MAICOの 「 あ ら か る と 」

写真と文で綴る森羅万象と「逍遥の記(只管不歩)」など。

山百合と横須賀74期練習員

2006年09月20日 | 花随想の記

当時は高校を卒業すると70%程度は就職をしていた。

私はといえば大学進学に淡い思いを抱きつつ、
横須賀にある「海上自衛隊横須賀教育隊」に「第74期練習員」として入隊した。

自衛隊なら陸海空なんでもよかったが、
セーラー服の格好よさから海上自衛隊を希望し入隊の許可が出たのだが、
まだ旧海軍上がりが教官として任官していたころで、
訓練や躾は陸海空自衛隊の中でも特に厳しいものだった。
同期練習員は新卒者を中心に約330名と多かったが、
希望によって艦船、航空機、補給3つの分隊に分けられさらに20名程度の班に分けられた。

教育隊に到着すると下着以外の制服や靴、作業服などが支給され、
制服へのアイロンのかけ方や、三角巾にもなるネクタイの結び方などを
、お客様待遇よろしく懇切丁寧に教えていただいた。
入隊式までの3日間ほどお客様待遇が続いた。

宣誓を主題とした入隊式が終えると正式に海上自衛隊員として2等海士という階級に任命され、
各自に固有の認識番号が与えられた。
私の認識番号はME00-147xx2(00の部分は都道府県ごとに決められた番号)だった。
これを刻印したペンダントを作りネックレスにしておくと、
万が一の場合は認識番号のみで個人が特定できる便利なものだった。

任命されるや否やお客様待遇は終わりを告げ、
教官たちは鬼教官と呼ばれるほどに急変する。
たとえば行進中に私語があっても式前は何も言われなかったが、
入隊式後に発見されるや即座に活を入れられ、罰として2kmほどのマラソンが全員に課せられた。
こうして半年にわたる基本教育訓練が始まった。

教育訓練の詳細についてはあまり記憶にないが、
座学(夜間に行われることが多い)では自衛艦や航空機の概要、
日本の歴史や戦争の歴史、国防、国際情勢、海軍の歴史、
消火器や小火機(ライフル銃)などの取り扱いと分解や組み立てなど、
実技では、礼式、カッター訓練、手旗信号、艦船火災消火訓練、艦船係留結索、
乗艦実習、砲弾の填法、水泳訓練、銃格(柔剣道)、柔道、マラソン、夜間行軍、
武山登山、ライフル射撃(200ヤード伏撃)、部隊実習、隊歌訓練などがあった。

時には言行不良などで旧海軍上がりの教官に殴られるものも出た。
しかし
「きおつけ~!!、歯を食いしばれ~!!」の号令で不動の姿勢になったところを体が飛ばされるほど殴られるが、
不思議と傷ができるようなことはなかった。
旧海軍の殴り方のようでコツがあるらしいということだが詳細は教えていただけなかった。

班員から一人でも秩序を乱す隊員が現れる必ず連帯責任となり、
班員全員が両足を高さ70cmの壁の上に乗せた腕立て伏せやマラソンやうさぎ跳びなどが課せられた。
毎日どこかの班がバッチョク(罰)を受けていた。
特にうさぎ跳びはきつく一気に足腰がやられる。
しかし教官は手を緩めない。
うさぎ跳びの翌朝は筋肉疲労で階段の上り下りもままならないほどになるが、
整列が遅いといっては再び罰を与えてくる。

起床は6時、消灯は22時だった。
体を使う訓練は毎日16時30分ごろには終了し、
19時まで夕食と風呂と自由時間があった。
PX(基地内売店)で買い物をしたりすることもできた。
また映画館もあり土日祝日には封切り物を見ることができた。

教育隊は小田和湾に面していた。
岸壁で波の音を聞きながら友と愛国心について激論を交わし、
かつ夢も語りあった。
まずは何とか大学卒業資格を得て内部幹部候補生選抜試験に合格し幹部自衛官になることで、
どちらが先になるか賭けをしたが、私は三年の任期満了で除隊してしまったが、
彼は内部幹部候補生試験からついには隊司令(軍隊で言えば大佐クラスの階級にあるものが任命される)にまでなった。

