その日は関東名物の空っ風が吹き荒れていて寒かった。
仕事を終え四畳半二間に台所と風呂場が付いたアパートに帰ったのは22時を回った頃だった。
当時私は会社合併の仕事を一人で任されていて残業が続いていたが、
公正取引委員会から合併の許可が下り後は合併登記を待つのみと言う仕事一段落の状態になった日でもあった。
アパートに帰るまもなく風呂釜のガスバーナーに火を入れ、
薬缶でお湯を沸かすために台所のコンロの火をつけた。
居間兼寝室のガスストーブにも火をつけた。
やや大きめのプロパンガス用のストーブは火力が強く瞬く間に四畳半の室温を25℃近くまで上昇させた。
風呂が沸くまでの間はTVニュース等を見ながら待つことが多く、
その日もいつものようにテレビを見ていた。
あることを除いては何もかもいつものような流れだった。
しかし、
都内から越してきたばかりの私にはこのあることが重大なことだったとは気がつかなかった。
夜食代わりの菓子パンを食べ始めた頃からなんとなく口の中で洋辛子のような味がしていた。
辛味成分の入ったパンではないのにおかしいとは思ったが、
原因がわからないまま風呂の沸くのを待った。
バーナーの火をつけて約40分後、すなわち時間的に風呂が沸く頃、
すぐに入浴したかったのでズボンを抜いて風呂場に行った。
風呂場のドアを開けたとたんに異変に気づいた。
風呂場に全く温かみが感じられなかったのである。
このとき初めてガスが「シュー」と音を立てて漏れているのに気づいた。
瞬間、怒髪天を突き「やばい!」と思った。
ガスバーナーの元栓をすぐに締め、沸騰していた薬缶の火を消した。
その瞬間だった。
「グオーー」と猛火が私を包んだ。
部屋のストーブから引火したのである。
火に包まれた瞬間「死んだ」と思った。
後で判った事だが、ストーブから引火したことと流れ出たガスの濃度が高かったこと、
マッチやライターを使わなかったことが大爆発を誘発しなかった原因だった。
当時プロパンガスには都市ガスのように臭素が混合されていなかったので、
ガス漏れに気づくのが遅れ、
しかも空気より重いガスなので溜まりやすく、爆発力も強い。
プロパンガス事故というとアパートなどが爆発で吹き飛ばされ、
命までをも落とす人がいて度々ニュースになっていた。
このようにプロパンガスの怖さはわかっていたから瞬間「死んだ」と思ったのも当然のことだった。
猛火に包まれ「死んだ」と思ったとき、火に包まれている私を背後やや上から見下ろしている別の私がいた。
そのときの憐憫な意識は背後から見下ろしている別の私にあった。
「幽体離脱」だった。
幽体離脱直後、田舎の上空で生家を見ている別の私がいた。
瞬間の思いが脳裏を駆け巡ったのかもしれない。
しかし、
上空からの生家の光景はいまでこそGoogleの航空写真で見ることができるが、
当時は航空写真で個人の家が見られることは大変まれであり、
ましてや、田舎の生家の上空からの写真を見る機会など無かった。
火は爆発的に燃えすぐに収まったが、
冬場で空気が乾燥していたため柱が2、3箇所とカーテンが燃え始めていた。
まだ火は燃え上がるほどではなかったのでコップの水で消し止めた。
部屋のガスストーブも消した。
ちょろちょろと燃えていた風呂場の排水口の火は、
水で消そうとした瞬間火柱が上がった。これは爆発だった。
その火柱で左手の甲を焼かれた。
アパートの外を流れる排水溝のコンクリートのフタが爆発音とともに殆ど吹き上げられて居たようだ。
幸いなことに部屋に充満していたガスは燃え尽きていたので、
更なる被害を受けることはなかった。
ガス漏れの原因は点いていたはずの火が、
強風によって煙突から風が逆流し消えたのではないかと言うことだった。
後日隣に住む奥さんから聞いた話によると、
私の前に住んでいた人もガスバーナーの調子がよくないと言っていたようだった。
