う基である現存在に、そして私に現われるすべてのものに、評価を下しているのである。私が評価するように私は存在し、生成する。上昇に私があり続けるのは、私が自分のもつ諸々の価値判断を固持し、吟味し、克服することによってである。しかし私が、私にとってまだ以前はともかくも本当であった価値づけに固着して自失すると、私は没し去ってしまうのである。
 価値判定は、定義可能な規範概念に基づいてのみ、明晰な規定性を獲得する。この規範概念は、有限な基準として、その都度の観点から、事物を価値判定させるのである。不都合な素質や病気による業績減少や、生あるもののあらゆる反目的論性[alle Dysteleologien des Lebendigen](85頁)は、悟性に照らして明晰化され、識別される。このような、規定された目的概念や規範概念に即して得られる、強いられた価値判定とは対峙されるような価値評価というものがあり、この価値評価においては我々は、規定されず、強いられないが、それでも明白な位階というものが、観相学的本質においてあらゆる事物にはあることを、観想するという経験を、歴史的にするのである。この位階観想は過程的なものであって、窮極的なものではなく、配列するのではなくて、根源的に開明するのである。この観想は知識とは関わらず、直観に近いのであり、証明されるものではなく、ただ判然とさせられるものなのである。諸々の規定的な規範概念からは、現存在するものの多様な階級秩序が、多数の諸観点の許で生じるのであるが、この諸観点は、ただ自らに関係させてのみ、その都度規定的な位階関係を普遍妥当的に固定するものなのである。しかし〔これとは別に〕、その時その時にはそれが唯一のものであるところの観相学による、無制約的な、自らを決して閉じることはない諸々の位階秩序というものがあり、このような位階秩序への眼差しは、実存から生じるものなのである。
 このような諸々の実存的な価値判定が、ただ、時間における生成としてのみあるにしても、やはりこれらの価値判定は、客観化の方向へ向かうのである。歴史的な諸状況と選択行為とにおいて観ぜられた位階を、一般的な価値づけへと合理化することは、我々にとって、我々が本来的に為すところのものを開明的意味で知るための唯一の路なのである。限界無く得ようと努められる、このような合理化は、実存の、将来において歴史的なもののために、その時その時根拠を与えるものであるが、しかしそれでも、この合理化が、絶対的で歴史的な実存そのものにまでは決して突き進まないものである限りは、やはり相対的なものであるに留まるのである。というのも、客観化された位階秩序というものは、定義可能な目的に拠る価値判定と同様に、根源的に摑み取られるものとしての諸々の位階秩序とは、同一視され難いからである。
 それゆえ、価値評価が、強制的なものとしては、ただ相対的にのみ、前提された諸々の規範概念に沿って可能であるのなら、一方、もう一つの価値評価、すなわち、無規定的ではあるが、本来的な本質を思念するゆえに、深みへと迫ってゆく位階認識は、規定的に客観化されることによって、万人にとって客観的に妥当するものとして現われる場合には、欺くものとなる。この位階認識は、自分自身の上昇と没落の意識と内密に関連しているものとしてこそ、成っているのであって、この意識が、そのような価値評価行為の能動性において、ひとつの表現を見いだしているのである。私が価値評価する処では何処でも没落と上昇を観じているのであるが、そのような観想をするままに、私は自ら既にその没落と上昇〔の運動〕に参与しているのである。様々な位階秩序づけは、自分自身の本質を打ち込んでするのでない場合には、非真理となる。価値づけの形をとる没落は、次のような諸々の路において生じる。すなわち:
 a)私が真実に評価するものを、私は愛するか、もしくは憎む。なぜなら私はそのものを愛したいから。というのも、私はそのものと可能的交わりにおいて向かい合っているからである。なぜなら、私はそのものを、単に存立している存在として評価しているのではなく、そのものの生成する可能性と一緒にして初めて、評価しているからである。そして私はそこに参与している。なぜなら、真の評価づけは、その力から言えば、愛しながらの闘い[liebendes Kämpfen]なのであり、決して単に(86頁)固定化ではないからである。これとは逆に、私が不実となるのは、私が、自分を孤立させつつ、存立しているものに関して、私とは関係のないものであるかのように、妥当だと思い込まれた価値判断を下す場合なのである。このような不実な価値判断は、自分自身の本質を硬直した観察者へと堕落させることによって生じるのであり、この観察者は、自らが審判者のつもりでしゃしゃり出ているのである。このような価値判断は、交わりの無い状態への没落を意味している。
 b)真実な価値評価は、持続性を有する自分自身の上昇の契機であって、この持続性は、合理的な一貫性としては充分に規定され得なくとも、忘却することをしない真実の証と忠実[Bewährung und Treue]として、現象するものなのである。しかし、逸脱は、恣意が価値判定と有罪判定をする場合に生じる。これらの判定は、単に合理的であるにすぎない思想や、単に束の間の一時的にすぎない感情に、基づくものであり、そういう判定に人間は責任を持つことはなく、そういう判定を自ら忘れ、偶然なものと見做すのである。
 c)私が、評価される者自身と完全に共に在るような評価こそは、真実のものである。しかし、評価と判定を他の動機のために私がただ口実とするなら、私は、自分と他の者たちとを実際の目的に関して欺くことによって、没落するのである。例えば、私がひとりの人間を感動したからといって賞揚する場合、私が彼を愛しているからそうするのではなくて、そうすることで他の人々の感情を害しようとして、私はそうすることがあるのである。私は、ひとつの実存から現象して来るものを憎み拒絶することがあるが、そうするのは、私が自分自身には、そうやって実存から可能になる諸基準を、吟味無しで適用しようとするからである。私が何か或るものを、見くびったり讃嘆したりしながら、知にしたいと思う場合、さまざまな議論が無際限に生じるが、そのような議論においては何処かで見掛け倒しの、価値評価への訴え掛けが起こり得る。しかしそのような価値評価は不適切なものであり、とりわけ不適切なのは、不透明でありながらその価値評価では一致して見える人間大衆の、その時その時の平均的なものとして準備されているような価値評価なのである。
 d)真理は、客観化において自分自身に関する明晰性を探求するところの、評価づけである。諸々の客観化は、いつでも、自己開明に必要な手段なのである。諸々の基準と価値表が、実存の空間に属する。しかし、一般的な価値位階秩序の図表で落ち着くと、脱線することになる。歴史性をもって私に対峙するものの中に無限に深く入ってゆくことで、そのもの自身に基づくそのものの諸価値を、自分自身が高まることによってそのものと一緒になって発見する、ということをしないなら、つまり、武器を持たない開かれた闘いであるこのような交わりを為さないなら、あらゆる個別的なものはただ、一般的なものに関する持ち合わせの整理棚の中に整頓されて、それで片づいたことになってしまうのである。硬直することが没落なのである。どんな思惟された位階秩序の歴史的根源も、無制約的決断を妥当な客観性へと移動させることには、我慢しない。私が意識して没落と上昇との可能性のなかに留まる場合のみ、この可能性はあらゆる客観化を越え包み、いかなる安らぎも得させないので、真の評価づけがあり得るのである。
