◻️232の14『岡山の今昔』岡山人(20世紀、近藤鶴代)  

2019-11-19 19:20:18 | Weblog

232の14『岡山の今昔』岡山人(20世紀、近藤鶴代)
 
 近藤鶴代(こんどうつるよ、1901~1970)は、政治家。 八束村(現在の真庭市)の生まれ。同村で4歳まで暮らす。岡山高等女学校(現在の操山高等学校)へと進んだのには、家庭が比較的裕福であったのだろうか。

 1904年(大正13年)に、東京の日本女子大学家政科を卒業する。岡山県山陽高等女学校、岡山第一高等女学校各教諭を務める。

 1946年(昭和21年)には、戦後第一回の衆院議員(岡山全県1区、定員10)に3位当選を果たす。国会議員への転身には、「衆議院議員の兄が公職追放された」(山陽新聞、2014年1月18日付け)のがきっかけとなったらしい。

 以降4回続く。のち参院議員に転じ当選2回という人気ぶり。その間第2、第3次吉田茂内閣の外務政務次官、1962年(昭和37年)には、第2次池田勇人内閣の科学技術庁長官、原子力委員会委員長となった。

 その間、寒冷地農業への助成や津山高専の開校にも力を注」(同紙)いだとつたわる。

 1968年(昭和43年)に国会議員を引退するまで、自由党、自民党といった保守派閥での女性議員の代表格として振る舞う。登院の際には、着物姿で、落ち着いた物腰であったという。
 その政治家としての初心は、「女性の地位向上」とのことで、苅田アサノとは立場は違ってはいたものの、互いに尊敬する間柄であったらしい。「政治は義理と人情だ」とか「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」などの気さくな言葉でも知られる。

(続く)

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