消し止めて直ぐに爆発音を聞いたであろう隣近所の人たちの声が裏庭から聞こえてきた。
私はすぐに裏庭まで出かけ「大丈夫ですから」と声をかけた。
裏庭の周辺に作られた排水溝の蓋がすべて30センチほど飛ばされていた。
40分以上にわたって漏れ流れたガスの爆発の威力である。
間髪をいれず、組合長さんから
「なに言ってんのよ、そんなに怪我しているのに、今すぐ救急車呼んであげるからズボンはいてきなさい」
ワイシャツにパンツ一枚という姿で飛び出していたのだった。
ズボンを脱いた後だったので、両太腿部の表皮が剥け、手や脚部も火傷を負っていた。
人はあまりにも危険な場面に出会ったり大怪我をしたすぐ後には、
大丈夫ではない状況なのに「大丈夫だ」と言ってしまう状況に陥るが、
そのときの私がまさにそんな状態だった。
アドレナリンが噴出し痛さを抑えてしまっていたのだろう。
やがて消防車と救急車が来ていろいろと事故の状況を聞かれた。
そのあとすぐに救急車に乗せられて病院に向かった。
救急車の中ではショック性の震えに見舞われていた。
震える体をコントロールしようとしたが止めることが出来なかった。
ただ車の音とサイレンの音が耳に入ってくるだけで事の重大さにはまだ気づいていなかった。
思考は平静だった。
平静さは病院についてからも「明日、会社に出られませんか」などと医師に聞いている自分がいた。
一人でやっていた会社合併の仕事は完成間近なのに・・・
「困るのだ入院は」・・そう思っていた。
診断は3度の火傷で重体。
すぐに集中治療室に入れられてしまった。
と同時に二十四時間体制で点滴が行われた。
表皮面積の40%近くを焼いて皮膚呼吸も危ういところにあったらしい。
親族には、もし助かったとしても精神的なダメージが大きく立ち直れないか、
立ち直ったとしても、治癒のためにかかる肝臓への負担によって、
近い将来肝硬変になる可能性が大きいのではないかと伝えられていた。
深夜には田舎から母が駆けつけてくれて、翌朝まで一睡もせず点滴を見守ってくれた。
その日の母は、嫁との小さないさかいで寝付けなかったようで、
私の事故を「寝付けなかったのは虫の知らせだったのだろう」と言っていた。
幽体離脱で生家を浮遊していた時間帯のようでもあった。
それから十数年後、私は私で母が亡くなった時間に「涙して夢枕に立つ母」を見たのだった。
当初2ヶ月と予想されていた入院生活は、3週間で退院するほどの驚異的な回復を見せた。
瞬間の火傷だったため、深部まで火傷していなかったのが幸いした。
薄い皮膚が出来上がり歩行訓練も行なった。
歩行訓練の初日は、ベットから立ち上がると血液が脚部に下りて来るため、
傷跡が激痛に襲われたりもしたが、何とか退院にこぎつけた。
退院してからも2週間ほど休暇をとり通院治療に専念していた。
ガスコンロの火が点くときに「ボッ」と小規模な爆発音を立てるが、
そんな小さな音にも敏感に反応するほど精神的なダメージは残っていた。
しかし、業務に復帰できる嬉しさに後押され出勤することになった。
通勤電車は相変わらず混雑していた。
いつもの時間にいつもの場所に乗った。
言葉を交わすことのないいつもの人々が乗っていた。
そんないつもの光景の中で、私はこみ上げる嬉しさを押さえきれずに居た。
笑顔さえ出ていた。
生きていることの嬉しさだった。
その止まぬ嬉しさのまま出勤し、役員や上司や部下のねぎらいを受けつつ、
最も心配して戴いた社長に合うため社長室に向かった。
先客があり少し待たされた。
社長は花や絵画が好きで、社長室にはいつも鉢植えの季節の花が並べられていた。
先客の面会が終わるまでその花を見ながら、
抑えきれぬほどの嬉しさに耐えていた。
まもなく早春という時期のその日の花は、別名「延命菊」とも呼ばれる「雛菊」だった。