(87頁)
 3.依存性における自己生成。— 能動的な自己反省において私は常に、私が既にそれであるところの私の存在にぶち当たる。すなわち、私は、私がそうでありたいものを、直接に欲することはできないのである。
 私は自分が私の身体に依存しているのを観ずる。しかし私が私の身体の研究において捉えたものを私自身だと見做すと、私は自分をひとつの物にしてしまい、この物は私にとって因果的事象生起の一結果へと夢想的に解消されてしまうだろう。この事象生起は、私をして、技術的な段取りを介して私から、私が欲するものを作成できるようにし得るのである。こうなると、本来的存在の意識としての私の内的な態度が、製造可能なものであることになってしまうだろう。
 このような思想が無意味であることは、自我への問いにおいて明らかとなる。この自我は、上のような段取りの実施を目指すものであり、自分が達したい自己存在のあり方への意志を有しているのである。というのも、この、そのことを欲する自我そのものは、もはや製造可能なものとしては思惟され得ないのであり、〔この自我において、〕そこからしてこそ研究が為され、欲され、製造が為されるところの、根源が捉えられているからである。実際にも私は自分の自由を、私自身を救い出そうとする日々の努力において意識しているのである。なるほど、それが無ければ自由は止むような、諸々の現存在条件というものはある。しかしそういう諸条件は、自由そのものがそれによって生み出されたり、自由の内実がそれによって導かれたりするようなものではない。この点において、単に受動的な経験にはまったく近寄れないものがあるのであり、私は私自身に掛かっているのである。上昇と没落は過程なのであり、自由の根源から駆り立て合うものなのである。
 しかし、没落と上昇は、それらのもつ先行するものに結びついている。私は自分を何時でも無前提に変えることが出来るのではない。常に、私は既に根拠を置いているのであり、既に生成しているのであり、更に途上にあるのであって、そのようにして、その都度自らの瞬間を持っている諸々の飛躍のなかにあるのである。そこでは私は、前進したり後退したりし、絶えざる能動性にあって、ほんの気づかれない程度にではあるが成長したり堕落したりしているのである。
 私が既に私自身によって、歴史的なものに結びつけられたひとつの存在へと生成しているように、私は、私がそのなかで生きるところの世界へと方向づけられている。だが私の本来的な自由が自らの深みに達するのは、私の世界の事実的な現前的現存在が摑み取られ、我有化されて、変容させられる処においてなのである。この特定の現前的な人間世界の現存在の規定性に即し、特殊な諸情勢と諸状況に即して、私を見舞うもの、このものから私は、無世界的な自由の中へと逃れようと単に試みることは出来るが、それでもやはりこの自由は常に他のものによって妨げられるのである。一方で私は、この私を見舞うものを、私に属するものとして引き受けることが出来るのであって、この場合、私はそれを私自身の責任として引き受けるのである。
 自分自身の根拠と世界に結びつけられているところの、自己依存ともいうべきものにおいて、私は自分を飛翔させるか堕落させるかである。しかし、(88頁)私がそこにおいて、諸々の逸脱形態を思惟することによって形式的に開明するところの、ひとつの方向を確信するほど、私はこの方向の由来と目標を知ることが少なくなる。私が飛翔する時、私がこの今において欲することを、私は具体的に知ることが出来ている。だが私は、この方向を、一般的なものとして知るのではない。
 4.超越者のなかに保たれた過程の方向は、何処へ行くのか定まっていない。— 私は、没落が何処へ行くのか、上昇が何処へ行くのか、知らず、そして私は、没落と上昇において、むしろ私の閉じることのできない世界と、逃れようなく結びついているので、私は支えを超越者においてのみ持っているのである。この超越者に私は、私の没落と飛翔の過程のなかで気づくのである。この過程が根本的に示すことは、現存在における存在の本質なのであるが、これが示されるのは、ただ、実存が自らの超越者に自分が根づいていることを信じる場合のみなのである。その場合にのみ、実存は、自分自身でありつつも、他者へと開かれたままで、本当に決然とした実存となるのである。隠れたるものの現前である絶対的意識が鈍るときにこそ、実存の行為も不確かになるとともに不自由になる。すなわち、暴力的な行動という不正直さになったり、途方に暮れて混乱するだけの正直さになったりするのである。実存は超越者への関わりを、意志することは出来ない故にただ準備状態で固持することが出来るだけである。この準備状態において超越者は嘗て一度は実存のなかで語ったのである。
 しかしそうなると、私の本来的な諸目標もまた、超越者へと関わっている[transzendent bezogen]ものでありつづけることになるが、これらの目標は、だからといって、超越者に規定されるのではない[nicht transzendent bestimmt]のである。私がそういう目標として呼ぶものは、魂の純粋さ、私の存在実体の歴史的現象、私によって充実可能な現存在圏の全体の中において歴史的規定性に基づいて為される責任ある行為、などであるが、そういう目標は、表徴[signa]ではなくてそれら自体として在るべきだとされるならば、すべて流れ消えてしまうものなのである。というのも、これら目標は、そのように言表されると、まるで何も言われていないかのようなものであるからである。私の超越的な人生目標は、どんな客観的な形態においても、私に直観されるようなものになろうとはしない。人生目標は、不変で誰にとっても同一なものであるとは、思惟され得ないのである。
 私が — 表象不可能なものを空虚な観念のなかで思惟しつつ —、飛翔は何処へと通じるのかを知ろうと欲するとしたならば、そして私が、自分で行為を開始する以前に、存在をその存在の意味において見抜くことが出来たとするならば、私は実存には縁の無い非歴史性の中に陥ることになるだろう。あらゆる目的は個別的であり、それ自体としてはまだ飛翔へ通じるものではない。しかし、全体というものの意味もまた、最終目的として知られるようなことがあれば、歴史的行為の現実性を廃棄してしまうであろう。そして根本において一切は終わったことになり、何ものももはや生起する必要はないことになるだろう。つまり、時間性は余計なものであることになろう。知ることの意味が導く処が、遂には最終目的と、それと共に全体とが、究極的に認識されるということなのであれば、私は、(89頁)可能的なものについての私の知と、因果的に実現可能なものと、意味が可能なものとの、増大をもって、自分をこの非現実へと接近させることになるであろう。全く逆に、私の絶えず探求する知欲を通じて、歴史的経験が、先取可能なものの中にではなく限界づけられないものの中に向かって行くようにすることを為す代わりに。しかし私が全く自分の知を、理知化するほど空虚にしているのに、既に完成されたものとして扱うのならば、その場合の態度は次のようなものでしかないだろう。すなわち、いずれにせよ、生起するものはすべてあり得るものなのであって、すべてのものには意味がある、という態度 — あるいは逆に、すべては根拠づけられるのであるから、本来的には無意味である、という態度である。この場合、あらゆる規定性は欺瞞であり、あらゆる思想は嘘であり、あらゆる決然とした意欲は党派勢力であることになる。つまりすべては取り違えられているのである。
