♦️393『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズム(イタリア、~1945)

2018-08-17 09:05:42 | Weblog

393『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズム(イタリア、~1945)

 イタリアは第一次大戦で戦勝国であったにもかかわらず、戦後の社会的混乱に見舞われていた。そんな状況を好機として、1921年、ムッソリーニの指導の下に「全国ファシスト党」を結成する。イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世は優柔不断で何が進行しているかを理解しておらず、翌1922年のムッソリーニに率いられるファシストたちの「ローマ進軍」にも対処できず、結果として彼らの政権掌握を許してしまう。彼らはその際、王制は存続させ、利用する道を選んだ。
 1926年1月の「「法に代わる命令」に関する法」の第3条で、政府は、非常時や緊急事でなくても、かかる命令を発布できると記す。
 同年4月、労働関係調整法が制定される。それには、一経済部門につき、一つの労働組合だけが認可され、労働組合の二役についても政府により認可が下される。公認組合の賃率協約は、同経済部門のすべての労働者に適用される。軍隊、郵政電信電話、国鉄そして教員は労働組合を結成できないし、ストライキやロックアウトといった資本側にダメージを与える行為は禁止される。
 そして迎えた同年11月、イタリア・ファシスト党以外の政党の解散が命じられる。
さらに1927年4月には、ファシズム大評議会において全30条の労働憲章が採択される。その第9条には、「国家は個人の創意が欠けまたは不充分なとき、または国家の政治的利益がおびやかされるときにのみ、経済的生産に介入する」と記される。
 1928年12月、ファシズム協議会は国家の最高機関となる。国会は、1929年3月選挙以降、全員ファシスト党議員によりなる翼賛議会になるも、それも1939年には廃止されてしまう。こうなると、議会というものはイタリア国からなくなったといっても過言ではなくなった。まさに、ファイストたちのやりたい放題となった訳だ。
 そして迎えた1934年12月には、イタリア領ソマリアランドとの境界付近で紛争が起こる。ムッソリーニはこれを口実にアフリカ進出を企てる。その手始めとして、1935年10月、エチオピア(アビシニア)王国に軍事侵攻する。イタリアのファシストの軍隊は高地を突き進み、翌年5月には同国の併合を宣言する。エチオピア王国は、これに先立つ1935年1月、自国が今にも侵略されようとしていることに対して、国際連盟になんとかしてほしいと提訴を行っていた。
 これに応えるべく、国際連盟は10月のイタリア軍侵攻後直ちにイタリアを侵略国として認定する。連盟規約第16条を初めて適用することで、経済制裁に踏み切る。
 とはいえ、この制裁対象には、石油などの重要物資は含まれなかった。フランスイギリスは、連盟非加盟国にはこの措置が適用されない、したがってアメリカなどからは輸入できることをいい、禁輸は無意味であると主張する。また、この二国は国際連盟の枠外で和平案を立案するという体たらくであった。
 これに力を得たファッショのイタリアは、1939年にはアルバニアを併合するにいたる。イタリア王といえば、エチオピアとアルバニアの両方の帝位と王位を兼ねることになる。こうして国王は単なる飾りに成り下がり、国民世論はむき出しの暴力を背景とした圧政に封じられ、イタリアはヒトラー・ナチスのドイツと同一歩調をとって、第二次世界大戦へと進んでいくのであった。

(続く)

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□39『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作延享の逃散)

2018-08-16 21:08:23 | Weblog

39『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(美作延享の逃散)

 続いて、1746年(延享3年)の美作の地においては、重税に喘いでいた勝北郡と勝南郡の農民たちが、ついに四十与余国の地を捨て、伊勢神宮への参拝に向かったのであろうか。そのねらいは農地を離れること、つまり逃散であり、大坂で幕府の知るところとなり、藩は、幕府に対し釈明するとともに、彼ら百姓たちの要求を取り入れざるをえなかった。京都大学の黒正巌は、事件のあらましをこう紹介している。
  「この外、最も興味ある事件は一村のものがせ何処かへ逃散した事である。即ち延享三年(一七四六年)の冬、勝南郡稲穂村の庄屋等窮乏して租税を納むる事が出来ないので、遂に高四十余石の地をすてて逃散した旨が東作誌に記されて居る。之は農民の消極的抵抗であるが、勇敢なる農民一揆よりも一層痛しい感がある。
 一揆を起すだけの力はない、起したにしてもその身は亡びるし、座して忍ぶも亦餓死するの外ないのでこの挙に出たものと思われる。先達て農民組合の杉山氏が京都大学での講演席上に於て、作州の農民が郷土をすてて死場所を伊勢に求め名を伊勢神宮に借りて家財一切を持て伊勢迄来たが、藤堂候の知る所となり、幕府に伝えてその善後策を講じた由を述べて居た。
 その出典を聞く事を出来なかったので、私自ら文献を漁ったがこの種の記録を見る事が出来なかったが、或いはこの連中かも知れぬ。」(黒正巌「作州の農民騒動」:京都帝国大学経済学会の経済論叢第22巻第4号、1926年)
 1769年(明和6年)旧暦2月、同氏の論文によれば、「森保春領地久米南条郡の京尾、南畑の諸村の民はその近村を煽動して脅迫し金穀財貨を掠奪した。二月十七日領主」
 森保春士卒百五十人を鎮圧し、著本人たる次郎右衛門、六次郎の二人を斬罪に処す」とある。

