◻️211の7『岡山の今昔』岡山人(20世紀、信野友春)

2019-11-26 22:53:05 | Weblog
211の7『岡山の今昔』岡山人(20世紀、信野友春)

 信野友春(しなのともはる、1890~1970)は、教育家にして歴史研究家だ。広島県世羅郡広定村の生まれ。1908年(明治41年)に、広島県私立日彰館教員養成所を卒業する。広島県内での尋常高等小学校本科正免許状を取得していて、大まかな人生航路はもう定めていたようだ。
 1912年(明治45年)には、今度は私立日彰館中学校を卒業する。同年3月には、広島県豊田郡椹梨(しんり)尋常小学校訓導にあたる。その間に、さらに公立実業補習学校教員資格を取得したというから、後々での「二足のわらじ」にも通じるかのような、なかなかの意気込みが感じられる。
 その後、広島県下各地の小学校・補習学校に勤務し、15年間を過ごす。1924年(大正13年)7月には、中等教員免許状「歴史科の内、日本・東洋」を取得する。10月宮崎県立宮崎中学校に転勤する。長らく温めてきた希望がかなったのであろうか。
 1927年(昭和2年)には、岡山県立高梁中学校の教員として備中高梁にやってくる。赴任後、この地の松山城に非常に興味を持ち、研究していく。
 思い起こせば、1873年(明治6年)には、廃城令が公布され、備中松山城は新政府によって商家に売却された。まるで、「使い道がないので、どうにでもしてくれ」と言わんばかりに。それでも、険しい山の上という、あまりにも不便な場所にあることから、建物は解体されることなく放置される。
 それからかなりの時が流れての、彼が見た城は、崩れ落ちるかのよう、かつては衣装を凝らしたかのような壁であったのが、もはや失われていたという。
 息子の友文や、友人の高見彰らに測量を手伝ってもらい、現状を伝える作図と注釈などに取り組む。それらに貫かれていたのは、「ひたむきな精密さ」とでも形容しようか。そして迎えた2年後に『備中松山城及其城下』をまとめる。同年11月、これが高梁方谷会より「備中松山城及其城下」として発行された。
 この著によって、多くの人が松山城の真価を知り、市民の間に、再建の機運増していく。そして迎えた1940年(昭和15年)から、当時の高梁町により天守閣の解体大修理の事業がなされていく。

(続く)

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◻️101の4『岡山の今昔』早島町(都窪郡)

2019-11-26 20:21:51 | Weblog

101の4『岡山の今昔』早島町(都窪郡)

 早島町(はやしままち)は、都窪郡(つくぼぐん)の唯一の自治体だ。そもそもは、1889年(明治22年)、早島村と前潟村、矢尾村が合併して、早島村が生まれた。1896年(明治29年)には、それまで早島村であったのが、町制を敷く。現在は、岡山市と倉敷市に隣接している。岡山県内で、最も小さな自治体だ。

 交通の便利は、すこぶるよいのでは。東西を国道2号と山陽自動車道が、南北を瀬戸中央自動車道が通る。これを幸いに、大型団地や流通施設が進出、都市化が進展してきた。なかでも、町の北部岡山県総合展示場コンベックス岡山がある
 産業としては、かつては干拓地でも育つイグサ栽培が盛んであった。それに、伝統の早島表(おもて)など畳表・花筵(はなむしろ)の生産地として知られた。やや遡るが、1990年でみた特産物のい草の県生産量は1040トンで、全国でのシェアは1.2%だった。また畳表の県生産量は11億9300万円で、全国の12.5%のシェアを持っていた(岡山県「統計でみる岡山のすがた」1992年版)。
 さらに、今では電機・綿紡績・機械工場などがある。

 2005年には、現在の町づくりの基本となる「町づくり憲章」を定めた。その中には、こうあるという。

「1.豊かな未来をきずくために、『町民総参加のまちづくり』を進めます。

2.ふれあいの輪をひろげるために、『地域福祉のまちづくり』を進めます。

3.町民が未来に向けて誇れるために、『水と緑の美しいまちづくり』を進めます。

4.未来をひらく人づくりのために、『生涯学習のまちづくり』を進めます。

5.安全で快適な環境づくりのために、『生活優先のまちづくり』を進めます。」

 


(続く)

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