◻️32『岡山の今昔』江戸時代の三国(津山城引渡し)

2019-11-01 20:31:22 | Weblog

32『岡山の今昔』江戸時代の三国(津山城引渡し)

 ともあれ、出来てしまったことは、もうどうにもならない。幕府の決裁では、長成死去後の「当主」継嗣(けいし)がないことが表向きの理由とされ、1697年(元禄10年)旧暦8月2日、幕府は森藩を召し、「長成が疾によって没し、嗣子にあげられた衆利も狂疾をおこした故をもって美作国を没収する」旨の言渡し(内示)を行った。
 森藩の長成の遺領は、いったん没収、禄高は収納ということにならざるを得ない。この沙汰は、刀傷沙汰(とうしょうざた)、勤役懈怠(きんえきけたい)、勅使などへの不敬から不行跡、病と称しての勤務拒否、藩主乱心などへの扱いとはどこが異なっているかが判然としていない。これにおいては、末子養子の禁を緩めた「恩恵」は得られず、幕府の譜代(一部を除く)、外様大名に対する態度には厳しいものが残った。
 その後の森家と家臣の多くにとっては、呆然自失しかねないような時の流れようであったのではないか。翌8月3日からの出来事は、およそ次の通りであったという。
 「8月3日、江戸から真夜中に津山への飛脚を立てる。8月5日、小笠原・鳥居・保科(ほしな)から森対馬守・関大蔵あてに騒動を起こさぬようにとの書状。8月8日、江戸から津山への飛脚を立てる、城請取衆の決定を知らせる。8月10日、江戸を3日に発の飛脚、津山着。8月11日、江戸上屋敷の引き渡し。
 8月15日、8日に江戸発の飛脚が着。8月18日、水野美作守からの飛脚。同日、家臣に触書、家屋敷を荒らさぬように。8月21日、森采女(もりうねめ)が江戸から帰る。同日、備前には作州の浪人は入らせないとの情報。同日、江戸からの書状、城引き渡しの心得。8月23日、8月5日付の小笠原等からの書状を家臣に触れ出す。水野美作守死去、酒井○負が内裏となる。8月26日、長直が長継の嫡子となる。8月28日、長直、津山への書状を書く。8月30日、長継より土屋相模守に家臣お救いの嘆願。
 9月1日、上使・目付からの指示が届き、家臣に触れる。9月2日、江戸の長尾隼人から森采女他への書状、津山着は9日ころか、水野の死去と長継の嘆願を知らせる。9月4日、城下から速やかに引き払うようにとの触れ。9月15日、長継からの8月28日付け書状を江戸からの使者が持参。9月23日、長尾隼人が江戸から津山着。9月23日、上使田村右京太夫他、江戸を出発。9月24日、家臣へ翌日の、森采女宅への集合を触れる。9月25日、長継の9月1日の口上を長尾隼人が家臣に伝える。9月29日、原十兵衛宅で家老・用人が相談。同日、酒井○負佐が小浜を出発。
 10月2日、家臣に上使の江戸出発等を触れる。10月5日、代官武村惣左衛門・守屋助次郎が津山着。同日、仁賀孫九郎・赤井平右衛門が津山着。10月6日、松平若狭森が明石を出発。同日、酒井○負佐が押入村に入る。同日、家臣に引き渡しについて触れ。10月7日、長基が江戸に出発。10月8日、蔵奉行6人が幕府代官に呼ばれる。10月9日、田村右京太夫・水谷弥之助が勝間田に入る。10月10日、長尾隼人らが勝またを訪れ、幕府役人衆と相談。」(尾島治・津山郷土博物館「津山城引渡しについて」:津山市教育委員会主催「第19回津山市文化財調査報告会」2001より)
 そして迎えた1697年(元禄10年)の旧暦10月11日、城下で津山城の幕府への明渡しが行われ、禄を失い住処(すみか)を明け渡した家臣たちは方々へと散りじりになってゆく。その近傍年での森氏の家臣数としては、『津山市史』により、扶持米取りが119人、切米取りが2401人の計2871人あったのではないかと見積もられている(津山市史編さん委員会『津山市史』第三巻、近世1ー森藩時代より引用)。
 その日、城下宮川の制札場に、次のような高札が掲げられた。
 「条々
一、今度津山の城召し上げられ候に付き、給人引払いの儀、今日より三十日限りたるべし。ただし給人津山領にこれ有りたしと申す輩は、せんさくを遂げ、心次第に先ずこれを指し置くべく、立退きたる者に滞り無く宿を借すべきむね御目付中より証文遣わすべき事。
一、喧嘩口論はこれを停止し○(おわ)んぬ。もし違犯の族あらば、双方これを誅罰すべし。万一荷担せしむる者は、その咎(とが)本人より重かるべし。
一、竹木伐採の儀、ならびに押売り狼藉停止の事。
一、家中の輩武具諸道具、其の身心に任すべき事。
一、家賃の儀、譜代に非(あらざ)る者は、以後、主従相対次第たるべき事。
 右の条々これを相守るべし。若し違反の族は厳科に処せらるべきもの也。仍って件の如し。
 元禄十年丑(うし)十月十一日
水谷弥之助(勝信)
田村右京太夫(建顕)」(原文は、津山市教育委員会編「津山城、資料編Ⅱ」2001に、「作州津山江上使之節留書」として収録されている)
 なお、同日付け発出の水谷弥之助、田村右京大夫連名の文書(松平若狭守宛)には、「今度美作守病気養子乱心に付き」とあることから、衆行については、まだ主家相続を幕府が認めていなかったことが読み取れよう。
 同年の1697年(元禄10年)旧暦10月15日、幕府は長成の死後、隠居中の二代藩主であった森長継(ながつぐ)に備中国西江原において二万石を与えることで再出士を命じ、その家名を存続させる。その翌年の旧暦6月の長継は、旗本となっていた息子の長直(衆利の兄)を呼び戻す形で再興のなった森家の家督を相続させる。
 その話の後段だが、森長直はそれから8年を経て、赤穂義士の吉良邸討入り後の播磨の国赤穂に移封となっていく。さらに長継の備中西江原受領と同時に、3代目藩主であった長武(長成の叔父)が別の弟長俊に1万5千石で分家させた支藩である津山新田藩は、同月播磨の国の西部へ移され、三日月藩として存続を許される。 