(続く)

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□38『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作元文一揆の舞台裏)

2018-08-16 21:07:06 | Weblog

38『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(美作元文一揆の舞台裏)

 それでは、この百姓一揆がさほどに肥大化し、同時にまた先鋭化したのは、なぜであろうか。これについては諸説ある。その一つである『津山市史』第4巻は、この一揆の性格について、こう論評している。
 「この騒動は先に久米南条郡で観たような単なる物乞いではない。藤七の願書によれば、
長百姓以下の中堅百姓の起こした「百姓一揆」である。(中略)
 二つ目の特徴は、の姿をして物乞いの形式を取っていることである。-中略-ここでいうの姿とは「野」の姿のことである。年貢を納められずに田畑を村に差し出し、一家離散して流浪する没落農民を村に差し出し、一家離散して流浪する没落農民や何かの理由で「欠落」(行方知れずになること)した人々は一定期間(津山藩では100日)村人が探し、見つからなければ人別長から抹消され、無籍となるのである(「帳外者」)。」
(津山市史編纂委員会編『津山市史』第4巻4章)
 この中で「の姿をして」とあるのは、具体的には百姓たちが当時の被差別者としての「」と呼称される人々を騙(かた)ろうとしたゆえであったろう。その時の「いでたち」の意味について、網野善彦は、長光徳和編「備前・備中・美作百姓一揆史料」を引き合いに、こう指摘している。
 「(前略)そのさい二、三百人に及ぶ百姓たちは、みな「古笠、古みのを着し、荷俵をせなにおひ、俵の内に牛のつな一筋づ々」を入れていた。この服装は「○(そん)」ーの姿だったのであり、百姓たちは自ら「我らは当日の浚(しゅん)もならざるどもにて候」と名のり、一人につき一斗の米の貸与を求めている。この百姓たちが「天狗状」といわれる廻文によっておのずと集まり、取鎮めようとした庄屋たちに「石礫(いしつぶて)を打って悪口し、追い払ったことも興味深いが、なにより百姓たちが蓑・笠をつけ、俵を背負い、の姿をして行動をおこした事実に、ここでは注目しなくてはならない」(網野善彦著作集大十一巻「芸能・身分・女性」岩波書店、2008) 

(続く)

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□25『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作元文一揆)

2018-08-16 21:05:30 | Weblog

25『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作元文一揆)

 1727年(享保12年)5月、幕府は津山藩の石高を10万石から5万石に減らす。幕府は、津山藩領として残った以外の主だった地域を幕領とし、代官所の差配に置いて直接支配した。その当初の年貢率は「五公五民」であった。もう一方の津山松平氏による治世も、山中一揆の後、追ってだんだんと地固めがなされていく。
 4代にわたる治世を経過する頃には、財政を立て直すなど、藩政を改革しようという機運が出て来た。4代藩主の長孝が38歳で没した後には、その子、松平康哉が、1762年(宝暦12年)に11歳で家督を相続した。英明と言われた彼は、それから9年後の1771年(明和八年)には藩政改革に着手した。かかる改革の諮問役には、儒者大村荘助と飯室荘左衛門を頼りにした。彼は「新法」を唱え、庄屋制度の廃止などの改革をおこなったものの、その実は上がらなかった。


 1739年(元文4年)旧暦3月には、北方の隣国である鳥取城下の因幡(いなば)や伯耆(ほうき)でも百姓一揆が起こっていた。これを「因幡伯耆騒動(一揆)」と呼ぶ。

 これに触発されてか、同じ年、1739年(元文4年)、今度は幕府の天領となっていた旧津山藩の一部地域、勝北郡(しょうぼくぐん)で百姓一揆が起きた。これを「勝北郡横仙(よこせん)一揆」、「勝北郡騒動」又は「美作元文一揆」と呼ぶ。


 この一揆は、前年の幕府の布告によって年貢率が「五公五民」から「六公四民」へと引き上げられた時期と重なる。気象も何やら怪しく、不作が続いたという記録も残っている。ついに堪忍袋の緒が切れた勝北郡北野村(奈義町)百姓の与(與)三衛門と藤九郎をリーダーとして横仙の農民たちが立ち上がった。そもそもの決起は、隣村の近藤村の百姓との連合にとどまっていた。それがしだいに横仙35か村(これには、是宗、宮内、北野、成松、高圓、久常、澤、柿?、勝加茂西中、新野西下村などが含まれる)に広がった。


