MIFさんの朝食はパンのことが多く、たいてい自分で会社帰りに買ってきます。
でも今夜はちょっと帰りが遅いと聞いたので、私が購入することになりました。
今日はトップ写真のふく福さんに初めて行くことにしました。
先月祖母からもらったパンがおいしい買ったのですが宮前区土橋のお店で、同じ市内でもうちからはちょっと遠い…。
でも系列店(ふく福)が高津区子母口(しぼくち)にあるとのこと。
子母口ならだいたい徒歩40分くらいです。
散歩にちょうどいいし、足が疲れたらバスに乗って帰ることもできるし、ちょっと行ってみるか、と思い立ちました。
今回も写真たっぷり、長文ばかり、お暇なときにご覧ください。
まず駅前で用事を済ませて、中原区役所に向かいました。
区役所の敷地内の「平和の絆」像。圓鍔勝三(えんつばかつぞう)氏作。
もうお亡くなりになっていますが、圓鍔さんの作品は川崎市内ではたくさん見られます。
その隣のタイムカプセル。
今日は区役所前の花壇でボランティアさんによる植栽替えの日でした。
寄せ植えは先に作業をして置いたみたいです。
葉ボタン、パンジー、ビオラの寄せ植えがとてもよかったです。
ちなみに、パンジーは中原区の花です。
中原区役所名物、公衆電話のデュエットフォンがある電話ボックス。
1台で受話器が2つあり、相手と3人で話せる珍しい公衆電話ですが、使っている人をいまだに見たことがありません。
中原区役所前の木は、中原区の木、花桃(はなもも)で区内市ノ坪(いちのつぼ)周辺が以前は
花桃産地だったことにちなみます。
そしてこの花桃の品種は照手桃(てるてもも)です。
神奈川県作出の品種で、神奈川県藤沢市の伝説「栗判官と照手姫伝説」にちなみます。
ここから二ケ領用水の十月桜(じゅうがつざくら)を見に行きました。
十月桜の秋の開花は意外と長い期間で3週間くらいは咲いているかな?まだもう少し楽しめそうでした。
場所は小杉御殿町交差点の車販売店裏あたりです。
ここから全龍寺(ぜんりゅうじ)方面に進みます。
自動車では一方通行を逆走になるので、徒歩でしか進めない道になります。
ここから暫くはほぼ真っ直ぐで閑静な住宅街ですが、裏道として使われているせいか、意外と交通量が多いので、散歩道としてはちょっと不適切かもしれません。
途中で安楽寺(あんらくじ)に立ち寄りました。
1月16日と8月16日に地獄の釜の蓋が開く日に、地獄絵図をご開帳しているそうです。
看板がボロボロですが、ここは、時習学校(じしゅうがっこう)という川崎初の私立中学校があった場所です。
ここからまた暫く進むと、中原区の花、パンジーの直売所があります。
畑の奥にパンジー。
ちょっと見えにくいので角度を変えた位置から。
ここはお花畑ではなくて、直売所の商品陳列畑。
中原区の伝統的なパンジー栽培では、地掘物(じぼりもの)という方法で栽培します。
みなさんがよく見かけるのはポット栽培でしょうか?
ここは自分でスコップを使って、好みの苗を掘り上げて、お会計をします。
この園は、ナシ園も経営されているので一年中忙しいのでしょうね。
ちなみにこうやってお花の掘り取りをさせてくれる園は珍しく、私はこの園しか知りません。
※価格等の情報は2019年11月現在です。
この園の向かい側にある全龍寺に立ち寄りました。
小径ですが、雰囲気があって好きな参道です。
ちょっと紅葉も楽しめました。
ちょっと見づらいのですが「かながわ名産100選」小田中のパンジーの記念碑です。
先ほどご紹介したパンジー畑があるのは下小田中(しもこだなか)で、小田中(こだなか)地区の名産です。
私が今日歩いてきた道沿いにも、シクラメンやポインセチア等の花鉢物を栽培している場所がありました。
他にも葉ボタンも栽培されています。
この塔の説明書きがありませんが、おそらくは花供養塔だと思われます。
これまでに家畜供養祭や植木供養祭は市内で行われているのは知っていましたが、花供養塔は初めて見たので驚きました。
全龍寺です。
境内にたくさんの植栽があることと、かなり手の込んだ造りであることに驚きました。
やはり周辺が造園、花卉栽培が盛んなので、檀家さん達もそう言った職業の方が多いことの影響でしょうか?
