211の7『岡山の今昔』岡山人(20世紀、信野友春)
信野友春(しなのともはる、1890~1970)は、教育家にして歴史研究家だ。広島県世羅郡広定村の生まれ。1908年(明治41年)に、広島県私立日彰館教員養成所を卒業する。広島県内での尋常高等小学校本科正免許状を取得していて、大まかな人生航路はもう定めていたようだ。
1912年(明治45年)には、今度は私立日彰館中学校を卒業する。同年3月には、広島県豊田郡椹梨(しんり)尋常小学校訓導にあたる。その間に、さらに公立実業補習学校教員資格を取得したというから、後々での「二足のわらじ」にも通じるかのような、なかなかの意気込みが感じられる。
信野友春(しなのともはる、1890~1970)は、教育家にして歴史研究家だ。広島県世羅郡広定村の生まれ。1908年(明治41年)に、広島県私立日彰館教員養成所を卒業する。広島県内での尋常高等小学校本科正免許状を取得していて、大まかな人生航路はもう定めていたようだ。
1912年(明治45年)には、今度は私立日彰館中学校を卒業する。同年3月には、広島県豊田郡椹梨(しんり)尋常小学校訓導にあたる。その間に、さらに公立実業補習学校教員資格を取得したというから、後々での「二足のわらじ」にも通じるかのような、なかなかの意気込みが感じられる。
その後、広島県下各地の小学校・補習学校に勤務し、15年間を過ごす。1924年(大正13年)7月には、中等教員免許状「歴史科の内、日本・東洋」を取得する。10月宮崎県立宮崎中学校に転勤する。長らく温めてきた希望がかなったのであろうか。
1927年(昭和2年)には、岡山県立高梁中学校の教員として備中高梁にやってくる。赴任後、この地の松山城に非常に興味を持ち、研究していく。
思い起こせば、1873年(明治6年)には、廃城令が公布され、備中松山城は新政府によって商家に売却された。まるで、「使い道がないので、どうにでもしてくれ」と言わんばかりに。それでも、険しい山の上という、あまりにも不便な場所にあることから、建物は解体されることなく放置される。
それからかなりの時が流れての、彼が見た城は、崩れ落ちるかのよう、かつては衣装を凝らしたかのような壁であったのが、もはや失われていたという。
息子の友文や、友人の高見彰らに測量を手伝ってもらい、現状を伝える作図と注釈などに取り組む。それらに貫かれていたのは、「ひたむきな精密さ」とでも形容しようか。そして迎えた2年後に『備中松山城及其城下』をまとめる。同年11月、これが高梁方谷会より「備中松山城及其城下」として発行された。
思い起こせば、1873年(明治6年)には、廃城令が公布され、備中松山城は新政府によって商家に売却された。まるで、「使い道がないので、どうにでもしてくれ」と言わんばかりに。それでも、険しい山の上という、あまりにも不便な場所にあることから、建物は解体されることなく放置される。
それからかなりの時が流れての、彼が見た城は、崩れ落ちるかのよう、かつては衣装を凝らしたかのような壁であったのが、もはや失われていたという。
息子の友文や、友人の高見彰らに測量を手伝ってもらい、現状を伝える作図と注釈などに取り組む。それらに貫かれていたのは、「ひたむきな精密さ」とでも形容しようか。そして迎えた2年後に『備中松山城及其城下』をまとめる。同年11月、これが高梁方谷会より「備中松山城及其城下」として発行された。
この著によって、多くの人が松山城の真価を知り、市民の間に、再建の機運増していく。そして迎えた1940年(昭和15年)から、当時の高梁町により天守閣の解体大修理の事業がなされていく。
(続く)
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(続く)
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