高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

落第級の善人の溜り場である日本  みずから悪を分有することは真理探求のためになかなか名誉なこと

2023-07-13 02:05:03 | 日記

落第級の善人の溜り場である日本  みずから悪を分有することは真理探求のためになかなか名誉なこと



 
ただの善人には、この世の悪の構造の観念をつくることは難しいのだろう。この意味で日本は善人の溜り場だ。頼りない善人の。 悪を見抜けるのは、みずからも悪を分有している人間だ。この意味で悪の分有も、真理の探求における徳なのである。このことを日本人の多くは なかなか思いつきそうにない。
 
ぼくは上の意味で悪を分有している人間だと、じぶんで認め得る。この悪は、発達した意識で必然的に懐胎され、隠微に活動に至るものであり、これ無くしては真の真理の探求もほんとうには出来ない、と思う。だから、優れた意識の者で同時にこの悪の分有者であることは、なかなか名誉なことなのだ。じぶんは、素朴なだけの善人ではないぞ、という自負が生じるのは必然で、善の探求にしても平凡な善人のもとは格がちがう、ということになる。じっさいそうなのである。 ぼくは傲慢であると言われてちっともかまわず、そんな見方は無意味でどうでもよいと思うくらい、本来のデカルトの子孫であり兄弟である。 倫理性や人間性にも、悪の分有が必要であることを、日本の倫理学は理解しているだろうか? 審判や評価の対象としてではなく、探求する主観の駆動力として。
 
 
情報のままに情緒的に反応する日本的善人は、普遍的善人のレベルに達していない、愛すべくも落第級の善人である。
 
 
 
 

リルケの語る愛 

2023-07-12 15:25:20 | 日記

リルケの語る愛 


リルケ ノオト

 
「ふたりの人間がいました。男性と女性です。ふたりは、たがいに、愛しあっていました。愛するということ、それは、どこからも、なにも、貰わないことです。かつて持っていたものとか、その他さまざまなもの、一切合財を忘れ去って、むしろ、それを、ただひとりの人間から、受け取りたいと、望むことです。このふたりも、おたがいに、そういうことを、願っていました。ところが、時の流れのなかで、日々を迎えては、過し、あまたの人々に立ち交りながら、すべてが去来するところにいては、——いまだ、たがいのあいだに、愛するための真実な関係が、できてないうちは、なおさらのことですが——このような愛しかたは、とても、実行不可能です。さまざまな出来事が、四方八方から、押しかけてきます・・・・・・
 それゆえ、このふたりの人間も、時の流れをよそに、時計の鳴鐘や都市の騒音から遠く離れて、孤独の境へはいってゆこうと、決心しました。」 
 
 
「神さまの話」118頁 
 
 
 
 

哲人は鉄人である

2023-07-10 05:00:19 | 日記

哲人は鉄人である




 
哲人は鉄人である。
デカルトの表情は鉄人である。
哲学者の自己意識はああいうものとなる。
デカルトが好きな者はいないだろう。人間を峻拒している。
しかし「デカルト」は人間にとって必要なのである。「彼」なくしては人間は生涯人間に引きずり回される。だから彼の表情はそれを拒む決意を瞬間瞬間生じさせている表情なのである。
 
 
 
 
 

”忘れた記憶は記憶と言えるか”

2023-07-06 21:00:32 | 日記

”忘れた記憶は記憶と言えるか”



初再呈示
 

2021年09月16日

 
なにか他のことに注意が向いて、さっきまで在ったのに手放してしまったひとつの現前、つまり忘れた記憶は、無になったのか、それとも記憶として保存されているのか。記憶として在るから失望するな、心配するな、とじぶんに言い聞かせることができる、と信じることが、前に踏み出して生きることの条件なのだ。これを「反復」 (Wiederholung)と言う。人間の本性は何と弱く、かつ、強靭であることか。生きるとは、「反復」を生きることである。 
 
 
反復があるなら、永遠もまた在る。 これが忠実・信仰ということである。