入隊して三ヶ月が経過したころ、私は歯科通院の帰途左膝に激痛を感じた。
翌日には腫れてしまったので隊内の医者にかかったところ精密検査が必要とのことだった。
(歯科医は隊内にいなかったので許可の上特別に通院できる、特に歯の治療に関しては航海の際に痛みが出てもすぐに陸に戻って治療することなどは不可能なため、完全に治療しておくことが求められた。事実、入隊時の身体検査の折、虫歯が数本発見された者は入隊が許可されず、隣の陸上自衛隊の教育隊に入隊した者もいた)

膝の炎症が原因で訓練教育期間中にもかかわらず、
海上自衛隊久里浜病院に入院することになってしまった。
膝関節炎で水がたまっているとのことだった。
関節炎の原因は柔道訓練のとき、投げ技を強引に返され二人の体重が左ひざにかかったために発症したのではないかとのことだった。

膝以外は元気そのもので病院では退屈をしていた。
膝の水を抜く治療は膝の皿の下に注射針を射して行うのだが、
麻酔は行われなかったため目の前が真っ暗になるほど痛かった。
二度目は麻酔を要求したが、
「男でしょう我慢しなさい」という婦長の言葉で却下されてしまった。
婦長は海上自衛隊では佐官クラスの幹部で、
新入隊員とは10階級もの差があったということを同じ病室の先輩に教えられた。

そんなある日、病棟の廊下からあの独特の花の香りが漂ってきた。
花を見る前にその名前はわかった。
田舎にいたときは強すぎる香りのためあまり好きではない花だった。
花の香りが漂い始めしばらくすると3人の子供たちが花を手に持って入ってきた。
山百合の花だった。売りに来たのだという。

確か一本50円程度だった。
私は花瓶の持ち合わせがなかったので買わなかったが、同室の上司が買った。
そしてなんとなく百合の話をしつつ田舎の話へと進んだ。
田舎の話から出身高校の話になったとき、
「えー、本当かい、参ったなぁ俺も卒業生だよ、こんな階級で会うなんて先輩として恥ずかしい限りだよ」・・・・
これほどの偶然は今までの人生の中でもこれ一度きりである。

先輩とは自衛隊の生活のことや田舎のことなどさまざまなことを話した。
そんな中で、「何かあったら遠慮なく相談に来いよ」という言葉がうれしかった。
それから数年賀状の交換はしたが、
私の任地である下総航空基地に彼が出張に来たときに偶然に出くわし挨拶を交わした程度で、
それ以上の親睦をはかるチャンスには恵まれなかった。

今年もまた山百合の咲く季節になった。

山百合を見るたびに先輩を思い出し、
高校時代に友と行った秋田旅行のとき奥羽本線のSL(当時、蒸気機関車は奥羽線などで運行されていた)の車窓から見た山百合などを思い出す。
自衛隊の先輩はいずれ田舎に帰ってお寺を継がなければといっていたので、
今は住職になっているのかもしれない。
この文章をしたためている今日は8月15日である。終戦記念日だがお盆でもある。

海軍五省
1.至誠に悖る(もとる)なかりしか
1.言行に恥ずるなかりしか
1.気力に缺(か)くるなかりしか
1.努力に憾 み(うらみ)なかりしか
1.不精に亘る(わたる)なかりし


写真は74期練習員41分隊。同期はこんなにいるのに除隊後に会ったのはただ一人だった。
彼は上級幹部になったが任官中に病死してしまった。いいやつだった。


追記
この原稿を脱稿したのは一ヶ月以上前だったが、修正などをしているうちに日がたってしまった。
朝早く夜遅い勤務のために投稿の時間も少なく、今日の投稿になった。
9月20日
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一角座

2006年09月12日 | 写真短歌
東京国立博物館西門の敷地内に「一角座」がある。
第一回目は「ゲルマニュウムの夜」を8ヶ月にわたって上映し、いまは「もんしぇん」を上映中である。

昨年の12月から今年の6月ごろまでは、日没と同時に提灯を持って若者たちがお客を出迎えていた。写真はそのころのものである。


一角座
杜、群青に暮れ行けば
夢追い人等の
提灯煌く



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