◻️192の4の9『岡山の今昔』岡山人(19世紀、木下幸文)

2019-11-02 20:24:08 | Weblog
192の4の9『岡山の今昔』岡山人(19世紀、木下幸文)

 木下幸文(きのしたたかふみ、1779~1821)は、歌人である。浅口郡長尾村(現在の倉敷市)の農家の生まれ。6歳の時、長尾村の小野猶吉に才能を認められたというから、かなりの早熟に違いあるまい。その勧めにより、16歳の時小野猶吉に伴われて上洛し、澄月・慈延の下で和歌を学ぶ。
 29歳にて、桂園派の香川景樹に入門する。精進したかいあって、熊谷直好と並び譽れ高い歌人に列する。
 その頃の「貧窮百首」は、1807年(文化4年)の大晦日から翌年正月3日にかけての連作にして、読むうちに、ため息がひとしおだ。
 代表作としては、何を挙げるべきであろうか、とりあえず二つ並べておこう。
「人のいふ富は思はず世の中にいとかくばかりやつれずもがな」
「ふる里のきびの小山田うちかへし悔しき事の多くもあるかな」
 これらからも窺えるのは、浮かんでくる情景はかなり暗いのだが、同時に、揺るがない心が健在であるようだ。いにしえへの強い意思に支えられてのことであろうか。
 1804年から没年まで「木下幸文日記」を記す。これは、当時の歌壇史・文化史研究の糧となっている旨。「亮々草紙」全3巻(1821年)、死後に刊行された「亮々遺稿」全3巻(1808年)もあって、文章もよくした。

(続く)

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◻️160の4『岡山の今昔』岡山人(16~17世紀、日樹上人)

2019-11-02 13:53:46 | Weblog
160の4『岡山の今昔』岡山人(16~17世紀、日樹上人)

 日樹上人(にちじゅじょうにん、1574~1631)は、日蓮宗の僧侶。備中国黒崎村の生まれだ。 庄屋の吉田家て羽振りがよかったらしい。その家柄にて、裕福であった。
 幼くして、武家の備前常山城主の戸川氏に奉公に出ていたのだが、18歳のとき、吉田家の法事に帰った際に、僧が玄関がら上がるのを見て、仏門を志す。
 備中仏乗寺の日英上人を尋ね、師とする。やかて、得度したというから並大抵の努力てはなかったか。やがて、日英の勧めで下総国(現在の千葉県)の飯高檀林・中村檀林で学ぶ。わけても、教学を日尊について研究する。
 1619年(元和5年)には、 池上本門寺に入る。ほどなく、比企谷妙本寺両山貫主となり、池上の復興に努める。この間、京都妙覚寺・日奥(不受不施派)に同調し、久遠寺・日乾、日遠、日暹(受布施派)と対立する。
 なお、ここに「不受不施」とあるのは、「日蓮宗を信じない者からのお供えは受けない」とのことで、日蓮の定めた法と心得る。
 やがての1630年(寛永7年)には、江戸城において池上(本門寺)と身延山(久遠寺)との間で、幕府の命による対論(「身池対論」)が開かれた。
 その結果、不受不施派は幕府に忌避され、日樹上人は信州伊那に配流となる。池上本門寺歴世が、除歴となる。
 その時の歌には、こうある、
「名にしおふ蔦木のかづら心あらばしがらみとめよ流れゆく身を」
 翌1631年(寛永8年)には、さぞかし苦労が重なってのことであろうか、配流先の信州伊那(現在の長野県飯田市)で死ぬ。その遺徳が次のような形で全国に伝わる。

「大田区文化財
   日樹上人の供養塔
 幕府の施物は、信仰による布施ではないとして、これを受けることを拒否し、純信性を唱え、日蓮宗内に受・不受両論の対立をもたらした不受不施派の巨頭、池上本門寺十五世、長遠院日樹(一五七四~一六三一)の供養塔である。
 寛永七年(一六三〇)、受側を代表とする身延と不受を主張する池上は公庭に対決し、(身池対論)幕府の裁許により池上方は破れ、日樹は信州飯田に流された。
 この塔は、日樹の三十三回忌に、近在の信徒集団によって建てられたことが、銘文によって知られ、日樹流罪後も不受不施信仰がこの地に根強く存在していた事実を立証する。
  昭和四十九年二月二日指定
  大田区教育委員会
日樹(上人)の三十三回忌 寛文3年(1663)」

(続く)

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◻️107の2の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、安土桃山時代~江戸時代、そのあらまし)

2019-11-02 09:26:35 | Weblog

107の2の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、安土桃山時代~江戸時代、そのあらまし)