 この一揆の発生場所となった勝北郡北野村に「西分」の地名があり、「角川地名辞典」においては、この一揆の中心の一つであったところの北野村の経緯が、こう説明されている。


 「西分(近世) 。江戸期~明治7年の村名美作国勝北郡のうち滝川上流域、滝山南麓に位置する享保6年北野村が町分と当村に分村して成立。なお、分村後も2村を合わせて北野村と示すこともある。幕府領村高は、「東作誌」には「北野村西分」と見え363石余、「天保郷帳」は北野村八三3石余のうち、「美作鏡」「旧高旧領」ともに「北野村西分」と見え363石余。「東作誌」では家数33・人数140。
 元文4年北野村百姓与三右衛門・藤九郎らが起こした元文勝北騒動は、横仙35か村3000名以上の農民が参加する大一揆となり、東分と当村の庄屋は御役取上となっている。倉敷県を経て、明治4年北条県に所属同7年滝本村の一部となる。」(「角川地名辞典」)


 この一揆の顛末についてより簡単には、地誌である『東作誌』は、次のように伝えている。


 「元文四年巳未二月北野村藤九郎与右衛門等張本として、百姓等五百三十五人村数十三邑徒党して乞食に出て押て物を乞ふ是に依て頗る騒動に及ぶ(中略)三月四日に吉野勝北之頭分なる庄屋十五、六人見候て、其時御代官曽根五兵衛様御手代中丸清助殿より、集居申候場所罷越、彼是と宥め、取鎮め候様にいたし見申候得共、中々に承引不仕、却て敵対一両人にも礫に両疵付け申候。」


 要するに、生活に困窮した百姓たちが、大挙して富家に押し寄せ、飯米などを要求した、というのだ。それでは、同4日の農民たちの、豪農など富家に侵入しての財物の掠奪を伴う行動が、その数2千人(地方史辞典)とも3千人(『日本地名大辞典』)とも言われる。最終的には幕府が出てきて、大坂町奉行稲垣淡路守に命じて事件を裁断せしめる。同年旧暦10月23日、発起人の両人は大坂で死刑に処せられ、その外24人の主だった農民たちも追放処分となった。誠に、情け容赦はない措置であった。

(続く)

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♦️21『自然と人間の歴史・世界篇』新生代第四期氷河時代

2018-08-16 20:40:48 | Weblog

21『自然と人間の歴史・世界篇』新生代第四期氷河時代

 地球は現在、そのような新生代第四紀氷河時代(もしくは新生代氷河時代、新生代後期氷河期とも)の中の間氷期(かんぴょうき)にあり、この第四紀の「最終氷期」の最寒冷期は、今から約1万6000年前まで続いた。それから約1万1700年~1万1600年前までに、つまり完新世が始まると同時に「不安定で寒い時代」が終わったのではないかとされる。それからは温暖期(「安定で暖かい時代」)となり、約6000万年までは、原則として温暖化が進行したのではないかと考えられている。
 つまり、約260万年前に始まる「新生代後期氷河期」を大枠と理解し、その中の約7万年前から約1万1700年~1万1600年前までの「最終氷期」、すなわち「最も新しい氷期」として話が進められる。そして、かかる氷期には、海水面が下がって島や列島が大陸とつながった時期を含む。

 あわせて、この時代中の今から約7万4000年(7万年前とも)前には、スマトラ島のトベ火山が大噴火を起こす。この噴火は、これまでにわかっている地球最大規模の出来事であって、噴出量は2500~3000万立方メートルとも推測され、およそ12年の間は、空が曇り、地表に太陽の光がほぼ届かずに、アフリカや、そのアフリカから出ていきつつあった人類に、極めて大きな試練をもたらしたと考えられている。

 学問的視点からこれらをさらに明らかにし、必要なら修正を加えていくのが現代科学の役割なのだが、ごく最近まで専門家の共通の拠り所となるものさしの不十分さが、目立っていた。そんなところへ、新たに、より多くの、しかもより確かな情報を私たちに与えてくれるものが見つかった。その代表的なものこそ、日本の水月湖(すいげつこ)の湖底の泥から得られる試料であるとう。

 これは、福井県若狭町と美浜町に跨る。堆積層の1センチが約15年分に当たるとのことであり、この水月湖から取られた7万年以上の気候変動が刻まれた年縞を研究していけば、多くのことがわかると、日本ばかりでなく、外国の研究者からも注目されている。
 翻っては、これまでの「放射性炭素による年代測定」にも磨きがかかることが期待される。「炭素14」は5568年ごとに半分に減っていく、つまりそれだけの「半減期」という物差しを持つ。どんなモノに含まれていても、その減り方の時計の針の進みは同じということに、測定の原理を求める。

 よって、出土品に含まれるそのごくごくわずかな量を調べれば、年代がわかる。この測定法の発見は、1947年(昭和22年)、シカゴ大学の化学者、ウィラード・F・リビー博士による。とはいえ、この測定で得られるデータは正確ではなく、時代による誤差がつきまとう、そこでこれを改善することだといわれる。