 また、関長次(せきながつぐ、森長継の九男にして森忠政の甥)の次男・長政が森藩2代目の長継から1660年(万治3年)頃、宮川の墾田を分知され、立藩していた支藩の美作宮川藩(関家1万8900石)も、関長治(せきながはる、関長政の養子にして、長継ぐの九男)が藩主の時、備中の新見藩(1万8700石)に転封される。
 これら一連の森藩の徐封(じょふう)などの後、美作は、幕府の直接支配に移ったが、その後の1698年(元禄11年)、松平宣富(まつだいらのぶとみ)がみまさかの約半分の領地を受け継ぐ形で津山城の主に封じられた経緯がある。

(続く)

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◻️246『岡山の今昔』岡山人(20世紀、坂田一男)

2019-11-01 12:00:55 | Weblog

246『岡山の今昔』岡山人(20世紀、坂田一男)

 坂田一男(さかたかずお、1889~1956)1は、岡山市船頭町に生まれる。父の快太郎は、外科医で、岡山大学医学部の開祖と言われる。岡山中学卒業後、父にならい医師になろうと高校受験して、失敗したという。

 続いての病気療養中に、木炭画を教えてもらい、一転、画家を目指すに至る。1921年(大正10年)には、パリに赴く。オトン・フリエスやフェルナン・レジェに学ぶ。1928年の「浴室の二人の女」の背景は、ダーク系の完全な色面構成となっており、解体された二人が奇妙に組み合わさっている。
 1933年(昭和8年)に帰国、岡山県玉島(倉敷市)にアトリエを構える。その頃の作品「端午」(1937)では、鯉のぼりが平面的に垂れさがる。

 戦後は、A.G.O.(アヴァンギャルド・オカヤマ)を結成、主宰する。キュビスムを基本としながらも、その模倣ではない。独特の抽象絵画を制作していく。「上半身の裸婦」(1955)をつらつら眺めると、ボトルのような姿か、ざらざらしたあんばいでこちらを眺めているではないか。
 1944年(昭和19年)、1954年(昭和34年)の2度に渡って同地を襲った水害により、多くの作品が失われてしまう。