 また、飛翔はひとつの知をもたらすが、この知は、思い誤って飛翔という一つの道の知となると、没落に通じる。このような知となった道は、他の道を排斥するようになる。私は自分の存在の統一を、自己満足の安らぎのなかで獲得するが、二律背反の緊張を失うのである。しかし実存的には、上昇は、現実的あるいは可能的な没落と結びついている。時間現存在が存するかぎり、超越者への関係性は究極的に所有として獲得されることはないのである。自分への満足が同時に私自身への呼び掛けの形をとらず、挫折の意識でもあるのではないならば、この満足は既に、住み慣れた現存在の無頓着として、喪失である。高齢者には多分許されるであろう、自己完成しようとする生の観照は、それ以前のあらゆる瞬間においては、緊張欠如への没落となるのである。
 5.過程であり全体であるものとしての私自身。— 没落と上昇は、時間現存在における過程としてあるのだから、私は存続的な安らぎのためにこの過程から逃れようとしてもやはり時間現存在に留まるかぎり、私はなるほど既に没落しているのである。しかし私の全体存在は、だからといって、まだ、単なる過程のためだけに全く拒否されるべきものではない。過程において私は存在へと過程を超越するのであり、この存在から過程は自らの方向を受けとるのである。私は支えを超越者にのみ得ることができるのであるが、この超越者は私のために私自身の全体性をも包んでいてくれるのである。現存在においては私は、全体となろうとする意欲として在り、ただ超越者においてのみ私は、全体であることが出来るのであろう。
 死は、なるほど、事実としては、私の時間現存在の単なる終止である。しかしながら、限界状況としての死から私は自分へと突き戻されるのである。そして、私はひとつの全体であって、単に終わりであるのではないのではないか〔と問うのである〕。死は単に過程の終わりではなく、私の死として、私の全体存在への、つぎの問いを仮借なく呼び出す。すなわち、今となっては私の生は生成し終えてしまい、過去のものであり、未来はもはや過程としては存在しないのならば、私とは何であるのか? という問いを。
(90頁)
 とはいえ、時間現存在においては没落と上昇は窮極的な決定に至ることはなく、相互に交代するのである。私はいかなる全体になることもなく、あらゆる見かけ上の完成は挫折するものである。止揚不可能な限界を超越して私が目指すのは、解放の可能性のみであり、其処では私は全きものなのである。私の生は、罪責と破滅とで砕かれた全体性であるに留まる一方で、私の死は、砕かれてある状態を知られざるものへと止揚するはずなのである。
 全体性無き時間現存在において哲学的に自己責任で生きることは、自分が自由であるべきであることを知っている人間の宿命である。存在から放り落とされたように、人間を全体性無き現存在の不気味さが襲うのは、全くの無であるような無の可能性を前にしての戦慄を敢えて口に出すような問いにおいてである。私は、護られもせず、手中にある — 何の手中に? 私はそれを知らず、私が自分に突き戻されるのを見るばかりである。すなわち、私の決意からのみ、私は自分の飛翔か喪失かの可能性を見るのであって、この決意において私は最も決定的に私自身であり、しかも同時にただ私自身であるのではないのである。
 全きものであることが、神話的に私の現存在の中に入ってくる — 私が過程をより決定的に摑むほど、このことはいっそう明瞭に感じられ得る — 私を導く私の守護天使として、そして、私が本来的存在としてその中に歩み入るところの不死性として。私の守護天使において私は、全きものとなり得る者としての私と和解するのである。私の不死性の観念においては私は、現存在としての私にとって、私自身が投げかける影なのであり、この影が没落と上昇において過程として現象するのである。つまり、そのような影として私は私にとって、自己存在では明瞭になりながらも、現存在では暗闇なのであって、全体性であり得るのは実存として超越することによってなのである。
 6.守護天使と魔物。— 人間たちは、現存在過程において飛翔することによって獲得される自分たちの存在の現象を通して、語り掛け合う。しかしこの、現存在において存在に的中する交わりが、どれほど深く進もうとも、私は独りに留まってもいるのである。自己存在の硬さが無ければ、私は流れ去ってしまい、それでは本来の交わりは出来ないであろう。自分との孤独において私は自分を二重化し、私自身に語り掛け、私自身に傾聴する。私の孤独において私は独りではない。ひとつの別の交わりが遂行されているのである。
 これを心理学的に解釈して通俗化することはできる。だが、そうすることによっては、内実(Gehalt)が的中されることはない。内実あればこそ、自己対話において超越的現実性がひとつの拘束性(Verbindlichkeit)を有するものとして感得可能なのである。この拘束性は次のように神話的に客観化される。すなわち:
 自己対話の運動において、守護天使あるいは魔物は、私の本来的自己の諸形姿のようなものである。これらが私に身近であるのは、(91頁)ひとつの長い歴史を私と共有している友人の如くであり、また、敵の形姿を纏って要求したり誘惑して誤導したりする。これらは私を些かも安らいだままにしておかない。ただ私が、現存在の透明さを欠いた衝動性と合理性とに囚われて、そのような単なる現存在へと堕落する場合にのみ、この二つの形姿は私を見捨てているのである。
 守護天使は明瞭さの中へと導き、私の忠実の根源であり、私のなかで実現と持続を欲するものの根源である。守護天使は、〔人間によって〕作り出される世界の明るい空間における法則と秩序とを知っている。守護天使はこのような世界を指し示し、この世界において私の理性をして統治させ、私が自分の理性に従わない場合は非難し、私が理性の限界に臨んで異世界の中へ突き進もうとすると、諌止するのである。
 魔物は、私を不安にさせるような深みを指し示す。魔物は私を無世界的な存在の中へと導くことを欲し、破滅させようとして助言することがあり、私が挫折を単に概念的に理解するだけにしておかず、私が単刀直入に挫折に満たされるようにするのである。魔物は、いつもは否定的であったものが肯定的であり得るものであることを知っている。ゆえに魔物は、忠実と法則と明瞭さを破壊することができるのである。
 守護天使は、「特定のこの形態」において私に更に明示されてくる「一なる神」であり得る。というのは、このような神はその本質においてとても遙かなものなので、その神自身としては、そもそも私とは親密になり得ないものだからである。魔物は、神的かつ反神的な力のようなものであって、その暗黒さにおいていかなる規定性も許容しないものである。魔物は悪ではなく、守護天使に導かれる路の上では視ることのできない可能性なのである。私にとって守護天使は、確信というものを生み出してくれるものである。一方、魔物は、見抜くことのできない二義性を有するものである。守護天使は決然として明確に語ってくれるように見えるが、魔物は規定性を有しない内密な強制力として、同時に現存しないものであるかのように見える。