(続く)

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♦️20『世界と人間の歴史・世界篇』氷河時代とは何か

2018-08-16 20:38:39 | Weblog

20『世界と人間の歴史・世界篇』氷河時代とは何か

 さて、地球の歴史上、どこかに氷河が存在する時代を氷河時代という。大陸上に氷床が急速に発達したり急速に衰退したりするのが特徴だ。氷河時代のわかりやすい説明は、氷河がこの地球に存在する時代のことにほかならず、この意味では、今は南極やグリーンランドなどにあるので、実は氷河時代なのだといって差し支えない。ただし、厳密には「氷河時代とは、極域に氷床(広い領域を覆う氷塊)がある時代のこと」だと言われるので、その認定が専門家によってなされていることが、この擁護を用いる場合での前提なのかもしれない。
 この氷河時代のうちには、二つの時期がある。まずは、特に気候が寒冷で氷河が発達・拡大し、世界的に海面低下が生じた時期を氷河期、または氷期という。もう一つは間氷期(かんぴょうき)というもので、氷河期、または氷期が気候状態がより厳しい時期の代名詞であったのに対し、より温暖な時期をいう。すなわち氷河期は、寒い氷期とちょっと暖かい間氷期が繰り返し訪れことに、その眼目があるといえよう。
 最近の氷河時代は、寒暖の変化がはっきりとなった、今から約260万年(もしくは約250万年、以下同じ)前以降のこととされる。地球史の中でこれまでに知られている氷河時代は5つあったといわれるものの、あくまで推測のものだというのを踏まえたい。
 これらのうち現在の地球は、「新生代第四紀氷河時代ないし新生代氷河時代にある」というのが、通説であるものの、よりはっきりさせるためか、この約260万年前に始まるものを、「新生代後期氷河期」と呼ぶ人もいて、現在もこれが続いているとみる。

(続く)

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♦️217『自然と人間の歴史・世界篇』メンデルスゾーンとサンサーンス

2018-08-15 21:06:10 | Weblog

217『自然と人間の歴史・世界篇』メンデルスゾーンとサンサーンス

 フェリックス・メンデルスゾーン(1809~1847)は、ドイツのロマン派の作曲家して演奏家、それに指揮者でも活躍した。祖父は神の存在を強調するユダヤ系哲学者、ベルリンの裕福な銀行家の家庭に生まれた。10歳にして、ピアノの名手、作曲も手がける。最近のことだが、14歳の時に作曲したといわれる交響曲が見つかったという。
 その短い人生のあいだに、5つの交響曲、演奏会序曲、2つのバイオリン協奏曲、2つのピアノ協奏曲などを書いた。その死後に明らかになった作品も多い。殊にバイオリン協奏曲ホ短調」は、陰に日向に繰り返し透き通るような調べが際立っている。

 美しい旋律には、心を打たれる。人格は温厚であり、気むずかしくなかったという。社会的な音楽普及者としても知られ、ライプチヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者として、世に忘れられようとしていたバッハの「マタイ受難曲」の再演に力を尽くした。
 サンサーンス(1839~1921)は、フランスの作曲家にして演奏家。変幻自在な曲調が特徴だ。詩や絵画、天文学そして数学などにも精通していたという。
 1873年の37歳の時、「チェロ協奏曲第1番」を書いた。情感溢れる中にも、演奏者(ソリスト)の微細な技術が映えるようになっている。5曲の交響曲、交響詩、2曲の管弦楽曲を書いた。その中の組曲「動物の謝肉祭」より「白鳥」は、いかにも華麗、優美だ。この中では、独創的なチェロの調べには優美さが感じられる。同じフランスのビゼーが作曲した管弦楽曲「アルルの女組曲」とともに現代に人気を博する。
 宗教曲「アヴェ・マリア」は、教会のオルガニストとして生計を立てていたサンサーンスが、演奏者や歌手の編成に合わせて5つをつくったという。歌い手(男性のテナー)に「めでたしマリアよ、主はあなたとともに。あなたのお腹の子イエス」云々といわせる。また、「旧約聖書」にちなみ、オペラ「サムソンとデリラ」より「バッカナール」では、古代イスラエルの英雄を讃え、オリエントの雰囲気も醸し出す。1908年、「ギーズ公の暗殺」という映画音楽も書いた。「魚が水の中で生きているように、私は音楽の中で生きている」というのは、いかにも頷ける。

(続く)

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♦️180『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル、1096~1489)

2018-08-15 08:20:33 | Weblog

180『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル、1096~1489)

