高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

”精神の独立(高田博厚の思想)”

2022-11-08 15:52:52 | 日記

いまこのときこそ読むべき高田さんの透徹した普遍的経験知 


2022年11月06日(日) 03時08分33秒

2021年09月13日(月) 16時19分11秒

テーマ: 高田博厚 芸術論


ここで問題になっている「精神の独立」は、まさに個々の精神の独立者が生まれることに懸っている。日本で現在求められるべきこともこれである。直ちに政治行動を求めることではない。高田博厚の言う「人間」思想はじつに牢固としたものであることが、つぎの文章を引用した「美術と平和」(1974)と題された一節からも、読み取れる。
 
 
《戦後のアメリカとソヴエト・ロシアの巨大な力にはさまれたヨーロッパの知性者が唱え求めたものは「精神の独立」であった。それまで共産党に組していた人々も、この精神の独立を護るためであった。
 長いヨーロッパ経験で、私が見てきたものは「社会悪」以上に強い「政治悪」であった。「社会」が存在する以上「政治」は不可避物であり、それの実施のためには、「悪」を行わざるを得ない。右翼であろうと左翼であろうと政治悪はある。デモクラシーになったら、それならばこの「悪」は失くなるか? 失くならないで「悪」という毒素を「自由」「民主」の名において一般に撒き散らし、一見「悪」でないように見せるだけである。左右を問わず、専制形態を取らざるを得ないのは政治的必然であるが、それだけに「悪」が凝集して「見える」のである。しかし「知性」が社会に対して待つ(持つ)「権威」は、「政治悪」が不可避のものであれ、またそれが右からのもの左からのものであれ、「悪」を是認しないことにある。「権力」や「暴力」に真に対抗できるものは、長い目で見る時、軍隊でも武器でもない、「知性」である。》 
 
(高田博厚『もう一つの眼』 43-44頁)
 
 
 
高田博厚は普遍的な理念を教えてくれる。
 
 
 






向き合うのではなく現在すること

2022-11-07 01:50:20 | 日記


2022年11月05日(土) 筆

愛の路について



向き合うのではなく現在すること。

 
これができていればぼくは精神的に健全なのだ。そのためには間主体的な恩寵が要る。これが愛なのだ。 
 

 
学問としての哲学は(事柄を問題化して)向き合おうとするが、これは意識の壁をつくることである。 ちがった哲学があってよいし、哲学を脱ぎ捨てることができるのがよい。
 
 
恩寵においては、行為が意識(反省)に引っ掛からない状態になっている。これが、間主体性が成功(現出)している状態である。
 
 
愛のほかはすべて非本質的なものである。
 
 
愛は行動である、とはぼくは言わないが、愛において人間は行動的になっている、とは、経験することである。
 
 
神経質とは、間主体的な愛の欠乏である。(というよりも包括的な愛を覚知できていない状態である。)