154の1『岡山の今昔』岡山のうまいもの、あれこれ(餅など)
岡山の地での餅の食べ方は、どんなであろうか。まずは、雑煮からいうと、有名なのは、鰤(ぶり)の入ったものだという。主に岡山市をはじめ県南にみられるものの、内陸部の高梁市のあたりでも、こんな「ぶり雑煮」の紹介が寄せられている。
「高梁のお雑煮といえば、丸いもちにハマグリ、だいこん、ユリ根などを入れますが、忘れてはいけないのが、大きめに切った「ブリ」です。うま味豊かで、あっさりとしたお味はお正月から幸せな気分にさせてくれます。」(高梁市産業観光課「高梁市スーパーガイドブック」2018に取得)
一方、津山市のあたりでの雑煮としては、丸い餅に、長ネギ、ほうれん草、鶏肉、スルメが入るという。汁は、味噌(白、普通どちらでも)ベース、醤油ベースのどちらでも。昔は、鯨肉も入れてあった。汁の味としては、かなり濃いめであろうか。
これが美作市のあたりになると、だしには昆布とスルメ、はまぐり、いりぼしを加えるらしい。これなら、ずいぶん贅沢な味になるのではなかろうか。野菜には水菜、かまぼこも入れたりで、カラフルだ。鍋が湯だってきたら、予めゆでておいた餅を入れる。食べる時には、花かつおをたっぷりのせるとのこと。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
161『岡山の今昔』岡山人(17世紀、小堀遠州)
小堀遠州(こぼりえんしゅう、名前は小堀政一、1579~1647)は、武将、大名にして、「遠州上流茶道の祖」たどとして、あまねく知られる。
近江国(おうみのくに)小堀村(現在の滋賀県長浜市)の生まれ。父の、備中国幕府領の奉行を務めていた小堀正次が1604年(慶長9年)に死ぬと、あとを継いで同領の奉行となる。父から1600年に一万石の遺領を受け継いだという。
彼は、駿府城、禁裏、二条城などの作事にも携わる。高梁に来てからは、江戸幕府の権威を高めるべく、備中高梁の小松山の中世山城の遺構(「御根小屋跡」)の上に、新たな陣屋を建設する。これは、小松山の山城に対して「下屋敷」と言い慣わされる。
1604年(慶長9年)から1619年(元和5年)までの備中国奉行(松山城代)を務めるうちに、数々の創作をものにしていく。名門の武家ながらも、当時すでに茶の湯や作陶(将軍家茶道指南)、はては庭園づくりなどの大家になっており、多芸多才といおうか、武人としての本業よりも、むしろこの方面での活躍で、当地でも名をはせていく。
下屋敷には、茶室と庭園をつくった。それも、部下に命じ「つくらせた」というのではなくて、設計などに関与して「つくった」ということになろうか。その気風としては、「綺麗さび」とも評される。こちらの彼のつくった庭は、今は高梁高等学校の校庭に残っているようだ。
遠州が備中で策定したもので有名なのが、忙中閑ありでつくったらしい、市内頼久寺(らいきゅうじ)の庭園である。こちらは、枯山水で、規模も小さいものの、彼岸と此岸を石の配置に見たてて表現したり、部屋の中の窓から覗き見る類の演出とか、植え込みの妙、さらには背景の山との一体性の協調とか、いくつもの工夫が指摘されているようだ。
これを訪れた人が庭に出てみると、後ろに借景の愛宕山(あたごやま)があって、「天地の縮景はまた、永久の生命を空間の一点に凝縮させた」(宮崎修二郎「吉備路」保育社)とも評される。それでいて、小ぶりな庭園ならではの、何かしら安らぎを感じさせる雰囲気も兼ね備えているかのようで、ならばありがたい、ぜひ拝観してみたい。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
261の3『岡山の今昔』岡山人(20世紀、苅田アサノ)
苅田(かんだ)アサノ(1905-1973)は、津山町(現在の津山市)の生まれ。家は、代々、地主で造り酒屋というから、かなり恵まれていたことだろう。日本女子大学を卒業する。