 1096年、カスティーリア・レオン連合王国 (スペイン) 国王は、イスラム勢力との戦いで勲功があったということで、フランスのブルゴーニュからやってきた騎士エンリケ・ド・ボルゴーニュ(アンリ・ド・ブルゴーニュとも)に、伯爵の称号と共に土地を与える。そこはドウロ川の流域で、ローマ時代には、その一帯をコンダドゥス・ポルトカレンシスと呼ばれていた。
 その息子・アルフォンソ・エンリケスは、 ポルトガル王国を建国し、 アフォンソ1世と号する。その後、サンタレンの戦いに勝利して、テンプル騎士団にトマールの地を与え、続いて、リスボンを奪取し、ここを首都に定める。
 13世紀後半、ポルトガルの王位に継承問題が発生し、カスティーリャ王フアン1世がポルトガルに侵攻してきた。そんなカスティーリャの軍に対する戦いで勝利を得て、ポルトガルの独立を確保し、アヴィス朝の初代ポルトガル王となったのが、好奇心旺盛なジョアン1世であった。1409年、ヤコブス・アンゲリクスにがプトレマイオスの著「地理学」をラテン語に訳出する。1411年、カスティーリャ王国とポルトガル王国との間で和議が成立した。
 1415年から、ジョアン1世は大いなる富を得ようと海外進出を始めた。ジョアン1世(~1433)の息子のエンリケ航海王子(1394~1460)やコインブラ公ペドロも、モロッコ遠征に同行し。ポルトガル軍は、北西アフリカのセウタを攻略する。
 ジョアン1世から王位を継承したのはドゥアルテ1世だったのだが、その5年後に死ぬ。後を継いだのは、6歳のアフォンソ5世だった。コインブラ公ペドロが幼王の摂政として選ばれた。ペドロはジョアン1世の息子にしてドゥアルテ1世の弟(つまりアフォンソ5世の叔父)、そしてエンリケ航海王子の兄にあたる。摂政としてのペドロは、エンリケ航海王子が唱える大西洋の探検航海を支援する。
 1434年、ポルトガル人の航海士であり探検家ジル・エアネスが、ボアドール岬を回航する。エンリケ航海王子の命であったともいわれる。1477年、プトレマイオスの地図がイタリアで印刷される。1479年には、ポルトガルとスペインとの間でアルカソヴァス条約が結ばれる。仲介の労をとったのはローマ教皇であり、ポルトガルがアフリカ沿岸、マデイラ諸島、アソーレス諸島、カボヴェルデ諸島を、そしてスペインがカナリア諸島をそれぞれ領有することに決めた。
 1482~1485年、探検家ディオゴ カウンが、アフリカ大陸探検のためリスボンを出航した。ジョアン2世の命を受けていた。カウンの船団は、アフリカ西岸を南下中、偶然、コンゴ川河口を発見する。そのまま上流まですすむと、未知の王国があった。現在のコンゴとアンゴラの地域に当たる。
 1487年、この年の暮れから翌年初めにかけて、ポルトガル国王の命により、ポルトガルの航海者であるバルトロメウ・ディアスが出航した。アフリカ大陸を周回してインドへの航路を見出すためであった。彼の船団は、アフリカ大陸南端の喜望峰の回航に成功し、そこから折り返してポルトガルに帰港を果たす。同年、ペドロ・デ・クビリャン(Pedro de Covilh)が陸路で東方旅行に出発する。アデン経由でインド半島西岸の香料取引地に達した。またペルシア湾岸オルムスから紅海に出て、アフリカ大陸の東岸にとりつき、そこからザンベジ川河口付近まで南下した。

(続く)

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♦️161『自然と人間の歴史・世界篇』明の外交政策(艦隊の派遣、7回目とその後)

2018-08-14 22:39:49 | Weblog

161『自然と人間の歴史・世界篇』明の外交政策(艦隊の派遣、7回目とその後)

 1431年の初め頃、明の宣宗皇帝・朱瞻基が祖父の明の成祖の事業を受け継ぎ、再度鄭和に航海の命令を下した。7回目の航海であった。この海は3年余りも続き、鄭和の船団は20近くの国を歴訪した。毎回、兵士、医者、調理人、通訳、占星術師、商人、聖人が随行した。1405~1433年の28年間、つごう7回の航海で当時の数十の国に上陸し、交流を果たした意義は大きい。
 ところが、そんな明朝の大国家事業だったにもかかわらず、鄭和の大航海が終わってしばらくすると、大航海によって蓄積されたであろう海図や国際情勢に関する資料などのほとんどが行方知れずになってしまったというから、驚きだ。それだけでなく、明の朝廷は1436年頃からは造船や海上貿易に対して消極的になった。1500年には2本マスト以上の船を作ることを禁じ、さらに1525年には海外渡航できる外洋船を取り壊すにいたる。
 なぜそんなことになったのかは、不明である。一説には、鄭和が「色目人」(しきもくじん)で「宦官」(かんがん)だったことが、漢人の反感を買ったと推測する。ここに色目人とは、ペルシア・トルコ系のイスラム教徒の中国人を指していた。明の一つ前の王朝である元(モンゴル帝国)の時代、特権階級だったモンゴル人に次いで高位に序せられていた。そのため、漢人などは、その下の階級に押し込まれていた。また、宦官との関わりについては、例えばこういわれる。
 「これは宦官派とその敵対派の抗争であったが、この種の政治的争いはどこの国でもよくあるものだ。船団派遣の政策を推進していたのは宦官派だったので、敵対派が権力を握ると船団の派遣を取りやめたのである。やがて造船所は解体され、外洋航海も禁じられた。」(ジャレド・ダイヤモンド著、倉骨彰訳「銃・病原菌・鉄」草思社、2000)
 推測するに、それらに劣らず、経済的な理由からくるものも相当に大きかったのではないだろうか。特段の交易利益のない大航海であったればこそ、永楽帝が死ぬと財政負担の大きいことへの反発もあったのではないだろうか。

