高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

「なんらかの内面の静謐を獲得しようとするたたかいは歴史を貫いてある」 '18

2021-03-06 17:37:55 | 日記

図らずも、ヘッセの『シッダルタ』とチャールズ・モーガンの『泉』は同じ精神課題をかかげていることを知る。


以下は2018年08月24日(金)に 記す。 

 
『彼は昔の修道僧の理想について話しはじめた。それには二つの面がある、すなわち、信仰と瞑想と。「なんらかの内面の静謐を獲得しようとするたたかいは歴史を貫いてあるんだ」 と言った。「僧院にはもちろんのこと、都会や市場にも。また、要塞や野営地や牢獄にも。いかにそれを獲得するかが問題なんだ。特定の神を崇めることはその一つの方法だ。また、世を捨てることもね。だが、そのいずれも、必ずしも必要な方法ではあるまい。」』 
 
 チャールズ・モーガン 『泉』 第一部 「砦」 第一章 より 
 
高田博厚先生の『薔薇窓』で挙げられている小説家。 
 
 
人間はこのことを知る者とこれに参与していない者との二つに分けられる。前者は後者に心を開いてはならない(それが無益であることは最初から判っているから)。まだ、〈公平〉なふりをするのかね。動物のほうがよほど前者に親しい (後者は動物よりもはるかに危険である)。 高田先生もそれを書いている。
 
 知っているか知らないかを、ぼくはここで、参与しているかしていないかと同義に扱っている。これによってぼくは、精神を論じる学問自体の無益を言っている。その道の〈最高権威〉になっても、参与していない者は参与しておらず、つまり知らないのだ。 知っているか知らないかは、学問とはまったく関係ない。 学問や論じることは人間を目覚めさせない。もともとそうであるひとが接して(本を読んで)、もともとの自分に目覚めるのみである。 
ぼくの首に懸けてこのことは「証言」する。
 
 
 
 




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