数学を教えながら、数学史を意識した場合に、自分が世界史を受験勉強で選択しなかったことで知識不足を感じてきました。
受験での選択科目、受験科目で勉強したことは、今まで生きてくる中で自分の知識の中でも、学びの中でも、その影響は大きいと今まで生きてきて実感しています。
私の高校時代は、英語、国語は文理とも共通授業で、同じ内容教材で同じ教室で受けていました。数学は文理で別授業でしたが、これも高3からでした。したがって、文系の生徒も数学Ⅲの教科書を2年生の3学期には最初の何章かは全員が一緒に勉強しました。理科は、1年時に生物と地学を全員履修し、2年生では、物理化学を全員が受け、3年時に理系はそのまま物理化学を受け、文系は理科が選択になりました。社会に関して、1年時には地理、2年時は世界史と倫理を全員が、3年時には理系は日本史と政経と世界史があったと思います。一応全教科をすべて履修するというものでした。
したがって、時間の制約の中で、教科書を全部終わるということは特に社会では先生も生徒も意識がなく、受験で必要なら自分で勉強するもんだと思っていました。実際、私は理系で、共通1次以前の世代で、国公立大学は1期校2期校の時代です。試験日は3月3、4、5日でした。長く教員をしてきて思うことは、当時の私の受験時代の入試システムは今より良かったとつくづく思います。このことに関しては稿を改めて書きますが、今回は受験の選択科目のその後の影響に関して。
数学史を考えたりする上で、世界史の知識や世界史の時代背景は学校の勉強だけではなく、正確には、受験での勉強が大きく影響しているように今になって強く感じます。私は日本史選択でしたので、一応社会も全科目履修はしたものの、きちんと知識としてその後も定着したのは日本史です。理系の日本史と言っても、その後の共通1次試験やセンター試験と異なり、今の文系の2次試験と同じで、文理共通での記述試験問題です。それ故、資料集の勉強や論述試験対策もしながらある意味本格的な勉強だっと思います。
しかし、共通1次やセンター試験以降、理系は政経倫理や地理がその選択の中心で、しかも記述試験ではないので、生徒の勉強の仕方も我々の時と全く違う感じです。同じ受験生として考えると楽だなあと感じます。そんな共通1次センター試験世代、60歳以下は全部そうですが、彼らと話す度に、歴史的な知識が全く違っていることを実感します。理系の人と歴史の話をしてもチンプンカンプンで文系の人と話してやっと話が合うという感じです。
教育とは自分の世代の教育しか当事者経験はないので、それが普通と感じますが、世代を超えて教育に携わってきた自分には、こんなに受験勉強での経験値がその後の人生に大きく影響しているものかと実感ししています。
そんな中、私自身も世界史的な知識不足を感じながら、ここで掲げたような本も読んだりしています。まずは近代史からと思い、20世紀の世界史的な視点をと思い、この本を読みました。日本史の中の近代史は自分も興味あり、その背景には受験で日本史を選択してしっかり勉強した裏付けからわかる部分が多いのです。数学史を考える中でも、世界史の知識は必要で、そんな視点からの世界史の再勉強と考えて読み始めるとまた面白さも出てきます。
受験生として、1期校2期校世代で、共通1次以前の世代として、一方、教員として共通1次、センター試験の受験生指導という立場から、この大学受験というものを経験してきて思うことは、学びというスタイルやその後の学びへのつながりを考えると、センター試験、共通試験をやめて、記述試験で、多科目での受験という私の受験生時代のシステムの良さしか感じられません。立場は違いますが、大きな二つのシステムを経験してきたものとしての感想です。その結果として思うことは、今の高校生や受験生は可哀想だなあと。制度の欠陥があれば被害を被るのは受験生、当事者であるという認識をシステムを作る方にもっと高めてもらうことは絶対の必要条件です。