 そもそも、備中における干拓の歴史は、今からおよそ500年前にも遡る。時代を区切れば、近世も後半になってからのことだ。豊臣政権の成立後は、時流に乗っていち早く織田方についていた宇喜多直家の子、秀家が、新たに備前と備中の領有を正式に認められる。
 その秀家は、鋭意新田開発に取り組んだ。折よく、近世の松山川(高梁川)下流では、上流からの土砂の堆積により、三角州が発達し、干潟が諸々にできていた1581年(天正9年)に、倉敷と早島(はやしま)の間に広がっていた干潟に潮止(しおどめ)のための堤防を築き、そこを埋め立てた。この堤防は「宇喜多堤」と呼ばれる。
 この時は、現在の倉敷市北部一帯500ヘクタール余りの土地が緑溢れる作物の実る農地になった。この時の水の便を整えるため、彼は湛井十二ヶ郷(たたいじゅうにかごう)用水から水を引くつもりで調査していた。
 しかし、これが無理とわかったので断念し、その4年後、酒津(さかづ)(倉敷市酒津)からの用水を築く。これが倉敷東北部・早島一帯を潤す「八ヶ郷用水」の始まりである。

 時代は移って、江戸期からは、かなりの規模で埋立てや運河の建設が行われてきた。水門の設けられたのは、これらのうちの船穂町エリアの水江にある。
 江戸期に入ると、それかさらに南方に干拓が進んで、その範囲は現在の玉島エリアの全体まで及ぶようになっていく。ちなみに、その当時の玉島というのは、海に張り出したところというよりは、福島、七島、連島、乙島、柏島などの独立の島も含んでのことである。全体として、あたりは瀬戸内の風光明媚な島々に育まれた土地柄であると言える。

 この期に入ってからの玉島地区の埋立のとっかかりは、松山の前藩主、池田長幸による、長尾内新田10町歩をもって嚆矢としてよいのではないか。その後の水谷氏になってからは、本格的な干拓が始まる。具体的には、1624年(寛永元年)から1624年から19年がかりにて、松山藩が「長尾内外新田」を手掛けたのが創始とされる。
 やがての1661年(寛文元年)の上竹新田(上竹は、現在の道口、富、七島地区)からは、隣の岡山藩も新田開発に乗り出す。また、1659年(万治2年)には、松山藩(当時の藩主は水谷勝隆)により、玉島新田が完成する。工事が始まったのは1655年(明暦2年)で、足かけ5年の工事で、乙島、上成、爪崎を結ぶ広大な海域が埋め立てられる。

 同じ1659年(万治2年)には、備中松山城主の水谷勝隆が、家臣の大森元直に対し、高梁川下流域(現在の玉島・船穂地区)に、水流の高低差を調整するのに水門を使った運河を開削するように命じた。その頃の高梁川は、そのやや上流で二本に別れていた。
 その一つ、西高梁川からの灌漑用水路を拡張・整備し、新見までを結ぶ高瀬舟の運行をより便利にしようとしたもので、完成した年代は、正確な記録がないものの、1664年(寛文4年)頃であろう。
 さらに1671年(寛文11年)には、これまた松山藩(当時の藩主は水谷勝宗)により阿賀崎新田が拓かれる。以下、勇崎押山新開と柏島森本新開(1670年)、柏島水主町新開などを干拓する。
 このほか岡山藩も、上竹新田(1661)に続き、七島新田(1670)、道越新田(1669)を手掛けていて、主として西岸からは高梁の松山藩水谷氏が、東からは岡山藩池田氏の両藩が競うように干拓を進めていたことになる。なお、これに応じて、埋め立て地における両藩の境界も設定されていく。なお、これらの位置関係については、たとえば、森脇正之著「玉島風土記」(岡山文庫169)を参照ありたい。

 顧みるに、両藩による、これら一連の埋立ての中でも、松山藩の阿賀崎新田は大規模で知られる。この工事にとりかかる1658年(万治元年)、松山藩主の水谷勝隆は神社を勧請し、阿賀崎新田の工事成功を祈願した。その社は、水谷勝宗、克美までの3代55年で完成したもので、拝殿瓦に「からす天狗」を鎮座させているのが、元はといえば山形県の羽黒神社に棲むという伝説上の生き物をあしらったものらしく、なんとも珍しい。ここに羽黒神社というのは、この工事の前は阿弥陀山、工事後は羽黒山と名前が変わっている。
 この埋立てのため、阿弥陀山と柏島との間に汐止めための堤防を築いて埋め立てた所(羽黒神社の西側)には、人々が集まり、「新町」を形成していった。問屋街として栄えていくのだが、それから350年余を経た現在は、県の町並み保存地区に指定され、倉敷美観地区につぐ町並み観光スポットなっている。潮止堤防の上に築かれたこの町は、かつてこの堤防上に回船問屋が立ち並んでいた。最盛期には、かれらの富の象徴である、切り妻造り、本瓦葺き、虫籠窓の商家や重厚な造りの土蔵が設けられていて、土蔵の数はざっと200以上に及んでいたというから、驚きだ。
 かくして、海に臨んだその町の南側には、北前船などの千石船が船着場に頻繁に入船、出船していて、ほど近い下津井港に負けず劣らずの賑わいを見せていたことだろう。その新町への行き方だが、新倉敷駅からバスで、爪崎南、爪崎西、八島、七島、文化センター入り口、玉島支所入口と南に下り、玉島中央町で降りる。