(続く)

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♦️160『自然と人間の歴史・世界篇』明の外交政策(艦隊の派遣、1~6回目)

2018-08-14 22:38:26 | Weblog

160『自然と人間の歴史・世界篇』明の外交政策(艦隊の派遣、1~6回目)

 元は100年程中国の地の治世にあたった王朝だが、最初の頃はチンギス・ハンがユーラシアを征服して以来、東ヨーロッパの一部から中東、さらに東南アジアに跨る大帝国の中心となっていた、その頃の武力の大方を受け継いでいた筈だ。元の地の「中原」は当時から交通の要衝の地であり、陸上そして海上の貿易を通じて富をほしいままにしていた。だが、元朝はフビライの後から尚更国内運営をおろそかにしたため、治世の後半からは反乱が度々起こる。
 ついには、反乱を率いていた農民出身の朱元璋(洪武帝)を初代皇帝とする明王朝に取って代わられた。3代目の皇帝となった永楽帝は、大いに野望のある人物であり、貿易と外交を重視する政策に代わった。その永楽帝は、甥に当たる先代の皇帝を内乱で倒して皇位についた。内乱に功のあった宮廷内の宦官たちの中には、鄭和(ていわ、中国読みでヂョンハー、zheng4he2、1371?~1434?)がいた。
 1405年、永楽帝からの命令を受けた、鄭和をはじめとする大船団が、江蘇省太倉の劉家港から出航する。1407年秋、ジャワなどの朝貢使節を伴い、貿易取引で入手した数十隻分もある諸外国の貴重な品々を持ち帰り、初航海を終えた。その年の12月には、鄭和は2回目の航海に出る。航海ルートは初回とほぼ同じで、2年の歳月を費やした。
 1409年夏、鄭和は3回目に船団を率いて国外へ向う。この航海は、東インド洋に行く。マレーシアのマラッカに倉庫をつくり、海上貿易の中継地とした。1412年11月、明の成祖が4回目の航海の命令を下す。船団はさらに西へ向い、東アフリカ沿岸部にまで進出する。航海に要した期間はかなり長く、鄭和は1415年に帰国した。分遣船団が帰着したのはその1年後であった。
 1417年5月、鄭和の船団は5回目の遠洋航海に出る。この時の航海の主な任務は、帰国の途につく19カ国の使節を護送することであった。鄭和の船団は、東アフリカ海岸の最南端に到達した。1421年7月、鄭和の船団は6回目の遠洋航海に出る。その旅で、帰国の途につく16カ国の使節を護送した。鄭和の船団は東アフリカ海岸のケニアのモンパサ港、ソマリア、タンザニアなどに行く。
 イギリスの歴史学者ガビン・メンジース(Gavin Menzies、1937~)の航海記録を元にしコンピュータで航路を再現したという説によると、鄭和の指揮した1421年3月から1423年10月にかけての6回目の航海では、艦隊の一部がケープタウンを周って大西洋に進出し、カリブ海沿岸から、さらにカリフォルニア沖などにまで達していることが分かったいう。
 もしこれが事実であるなら、コロンブスが新大陸を「発見する」約100年も前にアメリカ大陸近くまで到達したことになるではないか。とはいえ、これには根拠となる史料が薄弱もしくは類推が過ぎるなど、批判も多い。ともあれ、この時の旅では、明の成祖皇帝・朱棣を代表して絹織物、磁器、鉄器などを贈り、1423年に帰港した。

(続く)

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♦️50『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(インダス文明)

2018-08-14 21:17:29 | Weblog

50『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(インダス文明)

