川崎市市民ミュージアム編。
トップ写真は、昨日からご近所上空を飛び回る取材ヘリコプター。
正直、とてもうるさいです。
空に向かって「うるさいぞーっ」と叫びたいけれど、ご近所さまから変人と思われたくないので、じっと我慢しています。
たぶん、映画「シン・ゴジラ」関連の撮影ヘリが飛びまくった時もあるし、ヘイトスピーチデモ隊阻止の騒擾以来のうるささです。
報道機関には報道の自由があるかもしれませんが、住民には静かに暮らす権利はあるんだぞ!と言いたいです。
さて今日は「絵図でめぐる川崎」を読んでいました。
川崎市は、7つ区があるうち多摩川に接していないのは、宮前区と麻生区のみ。
でも宮前区と麻生区も鶴見川の支流があるし、土砂災害の歴史はあるので、全域が豪雨災害にいつ被災するかは分からないような土地です。
この図録は、主に多摩川の氾濫の歴史を物語っています。
江戸時代の絵図なので、近代的な測量技術による地図とは違います。
村の見取り図と言えばいいでしょうか?
河川の位置はなんとなく適当な感じです。
目印になるのは、寺社の位置。
これはどんな絵図でも言えるわけで、寺社は建替をしても滅多に移転しません。
よくタモリさんが古地図が面白いとテレビ番組でおっしゃいますが、本当にその通りです。
江戸時代の川崎市はまだまだ田舎でした。
どの絵図を見ても、田、畑、水路、川の他に寺社のマークと、僅かな人家。
ほとんどが幕府領で、旗本領と寺社領が少々あるくらいです。
五街道の一つ、東海道の川崎宿がありますが、いまはその面影はまったくありません。
1945年4月に3回空襲があったので、一面焼け野原になったせいです。
この宿場も、暴れ川である多摩川のご機嫌によって足止めされた人々を受け入れたり、大名行列を受け入れていたそうです。
今回の台風19号で冠水した場所は、この絵図と見比べてみると、興味深いことが描かれています。
テレビでわが家からみて対岸にある、大田区田園調布5丁目が冠水したと報道されていました。
田園調布は全部丘の上だと思っていた私。
5丁目は違うらしいです。
そこで、この図録の「下沼部村(しもぬまべむら)」のページを開いてみました。
すると、今回冠水した場所は、絵図では完全に川(多摩川)の表記です。
上丸子村(かみまるこむら)の絵図をみると、今回冠水した川崎側の上丸子辺りも川の跡だったことが分かります。
私が住む地域は、1914年9月にアミガサ事件と言いまして、多摩川の大氾濫による強訴がおきたく地域の一つです。
私が小学生の頃は、副読本「かわさき」という本があり、必ずアミガサ事件を習いました。
(他にも二ケ領用水、溝ノ口水騒動、小泉次太夫、田中丘隅、池上幸豊等の地域史)
でも今は私が習っていた時代違って、しっかり学ぶことはないみたいです。
小学生の時はそれ程心に残らなかったのですが、大人になり当地に住むようになってから、そう言えば習ったな、と思い出します。
そんなことを思い出しながら、この図録を読むと、また新たな一面を再発見したみたいで、つい読みふけってしまいました。
以前、小田原市にある尊徳記念館の展示では、酒匂川(さかわがわ)の氾濫の歴史を知ることができる模型がありました。
小田原市、酒匂川流域、二宮尊徳先生を語る上で、この模型はなくてはならないものです。
川崎市にはそう言った展示はありませんから、多摩川の氾濫は過去のモノのように扱われているのでしょう。
1974年の多摩川水害では、対岸の狛江市は大災害に見舞われました。
いくらスーパー堤防ができたとしても、やはり水害と無縁とは言えない土地柄であることを肝に命じたいと思いました。
この図録は、2010年の企画展図録なのですでに売り切れになっているかもしれません。
ご興味のある方は、川崎市立図書館で貸出していますし、国立国会図書館にも収蔵されていますので、一読してみてはいかがでしょうか?