 守護天使と魔物は、一つであり同じであるものの分裂のようである。すなわち私自身の全体性の分裂のようである。この全体性は私の現存在においては完結し得ないものであり、ただ自らを神話的に客観化することによってのみ、私に語り掛けるのである。守護天使と魔物は、現存在において実存が自らを開顕する路の上での「魂の導き手」であり、自らは覆い隠されたままの道しるべであり、あるいは先取りなのであって、こういう先取りとしては私は彼らを信用してはならないのである。私の路の上で私は決して明瞭性の固定的な限界に突き当たるということはなく、絶えず別の形態で再浮上するような明瞭性の限界に突き当たるのである。そのような限界に臨んでいるとき、守護天使と魔物は、彼らの声を聞かせるのであるが、時間現存在において彼らの全体性が私にとって窮極的に顕らかとなることはないのである。— 
 神話的なものの場合において常にそうであるように、存立化すること[Bestandwerden]は、つぎの場合、すなわち、夢想的な迷信から、ドッペルゲンガーのような幻覚妄想に至るまでの場合でも、非真理なのである。私がただ漫然と時を過ごすだけの生活をしている場合には、(92頁)そのようなものはそもそも現存しない。そのようなものは — 現存在を欠いてはいるが — 実存的な瞬間においては、確信生成の分節化としての自己開明の形なのである。〔そしてまた、〕そのようなものは、あらゆる実存は闘いながらの交わりにおいてのみ在るということの、〔そしてまた〕実存は自分自身と〔の交わりにおいて〕も闘っているということの、神話的な客観化なのである。〔ドッペルゲンガー:「(同一人で)同時に違った場所に現われる[と信ぜられる]人、第2の自我、生き霊(イキリョウ)」相良守峯編新訂独和辞典。〕
 7.不死。— 没落は、無の中に滑り落ちるという暗い意識を伴って起こる。〔これに対し、〕飛翔は、存在の覚知を伴って生じる。
 不死は、断じて、時間的な生の必然的な結果ではなく、形而上的な確信としては、未来において別の存在として在ることではなく、既に永遠において現前している存在、として在るのである。不死は存立するものではなく、私が実存する者として不死の中に歩み入るのである。飛翔を獲得する自己存在が、その飛翔によって不死を確認するのであって、洞察によって確認するのではないのである。不死はいかなる仕方でも証明されない。というのは、あらゆる一般的な反省が出来ることは、不死が誤りであると論駁することだけだからである。
 実存が限界状況において自らの勇敢さを勝ち得て、限界をひとつの深みへと変えるならば、死後に更に生きることへの信仰に代わって、飛翔における不死意識が実存に生じてくる。感覚的生命の衝動は、常にただ生き延びることしか欲さないが、だからこそ希望無く死にゆくものでしかない。時間における持続が、この衝動にとっては自らが不死であることの意味なのである。しかし不死はこの衝動にとって在るのではなく、可能的実存にとって在るのであり、実存の存在確信はもはや時間における無際限な持続の意識ではないのである。
 しかし、この存在確信が、感性的で時間的な不死表象と同一であるような表象において開明されるならば、そのような表象を固定化すると、なるほど、単なる現存在の非信仰から生じた表象と近くなっている。そのような表象は自らの真理を、象徴的代理として浮遊することによって有し得るものである。その象徴的代理の意味は強力で現実的であるが、その象徴的代理〔として〕の現象は一時的で無のようなものである。そのような表象とは例えば、完全な明晰さを有する魂どうしが永遠に愛し合いながら観照し合うとか、限界無く新たな諸形態へ移って活動しつつ生きつづけるとか、死の表象と復活再生との結合とかの、表象なのである。
 哲学的思惟においては、このような象徴的表現[Symbolik]にたいし、時間的持続が現実的に意味あるものであると認めることは、不可能であるが、この象徴的表現によって、感性的な生の渇望が自らの安心を見いだすのではなく、実存的な内実が自らの確認を見いだす限りにおいては、この象徴的表現を受け入れることは意味あることでありつづけるだろう。問いと(93頁)疑いとが入ってから初めて、哲学的思想は自らの妥協無き権利を持つことになるのである。その場合、存在は、死の彼方に在るのではなく、現存在の現前的な深みにおける永遠として在るのである。
 不死が、実存の飛翔の形而上的な表現であり、一方、没落が本来の死を意味するならば、このことは次のことを言っているのである。すなわち、実存が無価値なのもでないならば、実存が単に現存在であることはあり得ない、ということを。
 私は、たしかに、現存在としては、私の現存在から目を転じることは出来ない。私は無としての死がこわいのである。しかし、私が実存として飛翔において存在を確信している時、私は、無を前にして硬直することなく、現存在から目を転じることが出来るのである。この故に、人間は、高揚した諸瞬間の熱情状態においては、自分の感性的で時空的な現存在が死ぬことは確実であることを知っているにもかかわらず、死の中へと赴くことが出来たのである。若者は、自らの実存が、まだ、有限性のために様々に配慮するという責任意識の紛糾の中に陥ったことがないので、その実存の飛翔によって、しばしば高齢者よりも容易に死んでいる。感性的次元での離別の苦痛は、生き残った者にとって、不死の魂という光輝〔をもつ表象〕において、なるほど、束の間のあいだは克服され得て安らぎに至ることはあった。とはいえ、この安らぎは、亡くなった者が顕現することへの無限な憧れを、止揚することはなかったのである。なぜなら、現存在というものは、思い出の超越的な仮象においても、けっして完全ではあり得ないからである。
 しかし、私が不死について — むしろ沈黙しようとするのではなく — 語るならば、私は客観化を為さざるをえない。そしてこの客観化を私は時間のなかでのみ為し得るのである。あたかも私が、現存在としては死なざるをえないのに、時間的に持続してゆくかのように。この場合、私がこの客観化を象徴〔にすぎない〕として消滅するに任せても、現存在としては崩壊するからといって、不死の現実性が止むのではない。というのは、私は、実存がその最後の瞬間としての死において、現存在であることを止めるからという理由で、消滅するのだとは、主張することが出来ないからである。それ故、私は永遠を客観化することも出来なければ、否認することも出来ない。ということは、私が、「私は現存在でのみあり得る」、と言う場合、私は、「まだ何か他のものが存在するが、このものもやはり、またも現存在するものとしてのみ思惟可能なものである」、と言っているのでもなければ、「私は死と共に無となる」、と言っているのでもない、ということなのである。たしかに、不死の形而上的観念の対象性は、表象〔の次元〕においては常に時間内現存在として在るものではあるが、このような暗号[Chiffre]は、不死意識において消滅することによって、現前的に現実的なものの確信となるのである。