その頃からであろうか、ロシア文学とかに傾倒していたと聞く。稀代の作家たちの、お馴染みの長編にも、親しんでいたのではないか。そのうちに、社会運動に関心を持ち出したようだ。
1931年(昭和6年)には、共産党に入党する。1933年(昭和8年)には、検挙される。のち郷里の岡山県にかえり、民間の仕事につく。戦後は、共産党の岡山県委員として働く。もはや、社会主義者に迷いはなかったらしい。
1949年(昭和24年)には、旧岡山1区から衆議院議員に出馬し、当選を果たす。この選挙で、多くの女性が政界に出る。その後の1952年の選挙では再選ははたせなかったものの、党中央委員、新日本婦人の会代表委員、国際民主婦人連盟評議員といった要職をこなす。
晩年は東京に住んでいたのであろうか、それでも郷土を気づかう心意気を持ち続けたという。それから彼女の端正な姿の写真では、何かしら、ひたむきさが連続して、止まるところが少なかったのではないか。凛々しいのみならず、その笑顔を撮ったものがあるなら、見てみたい。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
139の2『岡山の今昔』西粟倉村(英田郡)
西粟倉村は、奥深い山間地に位置している。人口は、2019年春時点で1468人、高齢化率36%だという。1889年(明治22年)の町村制施行以来、他の自治体との合併はない。
このあたりには、江戸時代から因幡街道(いなばかいどう)が通り、鳥取へと通じていた。山間地には違いないものの、現在は、吉野川沿いに国道373号、鳥取自動車道が通じている。国道から少し歩くと中国山地の深い森に出くわす。第三セクター鉄道の智頭急行で行くこともできる。
さて、この村を全国的に有名にしているものは、約58平方キロの村面積のうち95%が森林、そのうち85%が人工林だという。これを管理しているのが2017年10月に設立された「百年の森構想」だ。移住者が起業し、村全体が支援を惜しまないのは、さすがだ。
そんな村が計画した「百年の森林(もり)構想」というのは、地元の資源を有効活用することを基礎に、みんなして暮らしていこうとするものだ。
具体的には、「なかなか手入れの行き届かない民有林を村が預かって所有者の代わりに手入れをする。そうして出た間伐材は、従来のように市場に流すのではなく、用途に応じて付加価値を付けて活用・販売し、山に経済の循環を生むというものです」(青木秀樹・西粟倉村村長「森林資源を活かす「百年の森林構想」ーローカルベンチャーが誕生し、雇用を創出ー」、「地域づくり」2019年3月号所収)とある。
その一環として、取り組んでいるのが、地域資源エネルギーであって、森林から切り出される木材を、余すことなく活用したい。ついては、間伐でそのままだと切り捨てられる木材に目をつけ、森林バイオマスによる、再生可能エネルギーの自給率100%の地域づくりを目指すのだという。
たとえば、化石燃料に代わる熱エネルギー利用を考える。それが、温泉加熱の「薪ボイラー化」という取り組みにして、年間約20万リットルの灯油を使って温泉を温めていたのを。そのエネルギー源を間伐材のバイオマスに変える。これだと、約千平方メートルの木材が生産的に消費できるばかりでなく、空気中への二酸化炭素の排出量を493トン削減ができると見込む。
また、つぎのようにも紹介される。
「百年の森林構想は、他にも多くの木材関連のローカルベンチャーを生み出している。2009年には、木工房「ようび」が起業した。岐阜で家具を作っていた代表の大島正幸氏は、ヒノキで家具作りに挑戦したいと考えていたところ百年の森林構想を知り、応援したいと村に移住した。(中略)2015年に起業した(株)SONRAKUは村のエネルギー事業会社。木材から薪を製造し、温泉施設の薪ボイラーを管理して熱エネルギーを供給している。」(上山隆浩「地域資本の価値を向上ーローカルベンチャーの起業支援戦略」、一般財団法人地域活性化センター「地域づくり」2019年10月号)