 現在のバキスタンに当たるインダス川流域においては、紀元前7000年頃、農耕と牧畜の双方が始まった。冬作物としての麦と、夏作物としてのナツメを栽培した。インダス川の氾濫をうまく使ったのであろう。家畜として牛のほか、羊や山羊も飼育していた。牛は、荷を運んだり、田畑で鋤を引いたことであろう。
 紀元前4500年頃、メヘルガルなどの土地・バローチスターン丘陵麓において人々の集団での生活が始まっていた。土器や土偶が発見されている。これを「バローチスターン農耕文化」と呼ぶ。紀元前3000年頃になると、初期のハラッパー文化が栄える。そこでは、インダス文字の萌芽が見られる。解読はまだのようだが、トラヴィダ系の言語と推測されている。また、動物の角(つの)への信仰があったらしい。
 そして紀元前3000年頃、インダス文明が成立の時を迎える。モヘンジョ・ダロ、ハラッパー、カーリー・バンガン、ドーラビーラーなどに都市国家が栄える。インダス川流域(市流域を含む)と、これと平行して走るガッガル・ハークラー○河床を中心に、インダスが流れ込むアラビア海沿岸地域を加えた、かなり広範な地域(東西1600キロメートル、南北1400キロメートル)に遺跡が多数、散在している。
 1922年、R・D・バネルジーらによって、モヘンジョ・ダロの本格的発掘が着手される。ストゥーパの下から、動物と文字を刻んだ印章が出土した。約600キロメートル離れたハラッパーで発見されたものと似ていた。こうして発掘がなされていくにつれ、インダス文明の最盛期は、およそ紀元前2600~前1800年頃であったことが徐々に明らかになっていく。これらの遺跡のいずれもが、高度な計画を以て建設されていた。今日の都市のインフラストラクチャにも通じる。中でも水の利用が、他の古代文明にに比べ巧みであったようだ。モヘンジョ・ダロやドーラビーラーは、前者がインダス川下流域、後者がアラビア海沿岸近くのカッチ湿原というように、水が豊富にあったことが幸いした。ハラッパーの遺跡では、焼成レンガのふたがしてある排水溝が見つかっている。
 この二つの遺跡では、大規模な沐浴場が営まれた。水の供給ということでは、インダスの流れは古代から人々の心の拠り所であったのだろう。水は神聖なものとみなされていたらしい。その場が、儀礼のみで使われていたのなら、利用できる人は限られていたことになる。モヘンジョ・ダロでは、角のある人物のミニチュア・マスクも出土していることから、角への信仰は発展していた。モヘンジョ・ダロではまた、文字や印章の使用のあったことが認められる。
 これらの都市国家の活動領域はどのようであったのか、そしてどんな変化があったのだろうか。刮目すべきは、湾岸との交易が活発化していったことだ。地図を開くと、地勢もそんな可能性を与えている。アラビア海を西に伝っていくと、古代の中東・アラブ地域へと至るのだ。また東へ進めば、やがてインド洋へと手で行く。多くの隊商は、メソポタミアとの間を往復した。中継地点となりうる地形なのだ。かのメソポタミアの粘土板に「メルッハ(インダス文明)」の記述があることで、中東とも交易があったことが充分に窺える。メソポタミアからは、織物を持ち帰っていた。
 そのインダスの文明も、紀元前2000~1800年頃から衰退し始める。その原因については、一説には、「おそらく気候の変化による水面上昇と、それに伴う治水不備のためだ」(ジャレド・ダイヤモンド著、にれい浩一訳「文明崩壊・下」草思社、2005)ともいわれるのだが、その決め手となる史料は定かではないようだ。
 これまでに出土しているインダスの美術品のうちには、「男性トルソ」(ハラッパー)や「踊り子像」(モヘンジョ・ダロ)のような、ギリシャ彫刻を先取りするかのような写実性にあふれるものも見受けられる。人々の遊びの範疇では、サイコロやゲーム盤、動物の仮面などの玩具が見つかっており、単なる儀礼用とは考えられない。

(続く)

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♦️785『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ハンガリーの1970~1989)

2018-08-14 19:08:06 | Weblog

785『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ハンガリーの1970~1989)

 ハンガリーでは、1989年1月11日、政党結成をの自由を認める法律が成立した。
6月16日には、1956年のハンガリー動乱で処罰された人々の国葬が行われた。7月22日、指導政党以外の、1名の野党議員の誕生があった。9月18日、指導政党として国政を牛耳ってきた社会主義労働者党(共産党)の第14回臨時大会が開催され、社会党に党名を変更する。
 10月20~22日、ユヨフ・アンタルが民主フォーラムの議長に選出される。10月23日、国名が「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」へと変更される。11月26日、国民投票が実施される。その結果、民主的な選挙を実施した後、その議会が大統領を選ぶという案が採用される。そして迎えた12月21日、1990年3月に議会を解散し、多党制による選挙を実施するとの議会決議が行われた。

(続く)

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♦️787『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ルーマニアの1970~1989)

2018-08-14 19:06:25 | Weblog

787『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ルーマニアの1970~1989)

 ルーマニアでは、民主主義的改革に傾かない指導政党が、自由を叫ぶ民衆に敵対する動きになっていく。1989年12月17日には、ティミショアラにおいて、軍隊が群集に発砲する。約100人の死者が出たという。
 12月21日、ブカレストの集会でチャウシェスク大統領が立ち往生の有様となる。人々は、口々に彼の退陣を求めた。翌22日、大統領夫妻が共産党本部屋上よりヘリコプターで脱出すると、群集が怒る。12月25日、同大統領夫妻が逮捕される。ある種の「民衆法廷」にて、即決裁判で2人に死刑が宣告され、即執行される。
 その後は、マルクス・レーニン主義の政党の解体へと、なだれを打って進んでいった。

