高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

”〈愛〉と〈詩・芸術〉の人間存在論 覚書”

2023-03-26 22:57:00 | 高田博厚の芸術哲学

”〈愛〉と〈詩・芸術〉の人間存在論 覚書”

2023年03月05日(日) 02時30分33秒

 
テーマとして見いだした大事で核心的な問題は、意識して繰り返し問い、つまり言表して、展開しなければならない。この言表展開をぼくはやろうと決意した。
 すなわち、
 
「〈愛〉と〈詩・芸術〉の人間存在論」 である。 
 
 

2023年01月27日(金) 13時43分46秒
 
人間は愛なしでは生きていられない、とよく言われる。それは、人間が本来、時間・空間を超えた本質を有しているからであり、時空を超えたものへの参与なしには自分の本質と一致しないからである。それを最もよく啓示してくれるのが愛の経験なのだ。最も内面的であるがゆえに外部的なもの(時空)を超えている人間本質、それは主体性と間主体性という両極性において現われる
 愛は本来、時空を超えた形而上的なものである。そしてそれは人間の本質と一致する。ゆえに人間は愛なしには、つまり時空を超えた自らの本質なしには、人間らしく生きていられない
 このこといっさいは、真剣に真面目に受け取められねばならない。
 そしてここに詩と芸術の意味がある。愛の、形而上次元の、扉を開くもの、確かめるもの、として、詩と芸術はあるのである。詩と芸術によって人間は人格的な愛に直接に目醒めもするのである。
 ゆえに愛と詩・芸術には、人間の存在論が懸っているのだ。
 



””マルセルは何故戯曲を書くのか””
 
2023年03月12日
 
戯曲は、人間の心に寄り添う(あまりに濫用されている言葉だが)訓練と快楽であり、まさに親密性の実現ではないか。親密性とは間主体性が意味するところのものである。ただの二人称関係ではなく、超関係的な境位である。そこには神的なものがある。たとえその描くものが壊れた世界であっても、それを描く行為は間主体性の境位のみから出来るのであり、戯曲の経験そのもののなかにその境位の感得はあるのだ。
 
演劇創作でも、彫刻でも、通常の自我を超出したメタフィジックなもの(それを魂の境位と呼べば、純粋自我でもあるもの)への行為が、芸術行為であるとは言えないだろうか。
 

 
3.23 
 
〈愛〉のために時を使うときこそ、じぶんは居るのであって、ほかはすべて自己満足、自己放棄だということは、教育はけっして教えない。〈詩人や芸術家〉は、それを知っている者でなければならないだろう。そのことを思いだすために、週休日はあるのであって、これは深い知恵である。神を思う日というのは、自分の魂を思う日、じぶんの愛するひとに集中する日、ということと同じである。すべての社会的拘束を離れる日。これはすばらしいことである。日本人はまだそのことに充分目醒めていないことが、日本人につよい「甘え」の原因にもなっていると言える。土居健郎の「甘えの構造」は、甘えを否定しているのではなく、人間には自立と甘えのバランスが必要だと言っているのである。このバランスを得ることは、魂の秩序あってはじめてできるのだというのが、ぼくの変わらぬ思いである。このことは、人間の生活におけるメタフィジックな次元の必要に覚醒させるものであり、これが、知性である。
 
 
3.26

彫刻のような孤独な行為も、魂に向かって単なる主体性を超える行為であるかぎり、本質的には間主体的な行為であると言えないだろうか。意図を超えた行為。だから宗教的な、メタフィジックな行為であると高田博厚によっても言われるのだ。
 
「神」と言うにはじぶんの力が足りないゆえに「メタフィジック」と言うと高田博厚は言っている。これは「形而上日記」とじぶんの思索帳を言うマルセルと同じである。自分が自分の魂に行動することは本質的に間主体的な行為であり、ゆえにメタフィジックな、宗教的な行為なのである。マルセルの演劇創作と本質は変わらない。
 

超越者は、俯瞰できないほど多様な形態において自らを啓示する、というヤスパースの言葉を、これに重ねることもできる。 マルセルの間主体性という観念は、メタフィジック一般を広義に示すものと解することができる。
 

