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高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

”人間が成長するというのは嘘である”

2023-03-25 21:53:37 | 日記

”人間が成長するというのは嘘である”




2021年04月28日

 
敢えてこう言いきってみた。というのは、大人な人間というのは児童の頃から大人である、と、ぼくは中学の頃に経験しているからである。人間は、変わらぬ本質を最初から一生生きているのではないか。この感覚があるのが、最初から大人な人間そのひとなのである。あとは、たぶん、うわついた人間の寝言だろう。 大学の頃、帰省していたぼくを、中学の頃の同級生がひょっこり訪ねてきて、ぼくをみて、「おまえはちっとも変わらんなあ、安心した。これであと十年は来ずに大丈夫だ」、と、しみじみ言った。ぼくは、こいつ何て大人なことを言うんだろう、と、感銘を受け、その光景はいまもそのままぼくの記憶場に現前している。電気関係で既に働いていた。 それにくらべて、市内の進学高校や東京の大学で遭遇した者らは、なんて幼稚な子供のままなんだろう。そのなかでじたばたしているにすぎない。子供というのは、年齢のことではない。 
 
 
友よ、すまなかった。またいつでも訪ねてきてくれ。
 
 
 
 

”学問に携わることは、自己への責任であり義務である”

2023-03-25 21:41:38 | 日記

”学問に携わることは、自己への責任であり義務である”


 

2020年12月02日

 
人文行為は、学問であろうとする場合のみ、ディレッタンティズムから区別されることができる。自堕落から救うのは学問意識である。自堕落というものは、自分の責任だけではなく、この世そのものが自堕落へ誘うのである。ではその場合もなぜ自堕落と言うかというと、自己がこの世の傾向と現実から自分を護る態勢を充分に開発していない点で、自己にも責任があるからである。 自分の高い本質は変わりない。それは反省によって知られている。課題は、反省によって知られたその高い本質を、この世において護る態勢を整えることである。それが学問の構えなのである。この意味で、学問に携わることは、自己への責任であり義務である。自分の人文行為を学問へと整えよ。 
 
学問とは、自己の本質にふさわしく自分をこの世から引き離す行為そのものである。 
 
 
 
学問とは探求であり、ぼくがしているところのものである。ものごとをみきわめること。 
 
 
 
 
 

”美と人間” 全人間的営為である芸術

2023-03-25 21:33:37 | 日記

”美と人間”




2019年09月15日

 
美は、絶対的な美のみを美と云うのであって、絶対的なものに表面的と内面的の区別は無い。表面と内面の絶対的統合が美の本懐である。表面的な美というものはありえない。正確には、表面的な美で満足するようにはわれわれの本性はつくられていない。われわれはかならず内面的な美を希求するようにできている。そして、内面的な美は、表面に迫(せ)り出してくるものとしてのみ、われわれはこれを経験する。この意味において、内面の美と外面の美の区別はありえない、と、ぼくは言っているのだ。 
 
美しくなりたいなら、美の本源である魂が迫り出すよう、内面を磨くことである。愛をもつことである。愛は内的な美の希求である。 
 
芸術は、このことの証言でなければ、いっさいの意味はない。
 
芸術は、この意味で、全人間的な営為であるから、いわゆる美感覚のみの問題ではなく、思想的な営為でもある。思想の営為を俟ってはじめて美感覚そのものが充全である。 現在の日本に真の美が稀であるのは、思想の営為が、芸術家自身において、世俗性を脱しておらず、ここに、内面の分裂があるからである。美を求めているつもりでいながら、判断原理そのものは世俗のものである。 美は本質的にメタフィジックなものであり、人間自身の志向がメタフィジックとならなければ、真に現われない。 これは、「神」の伝統をもたない日本にとっての難問である。 宗教やスピリチュアリズムで解ける問題ではない。
 「神」の問題は、自己との真の自問自答、知性の問題である。