四季を通じて植栽を楽しめる印象です。
ここから、中原街道(県道45号線、丸子茅ヶ崎線)に進みます。
巌川橋(いわかわばし)跡。
この辺りで中原区から高津区に入りました。
ここはせせらぎ遊歩道と交差する場所で、明治時代には岩川村(いわかわむら)がありました。
※江戸時代は巌川が正式な村名だったのですが、岩川と当て字にしていたのが明治時代になって正式になったらしいです。
千年(ちとせ)交差点。
ここを左折すると目的のパン屋さんがありますが、ここからはす向かいにある脇道を進みます。
ここまではずっと平地(本当はとても緩やかな上り坂)でしたが、ここからはかなりガチ坂です。
地形的には多摩丘陵特有の舌状台地の連続です。
そしてほぼ初めて歩く道なのに「たちばなの散歩道の看板くらいあるだろう」といういい加減なボヤッとした情報だけで散歩します。
したがってかなり迷いながら生活道路をウロウロ(右往左往とも言います)しました。
※たちばなの散歩道…川崎市が案内している散歩道の1つ。スタートは東急田園都市線梶が谷駅~子母口富士見公園までの約5キロのコース。
私が歩いているのは右側の道。
左側の道は、拡張工事中。
私が小学2年生の時、叔母の結婚式会場に向かう途中の車内で父が「この道、拡張することになったんだって」と話していたのを覚えています。
ちょうどこの辺りは八百屋さんとか商店や住宅が何軒もあって、どうやって拡張するのか驚いたのです。
あれから40年近く経つけれど、まだ拡張工事中です。
この先でとりあえず右側の道に進みました。
お手製の地図が民家に掲げられていました。
おお、分かりやすい!
傾いていましたが「たちばなの散歩道」の案内板を発見。
この先の目印にしようっと。
まずはたちばな古代の丘緑地を目指します。
思ったのと違ーうっ!
大部分がフェンスで囲われていました。
ちょうど昨日から発掘調査が始まって、全然立ち入れないとは…。
ここで間違いないのに。
こんな立派な看板も新設されているのか。
この緑地は橘樹郡衙(たちばなぐんが)跡地です。
橘樹郡は、当地の地名でもあり、古代から昭和13年まで存在した郡名です。
郡衙は簡単に言うと地方の行政機関。
川崎市では、この橘樹郡衙跡群が初めて国指定史跡です(2017年3月指定)。
これまでこの辺りに郡衙跡があるらしいとまでは分かっていましたが、発掘調査が行われるまでに時間と労力がかかったと言えます。
ここから橘樹郡衙跡群の1つ、影向寺(ようごうじ)に向かおうと思いつつも、いつもどおり勘だけで歩く散歩魂(散歩根性)を発揮して、道に迷いました。
ここ…影向寺ではないよね…。
裏の墓地から迷い込んだら、能満寺(のうまんじ)に入り込んでしまいました。
墓地の墓標を拝見したら、地元の名士の方々のお名前がズラリ。
てっきり影向寺だと思ってしまったけれど、よく考えたら、影向寺ではないよね…。
もと来た道を戻って、でもとっても狭い道や急坂を上ってウロウロしました。
気が付いたら、宮前区野川本町(のがわほんちょう)の住所表記を見かけました。
今年10月15日から使われるようになった住所表記で、以前は宮前区野川でした。
影向寺前の記念碑。
影向寺薬師堂。
太子堂。
乳イチョウ。
宝物殿なのかな?
ふだん非公開の薬師如来坐像が有名です。
お寺さんの向かい側にあった石碑。逆光で見えませんね。
「征清記念碑」と書かれていました。
建立は明治29年12月。
私が川崎市内で征清記念碑を見たのは2つ目です。
しかもこの記念碑は旧橘樹郡宮前村の物で、石工は内藤慶雲。
驚きポイントは、日清戦争関連単独にしては大きな石碑であること、一般的に忠魂碑等の戦争関連碑は神社系に多いこと、日清講和条約(下関条約)から1年7か月しか経過していないこと、石工が内藤慶雲さんであることの点です。
とくに内藤慶雲さんは私が狛犬好きになるきっかけとなった石工さんです。
いままでつい狛犬ちゃんにしか目が行きませんでしたが、こういった記念碑も作っていたのか、と驚きました。
それとこの辺りを歩いていると気になるのは車の走行音です。
すぐ近くに第三京浜(自動車専用道路)が通っているからです。
もしこの道路の計画が少しルートが違ったら、このお寺さんも橘樹郡衙跡も無くなっていたのかも…と思いました。
そのくらいすぐそばに第三京浜があります。
ここから中原街道方面に戻って、横断歩道を渡り、高津区子母口の富士見台公園を目指します。
案内板があってよかった!