ぼくのすきな高田博厚とマルセルをつなぐ一本の糸が見いだされたと感じられるだけでこれほど温かい満たされた気持になれる。  人間行為に関する具体的かつ普遍的な形而上的観点が浮き立ってくるからである。 
 

間主体性こそは、美 と 愛 と 信仰 の本質である。

 



”人間が成長するというのは嘘である”

2023-03-25 21:53:37 | 日記

”人間が成長するというのは嘘である”




2021年04月28日

 
敢えてこう言いきってみた。というのは、大人な人間というのは児童の頃から大人である、と、ぼくは中学の頃に経験しているからである。人間は、変わらぬ本質を最初から一生生きているのではないか。この感覚があるのが、最初から大人な人間そのひとなのである。あとは、たぶん、うわついた人間の寝言だろう。 大学の頃、帰省していたぼくを、中学の頃の同級生がひょっこり訪ねてきて、ぼくをみて、「おまえはちっとも変わらんなあ、安心した。これであと十年は来ずに大丈夫だ」、と、しみじみ言った。ぼくは、こいつ何て大人なことを言うんだろう、と、感銘を受け、その光景はいまもそのままぼくの記憶場に現前している。電気関係で既に働いていた。 それにくらべて、市内の進学高校や東京の大学で遭遇した者らは、なんて幼稚な子供のままなんだろう。そのなかでじたばたしているにすぎない。子供というのは、年齢のことではない。 
 
 
友よ、すまなかった。またいつでも訪ねてきてくれ。
 
 
 
 

”学問に携わることは、自己への責任であり義務である”

2023-03-25 21:41:38 | 日記

”学問に携わることは、自己への責任であり義務である”


 

2020年12月02日

 
人文行為は、学問であろうとする場合のみ、ディレッタンティズムから区別されることができる。自堕落から救うのは学問意識である。自堕落というものは、自分の責任だけではなく、この世そのものが自堕落へ誘うのである。ではその場合もなぜ自堕落と言うかというと、自己がこの世の傾向と現実から自分を護る態勢を充分に開発していない点で、自己にも責任があるからである。 自分の高い本質は変わりない。それは反省によって知られている。課題は、反省によって知られたその高い本質を、この世において護る態勢を整えることである。それが学問の構えなのである。この意味で、学問に携わることは、自己への責任であり義務である。自分の人文行為を学問へと整えよ。 
 
学問とは、自己の本質にふさわしく自分をこの世から引き離す行為そのものである。 
 
 
 
学問とは探求であり、ぼくがしているところのものである。ものごとをみきわめること。 
 
 
 
 
 

”美と人間” 全人間的営為である芸術

2023-03-25 21:33:37 | 日記

”美と人間”




2019年09月15日

 
美は、絶対的な美のみを美と云うのであって、絶対的なものに表面的と内面的の区別は無い。表面と内面の絶対的統合が美の本懐である。表面的な美というものはありえない。正確には、表面的な美で満足するようにはわれわれの本性はつくられていない。われわれはかならず内面的な美を希求するようにできている。そして、内面的な美は、表面に迫(せ)り出してくるものとしてのみ、われわれはこれを経験する。この意味において、内面の美と外面の美の区別はありえない、と、ぼくは言っているのだ。 
 
美しくなりたいなら、美の本源である魂が迫り出すよう、内面を磨くことである。愛をもつことである。愛は内的な美の希求である。 
 
芸術は、このことの証言でなければ、いっさいの意味はない。
 
芸術は、この意味で、全人間的な営為であるから、いわゆる美感覚のみの問題ではなく、思想的な営為でもある。思想の営為を俟ってはじめて美感覚そのものが充全である。 現在の日本に真の美が稀であるのは、思想の営為が、芸術家自身において、世俗性を脱しておらず、ここに、内面の分裂があるからである。美を求めているつもりでいながら、判断原理そのものは世俗のものである。 美は本質的にメタフィジックなものであり、人間自身の志向がメタフィジックとならなければ、真に現われない。 これは、「神」の伝統をもたない日本にとっての難問である。 宗教やスピリチュアリズムで解ける問題ではない。
 「神」の問題は、自己との真の自問自答、知性の問題である。