 次に運河について、俯瞰しておきたい。一の口水門は、高瀬川の下流部、小田川との合流点下にあった。このあたりは、倉敷市玉島長尾、爪崎を経て高瀬舟による河川水運と海運船による内陸水運の接点として栄えたところで、ここが運河の取水口となる。
 この一の口水門には、今でも堰板(せきいた)を巻き上げる木製のウインチが残っている。これにより、二つの水門の開閉によって水深を調節し船を通す仕組みであって、「閘門(こうもん)式」の運河と呼ばれる。ここで生じていた水位の差は、2~3メートル位ではなかったかとも言われている。この一の口水門と、その下流約300~350メートルの二の水門、通称船溜水門との間で水位の調整を調整する仕組みが導入されたことになっている。
 かかる水路としては、船穂町の一の口水門から高梁川の流れを導き、長尾・爪崎を経て、玉島港に通じる。「高瀬通し」と呼ばれる区間(現在の倉敷市船穂~玉島間)約9~10キロメートルにかけてが、それに当たる。


 さて、この松山藩の阿賀崎新田造成に伴う運河の完成によって、新田の灌漑用水と、高梁川流路との高瀬舟、北前船の出入りが容易になったことが窺える。同時に、一の口水門から、水江又串、元組、長崎鼻・長尾・爪崎南端を経て七島東端、さらに羽黒山麓へと連なることから、これによって玉島港までの舟運についても舟運による道筋ができたことになる。
 かくして、この運河を遣っての高瀬舟の上りでは、船頭が竿で舟を押し、残りの二人は岸辺で綱を引く。高梁川のような大きな川では川岸が整備されていないので舟を引くのも大変と考え、高梁川の脇に用水路を開削し、この水路を使って舟運を行なおうとしたものとみえる。

 ちなみに、現在では、かつての高瀬舟などが往来していた水路はもう役割を終えて、ごく一部の施設のみ露出している。水の取入口にあたる「一の口水門」は、倉敷市の史跡文化財になっており、その前に次の案内板が設けてある。
 「旧高瀬通しの終点、玉島舟だまり跡。松山藩水谷候が玉島阿賀崎新田を開拓した万治寛文延宝にかけての約330年前、高梁川の水を入れた灌漑、水運両用の高瀬通しが船穂町水江の堅盤谷(カキワダニ)から糸崎七島を経て、玉島舟だまりまで91粁巾37米ー8.5米で開通された。一の口水門から二の口水門へ水を入れた閘門(コウモン)式運河で、パナマ運河に先んずること240年前であった高瀬舟は、下りは、水棹を用い上りは曳子が引いて通過した。
 下り舟には、米・大豆・茶・薪炭・煙草・漆・和紙・鉄・綿・べんがらなど、上り舟には北海道鰊粕・干鰯・昆布・塩・種粕・雑貨など積まれた港の北前船と並んで江戸期の玉島繁栄の基となった。荷を積み下ろす舟だまりは、羽黒山東側のこのあたり約10アールの水域であった。羽黒山北側に延びる水路は、新町裏側に通じ阿弥陀水門から舟は港に出た。明治になってからは、港町に地下トンネルが出来、舟はそこから港に出た。昭和になって、高瀬通しはその機能を失い道路となり、家並みが建ち現代に至った。平成6年(2009年)11月6日、玉島文化協会、玉島観光ガイド協会」
 それからについては、水谷氏は3代目の藩主が早世し後継ぎがなかったため、元禄7年(1674)断絶してしまった。幕府は領地を接収し、数年後浜松藩の本庄氏、丹波亀山藩の青山氏、その他の大名に分封して与えた。更に、この地は1729年(享保14年)に松山領、幕領、亀山領、岡山領、鴨方領、岡田領の六つの藩の領有にと細分され、きちんと計画を立てての、それまでの事業はしだいに影が薄くなりつつ、明治維新を迎えたことになっている。明治の世(慶長4年~)になっても、こうした高梁川にまつわる干拓事業は形を変えてなおも続いた。


(続く)

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