◻️232の11『岡山の今昔』岡山人(20世紀、金重素山)

2019-11-03 09:18:52 | Weblog

232の11『岡山の今昔』岡山人(20世紀、金重素山)

 金重素山(かねしげそざん、1909~1995)は、陶芸家。和気郡伊部村、備前焼窯元の金重楳陽の三男。1927年、兄の金重陶陽の助手として窯詰窯焚をつとめる。陶芸家を目指すには、類い稀な良い環境であったろう。
 1941年(昭和16年)には、32歳の金重素山の元に招集礼状が届く。
 戦後の1951年(昭和26年)には、陶陽窯を離れ、大本教本部内亀岡の「花明山窯」に赴く。そして、三代教主・出口直日の指導ならびに助手を務める。
 顧みるに、この宗派は、唯一先の戦争に反対を貫く。そ
の教主の出口王仁三郎は、「この戦争は負ける」と見抜いていた。

 1959年(昭和34年)には、大本教本部綾部の「鶴山窯」にて、これまた無報酬で働く。
 1964年(昭和39年)には、岡山市円山に登窯を築く。1966年(昭和41年)には、電気窯による緋襷焼成を完成させる。潤い豊かな緋襷焼成への執念がみのった形だ。その翌年になると、大本教梅松館工房開きに際し、石黒宗麿、金重陶陽らと作陶を行う。
 1982年(昭和62年)には、伊部に「牛神下窯」の窯を設ける。その翌年には、岡山県指定重要無形文化財保持者に認定される。
 しばらくしての1990年には、伝統文化保存振興貢献により、文化庁長官賞を受賞、これは伝統文化保存振興貢献による。1991年には、岡山県文化賞をもらう。1994年には、三木記念賞を受賞する。さらに、1995年には、備前市功労賞を受ける。
 作品には、独特の風味といおうか、どっしりした存在感に圧倒される。例えば、「日経アート」(インターネット配信、2019秋)で円柱型の湯呑みであろうか、無名で紹介されており、側面を拡大して拝観できるのはありがたい。威風堂々たる体。見えている面は、思いの外「ざらざら」というよりは「ヌメヌメ」とした光沢を放つ太めの溝が彫られているところか、手に取っての感触はどんなであろうか。人生において、一椀位は、かような器を身近にしておきたいものだ。
 そんな作家にして、座右の如く、常々口にしていたのは、「
作品は子供じゃ。生まれ変わっても焼き物をやる」であったという。


(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