でも初っぱなからこんな急坂。
心臓破りの坂とでも言いたいです。
この辺りから左足首が痛くなりました。
富士見公園到着。
公園内の殆どはこんもりとした高まりで、富士見古墳と呼ばれています。
高まりの上から富士山方面を望みましたが、住宅で富士山見えず。
昔は見えたんだろうな、富士山。
続いて橘樹神社(たちばなじんしゃ)に向かいます。
思ったよりもこぢんまりとしていました。
ここは、日本書紀縁の地でもあります。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の妻(下世話にいうと現地妻)の一人、弟橘媛(おとたちばなひめ)は、現在の走水(はしりみず、神奈川県三浦半島)で海が荒れるのを鎮めようと身投げをします。
その衣が流れ着いたのが、千葉県袖ヶ浦市。
当地には櫛が流れ着いたと言われています。
先の富士見古墳はこの櫛をもって御陵ではないかと言われていますが、調査結果は判然としていません。
神社の祭神は日本武尊と弟橘媛です。
ちなみによく関東地方を東国と言いますが、これは「あづま」に基づきます。
「あづま」は、日本武尊が東国平定が終わり、都へと戻る際、碓氷峠から振り返って「あづまはや(わが妻はいないのか)」と感嘆した言葉が語源と言われています。
さてこの神社は狛犬ちゃんがちょっと独特です。
尻尾かくるりんとして長いのです。
遠くから見ると狐のようにもみえます。
境内の一角にある狛犬ちゃん。たぶん古くなって作り直す前の狛犬ちゃんなのでしょう。
全然読めないけれど日本武尊の歌碑。
こちらは山岡鉄舟による歌碑。
幕臣の山岡鉄舟さんとはどんな繋がりがあるのだろうか?と思いつつ、説明文には記載がありませんでした。
上記2つの歌碑は表面の掘りが浅くて説明文がないとなかなか内容が読めませんでした。
境内の一角にある慰霊碑。
昭和53年に建立された物です。
脇にあった説明文では、戦後33年経て初めて作られたみたいです。
裏に戦没者名が書かれていて、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争の3つの戦争ごとに書かれていました。
私も近年やっと近代史に興味を持ったからですが、日本にとっての戦争はその3つだけではないし、太平洋戦争は日中戦争の延長線上のこと。
戦後33年を経て建立したのは、戦争を知らない世代が増えたことと、当地では三十三回忌で法要を止めるケースが多いから(最近はもっと少ないらしい)でしょうか。
ここから子母口貝塚を目指します。
ここは蓮乗院(れんじょういん)です。
こちらも初めて訪れました。
この辺りで、道が分からなくなりました。
キョロキョロして、たちばなの散歩道の看板を探していたら、とても眺めのいい場所に出ました。
中央の白い山が富士山。
手前の青い山脈は丹沢山地です。
子母口貝塚は、子母口公園として整備されています。
私は15年くらい前に来たことがありますか、再整備されていて、当時よりもとてもきれいになっていました。
この看板を見ると、子母口貝塚を1番最初に調査したのは、大山柏氏(おおやまかしわ、大山巌と大山捨松の次男)。
日本の考古学の草分け的存在です。
その後も調査しているのは、日本考古学界の有名な学者ばかりです。
私は学生時代に日本史(近世史)を学びましたが、考古学の授業もいくつか履修しました。
この中で登場した人物ばかりで、クラクラするくらい眩しい人物ばかりです。
あれ?柵があって傾斜地に入れないです。
以前はこの辺りにも入れたし、地面や傾斜地に貝殻がゴロゴロしていて、拾えたのになぁ。
たしかこの一段下の場所には遊具も樹木もあったように思うのに…。
現在では保存、保護のために柵が設けられていました。
以前の方が、貝塚感があったなぁ。
右端の高い建物が武蔵小杉のタワマン群。
左端の鉄塔の少し右に東京都新宿区のビル群(たぶんとても分かりにくいけれど)。
ここは高台で、真ん中中央の赤い看板辺りが麓の薬局。
縄文海進の時代、この麓の辺りは遠浅の海だったことがこれだけで分かります。
貝塚の貝は浅瀬で取れる貝ばかりですから。
ここからまた道を戻ってひたすら坂を下ると、前述の赤い看板の薬局近くに到着しました。
ここは当初行きたかったパン屋さん(トップ写真のパン屋さん)の近くでもあります。
坂を下る間じゅう左足首が痛くて仕方がなかったのに、パン屋さんで美味しそうなパンを選んでいたら、すっかりその痛みを忘れてしまいました。
そのくらいテンションが上がるパン屋さんでした。
そしてつい、バスで帰る予定を忘れてまた歩き始めてしまいました。
でもまた途中で痛くなったものの「いまからバスに乗ったら、負けた気がする」という散歩魂に火が付いて、40分で着くはずの自宅に1時間かけて帰宅しました。
相変わらず意地でも全部歩くのを止めればいいのに…と思いつつ、足が痛くなってもこんなに歩けるのか、とちょっと感動もしています。
迷った時間もかなりありますが、全行程3時間45分の散歩でした。
ちなみに「たちばなの散歩道」は全行程5時間だそうですから、私にはまだ歩けないのだろうな、と諦めています。
また帰宅してから、買ってきたシナモンロールをさっそく食べてみました。
流行りのシナモンロールとはちょっと違って、昔ながらの味わい(シナモン控えめ)で懐かしい感じです。
私は体質で小麦粉はあまり食べられないのですが、おいしいパンに出会えてこれも嬉しいです。