 死の苦痛が、死にゆく者にとっても生き残る者にとっても解消されないものである場合、この苦痛はただ、実存的な飛翔のもつ現実性によってのみ、軽減されるのである。このような飛翔は、行為の敢行において、(94頁)力を尽くす英雄的態度において、別離に臨んでの快活な〔いわゆる〕白鳥の歌において — そして慎ましい忠実さにおいて、生じているのである。
 飛翔から語るのである — 知にとってすべてが沈む時に — つぎの要求が。すなわち、すべてが死とともに終わる時、この限界に耐えて汝の愛において捉えよ、すべてがもはや存在しないという事態は、汝の超越者という絶対的な根拠において止揚されている、ということを! — 終極において沈黙が、自らの硬さの中に、不死意識の真理を護っているのである。
 8.私自身と世界全体。— 実存がその歴史性においては自分自身を全体性として視ることがない様に、実存は、自らが現存在として属しているところの全体なるものの道程をも視ることはない。けれども、実存自身の飛翔あるいは転落の可能性は、実存をして、この全体の道程について問わせるのである。実存は、無論、孤立した個別的な実存として自分であるのではなく、実存を包み込むものの中に在って自分なのである。この包み込むもの[das Umfassende]は、実存の意識にとっては、限界づけられることなく広がりゆくものであって、〔ここにあっては〕様々な限界は、あたかも実存が、自らの前へとどんどん押して近寄らせてゆくかのようなもの〔として乗り越えられるもの〕なのである。そういうわけだから、この包み込むものは、もし近寄ることが可能だとすれば、世界全体なるものにおいて初めて到ることが可能なものであろう。根源と究極の諸物、世界過程と人類史、といったようなものの神話的な諸表象は、ここに自らの源をもつのである。
 実存は現存在としては、現存在に〔いわば〕拘禁されている故に、実存にとって、現に存している何ものも、どうでもよいものではあり得ない。世界は、実存の舞台であり、素材として、制約として、そして、包み越えながら時間の内においては結局勝利する現実性として在るのだから、世界という存在は、実存自身の存在であるかのようなものなのである。
 世界現存在は、私に至る所で関わるものであるが、だからといって私は自分を世界現存在と決して同一視することは出来ない。私は、私を脅かす疎遠なものとしての世界現存在に対して戦う。だが世界現存在は私に役立つこともある。世界現存在はそれ自体において固有な存在なのである。私は自分を、一つの部分としての世界現存在から分け隔てるが、それは、私が他の部分を摑み取って、その部分に現存在としての私を編入することによってなのである。この部分は私自身の客観性となり、そのようなものとしてのこの部分と私は一つになったのである。しかし、私に属しているものを超え出て、私の実存の魂が現存在をよりいっそう我有化してゆくほど、私が他者に結びついていることが、ますます感じられるようになるのである。私がより深く押し入ってゆくほど、私は、最初は疎遠だった者とも、いっそう連帯的になるのである。というのは、疎遠な存在が、私にとって、絶対的に疎遠であらざるを得ないとは思われなくなるにしたがって、私は、私自身を孤立化することが罪であると、いっそう感じるようになるからである。理想郷的な晴朗状態においては、私はもしかしたら、再び万有のなかに私自身を見いだすようになるかもしれず、そして、世界であるところのものは、私の運命でもあるようになるかもしれない。
 私の現存在と共にのみ世界は私にとって存在し、そして私は世界現存在無しには存在しない。私があらゆる個別的な世界像と(95頁)眺望とを超え出て現存在というものをはっきりと意識するならば、私は限界状況のなかで実存しつつ、ほかならぬこの現存在への問いを立てることが出来るのであり、しかもここではこの問いは、この問いそのものが同時に私自身の現存在への問いとなるように立てられるのである。虚無主義的な無力〔感〕において世界を思想内で打ち壊し、いわば試みに、世界を逆行させたり、あるいは、私自身を破滅させたりする代わりに、私は現存在〔というもの〕と、現存在のなかでの私の現存在とを、問う[in Frage stellen] のである。このことによって私は全体なるものをひとつの過程として視るのであるが、この過程は受動的に流れゆくものではなく、この過程には私が能動的に参与しているのである。この、現存在を問うことは、現存在そのものから可能であることではなく、現存在の内在性を外れるようにして、問いの根源を実存のなかに有しているのである。ここから初めて、〔問題の〕問いが、現存在の中へと能動的に踏み入ることの表現として、生じるのである。根源からして介入するということが無ければ、過程は静止状態〔の如きもの〕となり、為されるものがあってもそれは単に経験されるだけであろう。可能的実存は、自分自身の没落と飛翔からして、ひとつの全体への眺望を獲得するのであり、この全体の中へ可能的実存は自らの現存在と共に完全に絡み合わされているのである。私はこのような全体を、まるでそれ自体が没落と上昇においてあるもののように、把捉する。私が、あらゆる諸事象は〔それ相応に〕評価され得るものであることを、自分にたいして明澄にする〔ことができる〕限りにおいて、私は、私自身の存在から、現存在の転落と上昇の可能性を見遣る〔ことができる〕のである。
 9.世界過程。— 現存在全体は、にもかかわらず、接近し得ないままに留まるのであり、この現存在全体の没落と上昇を認識として確定することは不可能である。ただ様々な神話と思弁においてのみ、実存にとって世界過程が圧縮されて様々に表象されるのである。
 意識一般を媒介とすることによっては、実存はただ世界定位へ達しただけであった。この世界定位は、世界全体なるものを先取することを一切放棄することによって、否むことのできない強制的な認識のみに甘んじるという根本態度を実現して、遂行されるものなのである。すなわち、世界定位とは、閉じられることのない現存在のなかで具体的な知を個々のものとして獲得することなのである。実存が、このような真の即事象性[Sachlichkeit]の態度をけっして失わないようにしつつも、この態度を〔敢えて〕踏み越えて、世界全体を探求するならば、常に神話的なものである全体なるものという暗号思想が、いかなる仕方でも世界認識を促進するのではないにしても、実存的に現存在において経験可能なものを、超越者が導きをしているように思われる場合には、表現するに至るのである。飛翔と没落は、この場合、単に私自身においてのみの可能性であるとは思えないのである。
 世界定位にとって、窮極的な地平は、無際限性から無際限性へと運動する物質であり、物質は特殊な現存在のどんな始まりにも先行しているのである。これにたいし、現存在を実存的に凝視する場合には、現存在は自らの根源と根拠とを問われるのである。〔この場合、〕世界というものの成立が物語られることになるのであろうか? 〔それには〕いろいろな可能性があるのである。
(96頁)