仕事を終え四畳半二間に台所と風呂場が付いたアパートに帰ったのは22時を回った頃だった。
当時私は会社合併の仕事を一人で任されていて残業が続いていたが、
公正取引委員会から合併の許可が下り後は合併登記を待つのみと言う仕事一段落の状態になった日でもあった。
アパートに帰るまもなく風呂釜のガスバーナーに火を入れ、
薬缶でお湯を沸かすために台所のコンロの火をつけた。
居間兼寝室のガスストーブにも火をつけた。
やや大きめのプロパンガス用のストーブは火力が強く瞬く間に四畳半の室温を25℃近くまで上昇させた。
風呂が沸くまでの間はTVニュース等を見ながら待つことが多く、
その日もいつものようにテレビを見ていた。
あることを除いては何もかもいつものような流れだった。
しかし、
都内から越してきたばかりの私にはこのあることが重大なことだったとは気がつかなかった。
夜食代わりの菓子パンを食べ始めた頃からなんとなく口の中で洋辛子のような味がしていた。
辛味成分の入ったパンではないのにおかしいとは思ったが、
原因がわからないまま風呂の沸くのを待った。
バーナーの火をつけて約40分後、すなわち時間的に風呂が沸く頃、
すぐに入浴したかったのでズボンを抜いて風呂場に行った。
風呂場のドアを開けたとたんに異変に気づいた。
風呂場に全く温かみが感じられなかったのである。
このとき初めてガスが「シュー」と音を立てて漏れているのに気づいた。
瞬間、怒髪天を突き「やばい!」と思った。
ガスバーナーの元栓をすぐに締め、沸騰していた薬缶の火を消した。
その瞬間だった。
「グオーー」と猛火が私を包んだ。
部屋のストーブから引火したのである。
火に包まれた瞬間「死んだ」と思った。
後で判った事だが、ストーブから引火したことと流れ出たガスの濃度が高かったこと、
マッチやライターを使わなかったことが大爆発を誘発しなかった原因だった。
当時プロパンガスには都市ガスのように臭素が混合されていなかったので、
ガス漏れに気づくのが遅れ、
しかも空気より重いガスなので溜まりやすく、爆発力も強い。
プロパンガス事故というとアパートなどが爆発で吹き飛ばされ、
命までをも落とす人がいて度々ニュースになっていた。
このようにプロパンガスの怖さはわかっていたから瞬間「死んだ」と思ったのも当然のことだった。
猛火に包まれ「死んだ」と思ったとき、火に包まれている私を背後やや上から見下ろしている別の私がいた。
そのときの憐憫な意識は背後から見下ろしている別の私にあった。
「幽体離脱」だった。
幽体離脱直後、田舎の上空で生家を見ている別の私がいた。
瞬間の思いが脳裏を駆け巡ったのかもしれない。
しかし、
上空からの生家の光景はいまでこそGoogleの航空写真で見ることができるが、
当時は航空写真で個人の家が見られることは大変まれであり、
ましてや、田舎の生家の上空からの写真を見る機会など無かった。
火は爆発的に燃えすぐに収まったが、
冬場で空気が乾燥していたため柱が2、3箇所とカーテンが燃え始めていた。
まだ火は燃え上がるほどではなかったのでコップの水で消し止めた。
部屋のガスストーブも消した。
ちょろちょろと燃えていた風呂場の排水口の火は、
水で消そうとした瞬間火柱が上がった。これは爆発だった。
その火柱で左手の甲を焼かれた。
アパートの外を流れる排水溝のコンクリートのフタが爆発音とともに殆ど吹き上げられて居たようだ。
幸いなことに部屋に充満していたガスは燃え尽きていたので、
更なる被害を受けることはなかった。
ガス漏れの原因は点いていたはずの火が、
強風によって煙突から風が逆流し消えたのではないかと言うことだった。
後日隣に住む奥さんから聞いた話によると、
私の前に住んでいた人もガスバーナーの調子がよくないと言っていたようだった。
消し止めて直ぐに爆発音を聞いたであろう隣近所の人たちの声が裏庭から聞こえてきた。