(続く)


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♦️783『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランドの社会主義の1989、経済面)

2018-08-14 13:03:00 | Weblog

783『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランドの社会主義の1989、経済面)

 新政権により、いわゆる「市場経済」が幅広く導入されていく。既に、戒厳令直後の1982年1月からの経済改革で、1988年からは中央統制を根本的に改め、市場原理へ全面移行(第二段階)する方針が出される。具体的には、経済運営や行政権限の分権化、地方自治体や企業への自主権の付与拡大が狙いだった。
 対外面では、1988年6月、ECとコメコンとが共同宣言に調印した。1989年1月には、私企業を国営木々洋と同等に扱うための「経済活動法」と、外国資本の100%出資を認める「外国投資法」を施行した。
 同年8月1日からは、食糧品は一部を除き政府の補助金をやめ、原則的に自由価格制となった。こうして食糧品価格の国家統制が撤廃されたことで、その平均価格は500%も上昇したという。
 これを境に、ポーランド企業は国際的な競争の波に晒されることになっていく。物価上昇は年率1000%にも達する勢いだった。ここに至り、グダンスクの労働者を中心に労働者の不満は高まり、また国民各層の生活不安も増して、政府に対する批判がますますま高まる。
 1989年10月、マゾビエツキ政権は新たな経済計画を発表し、その中で国営企業の民営化と、税制改革を打ち出す。また、対外面では前年のコメコンのEUとの協力決定に基づき、1989年にポーランドはECとの間で経済協力関係を構築していく。この路線を歩くことで、西側先進諸国に対し総額100億ドルの援助を求める。

(続く)

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♦️782『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランドの社会主義の1989、政治面)

2018-08-14 13:01:22 | Weblog

782『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランドの社会主義の1989、政治面)

 1989年1月18日の統一労働者党の中央委員会総会に於いて、自主管理労組「連帯」を再び合法化に道を開く労働組合の「複数主義」に関する決議を採択した。2月6日には政労使による円卓会議が開催された。これに参加したのは、政府、統一労働者党、官製労働組合のOPZZ(以上は体制側)、カトリック教会、「連帯」労働組合(以上は反体制側)であった。
 それから2ヶ月に及ぶ交渉を行ってから、4月5日には合意的文書に署名した。その主な内容は、①複数政党制の準自由な国会選挙の実施、②国会は二院制とし、最高立法機関は下院。下院に対し拒否権をもつ上院の創設、③大統領制の導入であった。ほかに、「連帯」労働組合の再合法化と経済改革が約束された。1989年4月17日には、「連帯」が正式に復権を果たした。
 1989年6月4日と18日、二院制の国民議会創設に伴う初めての総選挙が実施された。この1989年の選挙から、ポーランドは複数政党制による民主主義国家となった。ポーランド統一労働者党の一党支配終焉後の大改革により、今日では誰もが政党を立ち上げることができるようになる。立法府である議会は両院制で、下院(セイム)と上院(セナト)から成り立つことになり、下院議員は460名、上院議員は100名で任期は4年となっており、普通選挙・平等選挙・直接選挙・比例代表制・秘 密投票の原則によって選出される。
 この選挙での党派別の結果は次の通りであった。上院(定数100)は、市民議員クラブが99、無所属が1。下院(定数460)は、旧統一労働者党が173、統一農民党が76、民主党27、カトリック諸派23、市民議員クラブが161を獲得した。政権側は上院で惨敗した。
 初代の大統領には、1989年7月、上下両院合同会議においてウォイチェフ・ヤルゼルスキが選出された。彼の下で、1989年9月12日にはタデウシ・マゾビエツキを首相とする内閣が発足した。
 8月24日、「連帯」のタデウシ・マゾヴィエツキが下院で首相に任命された。9月12日には、4名の統一労働者党員を含むとはいえ、マルクス・レーニン主義を標榜しない政権が発足する。9月29日、一党制の暴力装置として活動してきたZOMO警察機動隊が解散された。1989年11月には、ウォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領が失脚する。
 そして迎えた1989年12月30日、国会は、共産政権たる党の指導的役割を規定した憲法の条文の削除と、国名を「人民共和国」から「共和国」に変更する憲法改正案を可決した。
 それと前後して、議会勢力としては、旧統一労働者党はポーランド共和国社会民民主主義(1990年1月に統一労働者党が名称変更しました。)と社会民主連合とに分裂し、それまで事実上「体制翼賛政党」であった統一農民党(1987年12月)、民主党(1988年10月)、カトリック諸派は独自色を強める一方、「連帯」を母胎とする市民クラブが院内会派として登場したわけだ。これにより、社会主義圏では初めての非共産主義勢力が中心となった政権が生まれた訳だが、その前途は多難と目された。

(続く)

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