なお、「2017年に森の学校から分社化したエーゼロは村と協働し、ローカルベンチャーの育成事業を実施している民間の中間支援事業者である」(同)旨。
そうこうしているうちに、取り組みは進化していく。その甲斐あってであろう、ローカルベンチャー拡大について、こう言われる。「2009年に始まった百年の森林事業は10年が経過し、村内で起業したローカルベンチャーの数は34社に上っている。これにより創出された雇用は約180人となっており、その売上額は約13億円だ。村にリターンしたのは180人で、そのうち約140人が定住している。村の人口が1454人(2019年3月末)であることから、住民の約1割を占めるまでになっている。」(同)
続けて、こうある。
「村では雇用の場をつくるのではなく、起業家の育成を主目的としてじを推進してきた。このため、起業による経済効果だけでなく、移住した起業者が減少・高齢化するコミュニティの維持や消防団活動をはじめとする地域レジリエンス向上の主体となった。」(同)
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
192の4の11『岡山の今昔』岡山人(19世紀、柴原宗助)
柴原宗助(しばはらそうすけ、1847~1909)は、宗教家、地方政治家、教育者だ。後月郡井原村(現在の井原市井原) の柳本甚八郎の二男に生れる。
幼少の時興譲館で阪谷郎廬に学ぶ。大阪で薬局に勤める。その4年後、京都で新島襄の同志社で学ぶ。
帰郷後高梁本町の酒造業、柴原家の養子に入る。1868年(明治元年)には、酒造業のほか柴原文開堂を開店し、書籍・文具・小間物・薬の販売、書籍の出版、郵便引受などを扱う。
1878年(明治11年)には、学習結社「開口社」を赤木蘇平等と設立し、自由民権をいう。翌年2月、上房郡(じょうぼうぐん)から初回の岡山県議会議員に推されて当選する。千葉県の桜井静の「国会開設懇請協議案」に刺激を受けたらしい。自由党に属し、板垣退助や後藤象次郎などと親しくなっていく。山陽諸県県議会議員連合会の設立や、国会開設運動や民選議員選出請願運動に取り組む。
さらに同年10月には、中川横太郎と金森通倫(かなもりみちとも)を高梁の自宅に招き、キリスト教の宣教の講演会を開く。その後の1880年(明治13年)2月に高梁にやってきた新島襄(にいじまじょう)を、仲間とともにもてなす。
ちなみに新島は、その時のことを妻にこう手紙にしている。
「十九日にも矢張り多くの人々参り、中々少しの暇もなく候。十八日の朝には、宿より抜出し運動の為松山の城山に登り申し候。其登りは二十町余り、途も中々瞼岨にして登り難く、城も余程厳重に築き立、昔の弓矢ではトテモ落城には難及と存候。其所は四方皆山なり。地も殊に高くして水の流る事甚急なり。此所より底の平タキ船にて海迄運送之便利も能く、山の中とは申、至て繁華したる地なり。家数は千余も有之候。尚中々開化風にて夜も所々ランプも付き、暗夜といえども差支はなし。
牛乳もあれば牛肉もあり、唐物見世も沢山にあり、書店もあり、何も格別不自由のなき所に御座候。例の開化と申して芸娼妓も随分多きよし、淫風盛んにして甚困りたる事なり。尤福音の種を播くには存分好所と存候。私山より帰り懸けに、昔大和にて中山殿に随ひ一揆を起し、敗軍に及ヒテ生捕となつし私の旧友原田亀太郎と申者の家を尋候に、老父煙草、屋市十郎存命にあられ、私に昔話をなし、袖に涙を絞りつつ、大和の軍より遂に亀太郎の京獄に入れられ、獄中より父にあてし文など示めし呉、私に逢ひしは伜に逢ひし同様と中され、大に喜び呉候。」
1882年(明治15年)には、高梁でのキリスト教会設立の中心となり、働く。この年、金森通倫の導きによって福西志計子ら14人と共に洗礼を受ける。
1898年(明治31年)には、郷里の人々に懇願され井原町長に就任する。それからの約8年間を、町制発展のために尽くす。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