 私は、世界が常に繰りかえし繰りかえし循環して生じ、再び混沌の中へ逆戻りするのを視る。そうしてこの混沌から世界は新しく発生するのである。世界は、常に在ったのだから、何の根拠も有しないのである。— または、私は世界を現存在として表象する。現存在は、発生する必要はなかったのであり、超越者の誤った決定によるものなのである。世界は無いほうが良かったのであるが、自らの根拠から没落したのだろう。ひとつの生成の快楽というものが世界現存在へと導いたのであろうが、この世界現存在が望んでいることは、後戻りさせられることが出来ることであり、その結果、自らの内に浄化されて安らう超越者のみが存在するようになることなのである。— あるいは、この決定は神性の創造意志であり、神性は自らの力と善と愛とにおいて自らを啓示しようと欲したのである。神性は、自らの本質が否定的なものの止揚によって最大限に実現されるようにするために、否定的なものを必要としたのである。— あるいはまた、世界現存在は、一なる存在の永遠な現在が循環するための一部分なのであり、常に同時に没落と上昇であり、いつも生成中でありながら目標に永遠に至っているのである。
 これらの神話は、〔内容が〕具体的となるほど疑わしいものであるので、我々は間もなくするとこれらの神話に飽き飽きしてしまう。それでも、これらの神話は我々にとって完全に疎遠なものではないのである。何故なら、現存在の解明不可能性は、諸事物への我々の親近感や疎遠感として、また、我々が抱く生への歓呼や現存在への戦慄として、我々に決定的に関わってくるものであり、そのような現存在の解明不可能性が、これらの神話によって、象徴的な表現で言葉となるのだからである。
 このような諸々の想念のどのようなものも、我々にとって、そのような内容上の規定性によって洞察だとか、信仰だとか見做され得るようなものでは、未だないのである。
 実存的に、世界全体に関するこれらの想念は、〔それとは〕正反対の意義を持っている。一なる世界過程というものが思惟されて、この過程の中ではまだ、生成するものによって決断が為されるとすれば、選択をする自己存在の最も高い緊張のために瞬間は強調されることになる。すなわち、何ものも後戻りさせられないのである。私が可能性を持つのは一回だけであり、一なるものが決断するのである。〔そして〕この一なるものはただ一つの神でのみある。いかなる霊魂輪廻も無く、〔ただ〕不死と死とが在るのである。上昇と没落が、窮極的に決断しているのである。
 これに対して、つぎのような諸想念、すなわ、常に既に目標に達している存在の永遠な現在を、包括者[das Umgreifende]として思惟する諸想念は、観想の安らぎを、緊張の無くなった信頼において与えるのである。
 〔上に述べた〕この二律背反、すなわち、瞬間瞬間に更に当面されてゆく決断と、失われ得ない永遠な現在との、この二律背反を超え出て、実存は到来するのであるが、この到来は、実存が自らの現存在において、飛翔によって獲得される決断の緊張と、それ自体が永遠な存在の現象であるとされるような泰然自若とした態度[Gelassenheit]とを、統一にもたらすことができる場合に、生じるのである。矛盾することが実存的には可能となるのである。しかし、(97頁)この統一に関する知と、そしてそれから、超越者の存在に関する知を、ひとつの矛盾無き形態においてもつことは、まさにその故に排除されるのである。
 超越者へのこのような態度において、私は世界全体の歴史性に向って開かれている[offen für die Geschichtlichkeit des Weltganzen]のである。世界は、たしかに、全体として別のようでもあり得るかのように、様々な諸可能性のうちの一つなのではないが、可能性を一緒に内包してもいるのである。しかし世界は、意識一般と実存が捉えることの出来るような仕方で、そのような世界自体であるのではないのである。世界の歴史性は究明できないものであって、〔世界の〕根拠は、いかなる知も見いだし得ず、いかなる実存も捉えることの出来ないものである。《最初に置かれている根拠とは別の根拠を、誰も置くことは出来ない。》このようにシェリングは、論理的な神話を創作しつつ、現実としての現実を前にしての敬意、また、現実が遍く生起することを前にしての敬意として、超越者における世界現実の歴史性に的中するものを、没落と上昇の可能性における緊張を実存にたいして緩めることなく、尚、言表することが出来ているのである。
 10.歴史における没落と上昇。— 現存在空間のなかで私は可能的実存として作用し得るのであるが、〔私は、〕世界全体を眺め遣ることで、この現存在空間を、単に範囲に関してではなく、性質に関して、踏み越えていたのである。
 歴史的存在者として私は、私の限られた世界の状況のなかでのみ現実的である。私は諸々の可能性を見ているが、これらの可能性は私の知識に基づいて初めてそのような可能性であるようなものなのである。〔そうして、〕私が私の知識に基づいて決定的に行為すればするほど、ますますはっきりと、限界に臨んで予測不可能なものが自らを示すようになるのである。私は単独的な人々と共に、〔相互に自己を〕開顕〔し合う〕運動のなかに立っているが、私がこのような交わりの中へと決定的に踏み入るほど、外部に存するすべてに対して交わりを欠く圧倒的なものが、いっそう感じられるようになるのである。了解可能な私の世界を充実させつつ、私は、未だ了解されておらず了解されることも出来ないものがすべてを包み込んでいる、その中にいるのである。
 しかし私の知と探求は、私の理解力と介入力の手に負える世界の限界を超えて、拡大するものである。しかもこの場合、私の知と探求は、世界全体に関わるのとは異なる仕方で、また、人類の現存在としての歴史に関わるのとも異なる仕方で、拡大するのである。この人類の現存在は、〔世界全体よりも〕私にいっそう密接に関係するものである。何故ならこの現存在は私の現存在を産出したものであり、そして現在も産出しているものだからである。そしてまた、この人類の現存在は、自らの諸現実と諸決断によって、同時に私自身の諸可能性を示しているものであるからである。
 世界全体として神話的に思惟されるものは、全く他なるものとしての自然の存在であるか、あるいは最初から人類の歴史に関係するものである。そこにおいて意識と知が生じ、人間世界が生成する。この世界を人間は自らの住居であるものとして、自らの言葉であり活動領域であるものとして、自分のために産出するのである。こうして世界が、— 我々がそこにおいて存在する我々の世界が、始まるのである。(98頁)したがって、世界全体なるものとして神話的に表象されたものは、我々には近づけないにしても存在としてぼんやりと語り掛ける他なるものを、〔我々に少しは〕近づけるはずのものであったのだが、じっさい、まさに、我々の作用力と責任がそこには及ばないところのものを現前させるものであったのである。そしてこの他なるもののほうでは、その存在の力と無限な富とで我々に関わり、我々を捉えて離さないのである。
 これにたいし、歴史においては、私は自分自身が様々に働き掛けることの出来る空間にいるのである。ここでは没落と上昇は、私自身であるところの現実がもつ存在様態なのである。しかし私は自分をただ人間たち〔人類〕の鎖における束の間の部分としてのみ見いだし、それ以前に私自身において飛翔を一義的には見いださないのであるから、私においても全体においても、飛翔と没落は同時にひとつの生起のようなものであって、この生起に私はなるほど力なく委ねられてはいるが、自然に委ねられるように委ねられているのではなく、常に人類次第でもあり、したがって私次第でもあるようなひとつの現実としての生起に、委ねられているのである。
