何年か前に京大の入試問題の英語の英作文で、「積読」についての自由英作文が出題されました。そもそも「積読」という言葉を知らない受験生もいたようです。
今の受験生も含めて、最近の傾向として、大人が若者言葉を知ってる、知らないという話題がよくありますが、考えてみると、我々の若い時には、若者言葉を大人が知ってる知らないという話題はなかったように思います。
当時は、若者特に学生は言葉を知ることに関して、もっと貪欲であった気がします。その結果、本は皆読んでいました。講義に出なくても本はよく読んでいたのが大学生でした。それは大人にるという若者の欲求のような気がします。その影響から高校生も今よりは格段に本を読んでいました。
今の大学生は講義には出ても本を読んでいるという印象はありません。本は教科書や参考書という感覚でしょうか。そんな高校生や受験生に忖度して、私もあまり本や読書に関しての話をすることも少なくなってきました。しかし、そういう教師の姿勢そのものが、生徒に悪影響を与えているような気になって、ある時からそんな忖度をやめました。教師が生徒に迎合するような姿勢に昨今の教育の「弱さ」すら感じてきたからです。
そこである時から、もう遠慮なく少なくとも自分が高校時代に読んだ本や知的な活動について、積極的に生徒に話すようになりました。そんな我々教師を凌駕していくのが生徒であると思うからです。
そんな高校大学時代に本屋さんで本を手にとって読んでみようかと買った本で、実は「積読」になっている本が本棚にあります。今は直接本屋さんで本を手にとって買うということは、少なくなってきました。特に、私の住んでいるような田舎では、本屋さん自体が少なくなっています。
そう言えば、高校時代の帰りの電車とバスの待ち時間に駅の近くの本屋さんは私にとっての絶好の時間潰しの場所でした。受験情報もその立ち読みの中で、仕入れたと言ってもいいくらいでした。さらに、今はもうなくなっている当時の本屋さんには、岩波の本が並んでいたりして、いつか読んでみたいという本に目星をつけていたものでした。
例えば、岩波の「英和中辞典」がその一つで、旧字体で書かれていたものの、それを読むのが英語の受験勉強に成ると聞いていたし、受験参考書を読むよりもかっこいいなあと感じる自分でした。英文を書くとき、こういう表現はどうなんだろうかと思ったとき、研究社か大修館だったか今ははっきりしませんが、QUESTION BOX とかいう本があって、そこにそんな疑問に答えてあるのを見つけて、立ち読みで利用していました。
旧字体といえば、岩澤謙吉の「代数函数論」(岩波書店)も旧字体でした。かつて、旧字体だから読みにくいといって読まない京大の学生に上野健爾さんが嘆かれていました。ちなみに上野先生は大学2回生の時に読んでいたそうです。
残念ながら数学に関しては、当時の田舎の本屋さんには、今思い出してもそいう本は置いてなく、参考書くらいでした。
以前に書きましたが、そんな中で、岩切精二の「数学精義」がなんとなく格調高く当時の高校生の私には感じられて何回も読んで記憶があります。実際には何回も問題を解いたというのが現実ですが。
そんな感じの高校生から大学の時代に買ったのに読んでない本をこの時期に本棚を整理しながら取り出しています。上述したように昔は本屋で手に取った本なので、何かしらの読書欲をその本に感じたのですから、その気持ちを追憶してみようという気持ちです。今はアマゾンなどでポチとするだけなので、中身に目を通すことがないので、絶対昔の本の方が本への思いは強いと思うのです。
そんな本の一つが
発行が昭和49年なので大学の時でしょうか。読んで思ったことは、前回書いた半藤さんの話やそれにまつわる広田弘毅などの記述や、その後の城山三郎の「落日燃ゆ」の記述内容や半藤さんの考え、はたまた昨今の評論家や政治家の意識の中にこの本の影響が多く見られることを感じます。時間が経つにつれて社会や国民の意識の変化があり、同じ本を読んでもその印象は変わるものだと実感しました。自分自身も変わっているからでしょうね。
数学の本でも同じことが言えるのではないかと思いますが、数学の本ではそもそも通読するということが稀です。それでも数学は時代が変わっても正しいことは正しいので、それを再認識するためにも読んでみる価値はありますね。少し時間もできたので、次回はそんな本も紹介したいと思います。