私はすぐに裏庭まで出かけ「大丈夫ですから」と声をかけた。
裏庭の周辺に作られた排水溝の蓋がすべて30センチほど飛ばされていた。
40分以上にわたって漏れ流れたガスの爆発の威力である。
間髪をいれず、組合長さんから
「なに言ってんのよ、そんなに怪我しているのに、今すぐ救急車呼んであげるからズボンはいてきなさい」
ワイシャツにパンツ一枚という姿で飛び出していたのだった。
ズボンを脱いた後だったので、両太腿部の表皮が剥け、手や脚部も火傷を負っていた。
人はあまりにも危険な場面に出会ったり大怪我をしたすぐ後には、
大丈夫ではない状況なのに「大丈夫だ」と言ってしまう状況に陥るが、
そのときの私がまさにそんな状態だった。
アドレナリンが噴出し痛さを抑えてしまっていたのだろう。
やがて消防車と救急車が来ていろいろと事故の状況を聞かれた。
そのあとすぐに救急車に乗せられて病院に向かった。
救急車の中ではショック性の震えに見舞われていた。
震える体をコントロールしようとしたが止めることが出来なかった。
ただ車の音とサイレンの音が耳に入ってくるだけで事の重大さにはまだ気づいていなかった。
思考は平静だった。
平静さは病院についてからも「明日、会社に出られませんか」などと医師に聞いている自分がいた。
一人でやっていた会社合併の仕事は完成間近なのに・・・
「困るのだ入院は」・・そう思っていた。
診断は3度の火傷で重体。
すぐに集中治療室に入れられてしまった。
と同時に二十四時間体制で点滴が行われた。
表皮面積の40%近くを焼いて皮膚呼吸も危ういところにあったらしい。
親族には、もし助かったとしても精神的なダメージが大きく立ち直れないか、
立ち直ったとしても、治癒のためにかかる肝臓への負担によって、
近い将来肝硬変になる可能性が大きいのではないかと伝えられていた。
深夜には田舎から母が駆けつけてくれて、翌朝まで一睡もせず点滴を見守ってくれた。
その日の母は、嫁との小さないさかいで寝付けなかったようで、
私の事故を「寝付けなかったのは虫の知らせだったのだろう」と言っていた。
幽体離脱で生家を浮遊していた時間帯のようでもあった。
それから十数年後、私は私で母が亡くなった時間に「涙して夢枕に立つ母」を見たのだった。
当初2ヶ月と予想されていた入院生活は、3週間で退院するほどの驚異的な回復を見せた。
瞬間の火傷だったため、深部まで火傷していなかったのが幸いした。
薄い皮膚が出来上がり歩行訓練も行なった。
歩行訓練の初日は、ベットから立ち上がると血液が脚部に下りて来るため、
傷跡が激痛に襲われたりもしたが、何とか退院にこぎつけた。
退院してからも2週間ほど休暇をとり通院治療に専念していた。
ガスコンロの火が点くときに「ボッ」と小規模な爆発音を立てるが、
そんな小さな音にも敏感に反応するほど精神的なダメージは残っていた。
しかし、業務に復帰できる嬉しさに後押され出勤することになった。
通勤電車は相変わらず混雑していた。
いつもの時間にいつもの場所に乗った。
言葉を交わすことのないいつもの人々が乗っていた。
そんないつもの光景の中で、私はこみ上げる嬉しさを押さえきれずに居た。
笑顔さえ出ていた。
生きていることの嬉しさだった。
その止まぬ嬉しさのまま出勤し、役員や上司や部下のねぎらいを受けつつ、
最も心配して戴いた社長に合うため社長室に向かった。
先客があり少し待たされた。
社長は花や絵画が好きで、社長室にはいつも鉢植えの季節の花が並べられていた。
先客の面会が終わるまでその花を見ながら、
抑えきれぬほどの嬉しさに耐えていた。
まもなく早春という時期のその日の花は、別名「延命菊」とも呼ばれる「雛菊」だった。
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