さて、現在では、高梁川の西岸、新倉敷駅や山陽道ICなども配置される、倉敷市玉島エリアの中枢となりつつある長尾。ここは、江戸時代の中期に丹波亀山藩(現在の京都府)5万石のうち、1万2000石分の飛び地として、玉島村、上成村、長尾村、東勇崎村などで構成されていた。
(続く)
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211の23『岡山の今昔』岡山人(20世紀、平櫛田中)
平櫛田中(ひらぐしでんちゅう、1872~1979)は、現在の岡山県井原市の生まれだ。本名を倬太郎(たくたろう)と言う。田中家から平櫛家に養子に入ったのち、田中(でんちゅう)といい慣わす。東京へ出て、伝統的な木彫技術と西洋の彫塑を学ぶ。
それからは、作品づくりに精出す。大家となってからは、東京芸大で教えたりした。107歳の長寿でその生涯を閉じるまで、明治・大正・昭和の三代に渡って活躍した、近代日本彫刻の巨匠とされる。
壮年期からのその作品の特徴は、観る者を引き込む緊張感と、本源的な温かみの感じられるところにあるという。 なかでも井原地方の古い伝承に基づく「転生」(東京芸術大学大学美術館蔵)や、「鏡獅子舞」、良寛上人(りようかんしょうにん)の木彫などが有名だ。
戦後は、それからの自身の木彫の歩む方向を定めていったようで、こうある。
「仏像彫刻としては鑑真像。これが一番だ。優れた大作をやり得る腕を持った連中が、師匠思いの一念で一生懸命にやったのだから、それは当然のことだ。作家の立場として、自分の現在の気持ちを言うと、私は鑑真像に行きたい。ああいう創作に取り組みたい。」(「天平彫刻仏観」1948)
最近の珍しいところでは、「何でも鑑定団」(2019.4.23放映)において出品のあった「神武天皇像」(仮称、木彫)が真品だと認定された模様だ。ここに「神武」とは、「日本書記」にも出てくる「初代天皇」と言われる人物をいうのだが、今日の歴史学においては実在性に乏しく、伝説上の話なら頷けよう。ともあれ、その凛とした表情には、作者の特別な思い入れが感じられる。そのスックとした立ち姿には、威風堂々さがひとしおであり、作者にとっては偉大な実在の人に写っていたのであろう。
それから、ここに「鏡獅子舞」の獅子というのは、想像上の生き物にして、白いたてがみ、きりっと、見開いたまなこで、見る者の瞳に迫ってくる。日本画、日本人形でもおなじみの題材だ。
これを歌舞伎の世界では「獅子の精」として上演してきた。そして、これを「十八番」の興行に仕上げたのが、六代目尾上菊五郎に他ならない。その筋書きによると、前半は、将軍さまお気にいりの初々しい女小姓「弥生」でいたのが、舞台の後半では、勇壮で力強い獅子の精になりかわるという。
さらに、格言らしきものも残されていて、98歳の時の決意であろうか、「いまやらねばいつできる。わしがやらねばたれがやる」とあるとのことで、まさしくの空前絶後の心境であったのだろうか。
(続く)
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