 人間が歴史的に行為するとき、人間はそのときにのみ、自分が欲するところのものをはっきりと知っているのであり、そしてそのときにのみ、すなわち、自分の絶対的意識が出来事に滲み通り、出来事を超越的に〔超越者のなかに〕錨留めするときにのみ、人間は無制約的に欲するのである。その他の仕方では人間は、単に一時的な目標に従って恣意的かつ不確かに行為するだけであるか、あるいは、合理的な終極目標に従って暴力的に、おそらく破壊的に、行為するだけであろう。あるいはまた、人間にはただ、生命本能の確かさが残るだけであり、この本能によって人間は特定のこの個別者として、とにもかくにも出来事の海のなかで出来るだけ長く水面に浮きつづけるのである。
 超越者へと関係させられていることのみが、つぎのことを、すなわち、人間が葛藤状態のなかで自己を敢行し得、そして、何かが決断されなければならない故にひとつの現存在を滅びるに任せ得る、ということを、可能にするのである。というのも、その本質において諸々の妥協からのみ生きている不明瞭な存立は、没落してゆくものだからである。このような存立は、現実的であるために、即ち、そのような単なる現存在であるという非現実から上昇し得るために、自らの限界にまで駆り立てられて、自らが本来的には何であるのかを、言うに至らねばならないのである。しかし、あらゆる現存在は様々な妥協に基づいて相対的なもののなかで生きざるをえないので、何処で決断が為されるべきであり何処で為されるべきでないのかは、客観的には知り得ないことである。決断への意志は実存的なものであり、この意志を駆るものは、ただ運動や興奮や他の様になることや自己破壊を求める人々の忍耐の無さや不満ではなく、「現実は真であるべきである」という感覚なのである。ひとつの社会的あるいは個人的な存立が護られるべきであるかどうか、真理が思惟されるひとつの仕方が否定的に批判されずにおかれるべきであるかどうか、というようなことは結局、決断をする諸々の実存が超越者に関係づけられている場合に、明らかなことなのである。「時々、すべては再び全否定されて、(99頁)もう一度最初から始められなければならない」、というような言い方は、不実な言い方なのである。歴史的現存在においては、真実は、ひとつの存立を伝承的に保持することと、破壊の限界無き危険を冒すこととの間で、緊張しつづけることなのである。しかし、単なる経験や定義可能な諸目的からのみでは、いかなる決断も見いだされない。あらゆる根源的な決断は、没落と飛翔の現前としての超越者に根差すものである。つまり、史実的で現在的な現存在が、私にとって、経験的な現実の無際限な平面の上に存するのみではなく、透明になるような、あらゆる瞬間においては、このような現存在は、没落もすれば上昇もする存在のなかへと分節化されているのである。
 歴史における没落と上昇は、歴史を哲学的に読むことによって、我々に感得されるものであるが、〔我々〕自身の行為が共同的な行為として政治的になることによっても、現実のものであるのである。
 歴史を超越者の暗号として読むことは、現在における行動を活発にさせるための、観想的な補完である。感動させられた哲学者は、彼が経験的現実の諸要素を用いて人類史の神話として物語るところのものを、超感性的存在の暗号として読んでいるのである。そのような神話の最後のものは、ヘーゲルのそれであった。そのように見てもやはり歴史は、諸々の宇宙発生論の単に超感性的な諸神話とは区別されて、ひとつの、現実性における神話になる。世界の外側でのひとつの過程を案出することによってではなく、現実性の中に沈潜することによって、私はこの神話を経験するのである。まるで私が歴史の中で生きている者自身であるかのように、私が〔その者と〕身近になるならば、私は、たとえ一面的であっても今や実在的でもあるような、ひとつの交わりのなかで感動させられる。そのとき、歴史は、過去のものがあたかも更に未来であるかのように再び生成し得る、という意味において、現在となるのである。過去のものがもう一度、可能的なものとして浮遊状態になるのであるが、そうしてますます決定的に、過去のものにおける窮極的なものが、絶対的に歴史的なものとして受け取られることになるのである。ここにおいて、現実性そのものにたいする敬意が生じる。この現実性そのものは、超越者に関係させられていることによって、自らの深みを有するの〔だから〕である。歴史をこのように読むことは、歴史哲学〔となるの〕であり、この歴史哲学は、時間において時間を止揚するものなのである。
 このように理解された歴史においては、没落と上昇は、明確なものではない。〔歴史を〕そのまま直接に読むかぎりでは、没落と上昇は、絶えず別の仕方で何度でも繰り返し生じているように見える。つまり、歴史は、この二つのもの(没落と上昇)を示すことで、私に訴え掛けをしているのである。しかしそれから、歴史は再び両義的であり、諸々の時代の系列においては、すべては上昇でも没落でもあるように見えるのである。
 没落と上昇の意識は、可能的実存を、可能的実存自身の現在における行動へと投げ戻す。この行動は、〔可能的実存としての私によって〕観想されて(100頁)我有化された(私自身のものとなった)歴史空間のなかで、充実を得るのであるが、そうなるのは、この行動が、過去から生じるあらゆる反響によって、自らが現在における私の決定的な行為であることを、確認する場合なのである。しかし、歴史の読解と、現在の状況の中への後退的な飛躍との間には、緊張があり続ける。この二つは、別の根源から、一なるものである超越者によって結びつけられることがなければ、一つの焦点に収斂しない。〔歴史を〕読むことは、私が束の間のあいだ現在にたいして目を閉じることによって出来ることである。そして現在は、私が過去のことを忘れることが出来ることによって、再び現われる。というのも、現在の中にずっと嵌まり込んでいなければならないのが現在というものなら、現在は歴史の外に取り出されたままのものであるから。現実の状況の中に歩み入ることは、身体的に揺さぶられることである。これに対して、過去の状況を最も突っ込んで了解することすら、可能性の空間のなかで単に思惟することにとどまるのである。
 目的を有する行為は、単に世界の内での行動であり、あたかも世界というもの[die Welt]そのものが計画の対象や目標であるかのような創造や変革ではない。だから、どんな時代になっても不可能なことは、まるで世界が全体として形成されるはずであるかのように、唯ひとつの意識が、自分自身の万能の力で世界を包み込むことであり、そのような力は束の間の仮象にすぎないのである。それゆえ、この上に更に、世界の全体を前にしての畏れと同調するような、最も決断に満ちた行為というものが生じるのであり、そして、最も具体的に歴史を知ることとともに生じるのは、世界の成り行き全体についての抽象的な諸主張にたいする嫌悪なのである。人間は歴史に介入するが、歴史をつくるのではないのである。なるほど、人間には、自らの無力さにもかかわらず、つぎのような意識があり続ける、すなわち、すべてのものは生じるがままに在らねばならないわけではなく、別のようにもなり得るのだ、という意識である。— とはいうものの、すべてのものの根拠として置かれているものは現実そのものなのであり、まったく測り難いものなのである。