 日本においては、キュビスムの影響を受けた画家は多い。とはいえ、厳格な意味でのキュビスムの作品を残している作家は、坂田一男をおいて他はないとも評される。

(続く)

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◻️245『岡山の今昔』岡山人(20世紀、国吉康雄)

2019-11-01 11:44:28 | Weblog

245『岡山の今昔』岡山人(20世紀、国吉康雄)

 国吉康雄(くによしやすお、1889~1953)は、アメリカに渡り、画壇で活躍した。岡山市の出石(いずし)の生まれ。岡山県立高校の染色科に入るも、馴染めずに中退する。

 なんと。それからの1906年(明治39年)には、英語を習得しようとしたのか、アメリカへ移民したというから、「びっくらこん」だ。向こうでは、シアトルやロサンゼルスで働くかたわら、美術に関心を持ち出したらしい。

 ロサンゼルスにある美術学校の夜学に通う。1910年(明治43年)には、ニューヨークへ移る。1916年(大正5年)には、アートの学校に入学して、ケネス・ヘイズ・ミラーの教室で腕を磨く。

 1922年(大正11年)に、かの地において。はじめての個展を開く。「秋のたそがれ」(1929)では、幻想的な農村風景を描く。その後、二回のヨーロッパ体験で、抽象画へと入っていったようなのだが。

 その後の日米開戦からは、敵側外国人として、つらい日々を送ったらしい。1943年作の「誰かが私のポスターを破った」では、自分のポスターを破られた女性の傷心に、自身を重ねているかのよう。

 そんな日本人としては数奇な体験が、かれの絵を独自の地平へと運んでいったのであろうか、国吉の絵のうち、戦後、晩年に向かっては、「飛び上がろうとする頭のない馬」、「ここは私の遊び場」(1947)などの抽象画を作っていく。
 なかでも、「祭りは終わった」(1947年)は、なぜ、このような絵が描かれたのかと、理解に絶するところがある。一説には、「生きることの不条理」が象徴されている、というのだが。

 その画面の奥に広がるのは、茶褐色の大地と乾いた感じの空。ひと気のない無人の砂漠なのかもしれない。だが、左手前に青い裸電球を吊るした鉛色の電柱らしきものが一本立っている。背景の右半分には、西部劇に出てくるような看板か、仮設の小屋のようなものが立て掛けてある。そこに矢印やアルファベットがあしらわれていて、何のことやら、解読できそうにない。かれこれの記憶から、ここは季節外れの盛り場、海水浴場ではないか、とも詮索されているらしい。

(続く)

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◻️237『岡山の今昔』岡山人(20世紀、満谷国四郎)

2019-11-01 11:21:51 | Weblog

237『岡山の今昔』岡山人(20世紀、満谷国四郎)

 満谷国四郎(まんたにくにしろう、1874-1936)は、吉備郡総社町門田(現在の岡山県総社市門田)の生まれ。

 1891年(明治24年)には、岡山中学を退学して、上京する。翌年、小山正太郎の率いる東京の不同舎に学び、同郷同門の鹿子木孟郎などともに、1900年(明治33年)のパリ万博を目指して、アメリカ経由で初めて渡仏する。

 しばらくフランス各地をめぐり1年ほどで帰国する。 あちらでは、青紫系の明るい色彩を学んだらしい。その後、日清、日露の二つの戦争に取材した時事的な作品や、労働者家族の日常などを主題に取り上げた絵画も手がける。また、開設されたばかりの文部省美術展の審査員を務めるなどしていく。
 1911年(明治44年)年には、一度目の渡欧を行う。続いて、1914年(大正3年)には、二度目の渡欧をはたす。その際には、経済的な援助を大原孫三郎に仰ぐ。 そしてこの滞欧の際に、ピエール=オーギュスト・ルノワールを訪ねたりしたという。この渡欧の間に、それまでの「徹底した写実」から「非自然的で装飾的なもの」へと、画風が変わった。

 代表作には、「早春の庭」(1931)や「緋毛○」(1932)、それに「瀬戸内海風景」などがある。それらでは、自分独特の美の世界観に誘い込みたいかのような息遣いが感じられる。

(続く)

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