 全体というものは、しかし、過去のものの総体でもなければ、未来でもない。没落と上昇とは、各々現前的なものとして、現実なのである。超越者へと関係づけられていることは、単に歴史を〔超越者の〕暗号として永遠な現在にすることであるのみならず、単なる未来と単なる過去に反対して、純粋な現在のために立つことなのである。いかなる時も他の時のために相対化されるということはなく、また、いかなる時も、その時においてだけ永遠なるものが満たされたとして、絶対化されるということはない。それゆえ、能動的な実存にとってのその都度の現在のみが、本来的な存在の現象であり得るのである。真なるものは実存にとって、眼差しを釘付けにしたままにする過去に掛かっているのはなく、究極目標としての未来に掛かっているのでもない。そのような究極目標を招き寄せたり期待したりすることは、現在を空虚な移行にしてしまう。そうではなくて、真なるものは、瞬間的な実現に掛かっているのである。この実現によってのみ実存は、(101頁)実存に割り当てられた時間の空間にとって、未来の現実でもあり得るのである。現在のことを諦めることによって、より良き未来がもたらされるはずだと慰めて、現在の断念を正当化することは、欺瞞である。未来への関わりは、たしかに、現存在を維持し拡張する個々の技術的対策(訓練、学習、節約、建造)として、相対的な価値がある。しかし、この関わりが現存在の全体に拡張されるべきだとされるならば、この関わりは、自己存在の現実を回避することとなる。現在というものは、現在が永遠なものである場合に、現在そのものなのであり、この永遠な現在のなかに、あらゆる歴史は掬い上げられるのである。
 没落と上昇は、このような本来的存在の路なのである。この没落と上昇という路は、実体的な現在として在ったところの歴史が反響するなかで、自分自身の責任において経験され為されるのである。一なる世界計画なるものを知らないことが、行動の重みを増させるのであり、この行動は、ある一般的な知から適切なものとして導出され得ること無しに、存在の獲得と喪失によって、この重みに与るのである。〔なんとなれば〕この存在は、この重みを、自らの歴史性において自分自身の自由から実現しなければならないもの〔だから〕である。
 11.全体というものにおいて完成される没落と上昇。世界過程と人類史を前にして、終末への問いがどうしても浮かんでくる。終極の諸事象や、現存在の完成あるいは究極的な破滅についての、ある教説においては、神話的な諸解答が呈示される。
 終末への問いは非神話的に立てられ得る。人は未来について問う、未来はどのようなものであり得るか、また、どのようなものでありそうか、と。時間の空間が充分に長く想定されている場合には、始まりがあったものに関して、時間における一切の終末はそのものの滅亡であることになろう、と見做される。この終末以前には、見渡すことのできない様々な可能性が存しているのである。人間の歴史の生成において、限定されない進歩が信じられようと、平和化された惑星上での人間現存在秩序の究極目標が考案されようと、あるいは目標の無い無限の自己運動が漠然と捉えられ欲せられようと、— いずれの場合でも、終末あるいは無際限性が、後の諸世代によって体験される未来の実際の世界として思念されている〔だけである〕のであり、超越しつつ一切の諸事物の終末が探求されているのではないのである。
 この〔超越しつつ一切の諸事物の終末を探求する〕ことが、神話においては生じたのであり、神話は時間上の現実性を空想上の超感性性と一つにしたのである。その種の諸神話の内実は、単に時間的に考えられた生起事象を超出するものである。人がそれらの神話を経験上の予測のように見做して、時間的に規定された世界滅亡を待った場合には、人はその世界滅亡が起こらないことにがっかりさせられていなければならなかったのである。だが、この種の表象が感性的・時間的な面においては不可能なものであることが(102頁)認識されている場合には、問題であるのは、もはや、終末を時間の中に引き入れることではなく、終末を、超越することによって捉えることなのである。すなわち、終末論的な諸神話が輝きを失っても、本来的な存在への志向は依然として存しているのであり、この本来的存在は、飛翔のときには終末完成の暗号として、また、没落のときには全体的な破滅の暗号として、目前に立つのである。
 というのも、時間の内では、近づき得ない存在というものは、上昇と没落という二律背反を通して現象するからである。永遠なものは、時間現存在としては、決断を通して自らに至らねばならない。この決断そのものが時間的であるかぎりは、終末は未来のものなのであるが、決断が存在の現象であるかぎりは、終末は永遠な現在における完成としてあるのである。それゆえ、私は時間現存在においては決して端的に超越者の許に在ることは出来ず、ただ飛翔において超越者へ近づくことが出来るのみであり、没落において超越者を失いうるのみである。もし、私が超越者の許に在るようなことになれば、運動は止むことになり、終末が完成されて現存し、時間はもはや現存しないことになるであろう。時間の内においては、絶対的意識が完成された瞬間は、即座に再び、緊張した運動へと移行せざるをえないのである。


〔「没落と上昇」(Abfall und Aufstieg)ここまで〕

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 詳細目次(作成途上)

反抗と帰依 (71頁)
 1.憤怒 —(71頁) 2.知欲の中での決断の停止 —(72頁) 3.知欲における我々の人間存在は既に反抗である —(72頁) 4.反抗する真理意志は神性へ呼びかける —(73頁) 5.自己自身を欲することにおける割れ目 —(74頁) 6.帰依 —(75頁) 7.神義論 —(75頁) 8.神性の秘匿性のための時間現存在における緊張 —(79頁) 9.諸々の極を孤立化して高める過ぎることの破壊性 —(80頁) 10.諸々の極の孤立化における無意味な逸脱 —(80頁) 11.信頼の無い帰依、神を見捨てること、神無しでいること —(81頁) 12.最後には問い —(81頁) 

没落と上昇 (83頁)
 1.没落と上昇における私自身 —(83頁) 2.私が評価するように私は生成する —(84頁) 3.依存性における自己生成 —(87頁) 4.超越者のなかに保たれた過程の方向は、何処へ行くのか定まっていない —(88頁) 5.過程であり全体であるものとしての私自身 —(89頁) 6.守護天使と魔物 —(90頁) 7.不死 —(92頁) 8.私自身と世界全体 —(94頁) 9.世界過程 —(95頁) 10.歴史における没落と上昇 —(97頁) 11.全体というものにおいて完成される没落と上昇 ―(101頁)


昼の法則と夜への情熱 (102頁)

多なるものの豊かさと一なるもの (116頁)