393『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズム(イタリア、~1945)
イタリアは第一次大戦で戦勝国であったにもかかわらず、戦後の社会的混乱に見舞われていた。そんな状況を好機として、1921年、ムッソリーニの指導の下に「全国ファシスト党」を結成する。イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世は優柔不断で何が進行しているかを理解しておらず、翌1922年のムッソリーニに率いられるファシストたちの「ローマ進軍」にも対処できず、結果として彼らの政権掌握を許してしまう。彼らはその際、王制は存続させ、利用する道を選んだ。
1926年1月の「「法に代わる命令」に関する法」の第3条で、政府は、非常時や緊急事でなくても、かかる命令を発布できると記す。
同年4月、労働関係調整法が制定される。それには、一経済部門につき、一つの労働組合だけが認可され、労働組合の二役についても政府により認可が下される。公認組合の賃率協約は、同経済部門のすべての労働者に適用される。軍隊、郵政電信電話、国鉄そして教員は労働組合を結成できないし、ストライキやロックアウトといった資本側にダメージを与える行為は禁止される。
そして迎えた同年11月、イタリア・ファシスト党以外の政党の解散が命じられる。
さらに1927年4月には、ファシズム大評議会において全30条の労働憲章が採択される。その第9条には、「国家は個人の創意が欠けまたは不充分なとき、または国家の政治的利益がおびやかされるときにのみ、経済的生産に介入する」と記される。
1928年12月、ファシズム協議会は国家の最高機関となる。国会は、1929年3月選挙以降、全員ファシスト党議員によりなる翼賛議会になるも、それも1939年には廃止されてしまう。こうなると、議会というものはイタリア国からなくなったといっても過言ではなくなった。まさに、ファイストたちのやりたい放題となった訳だ。
そして迎えた1934年12月には、イタリア領ソマリアランドとの境界付近で紛争が起こる。ムッソリーニはこれを口実にアフリカ進出を企てる。その手始めとして、1935年10月、エチオピア(アビシニア)王国に軍事侵攻する。イタリアのファシストの軍隊は高地を突き進み、翌年5月には同国の併合を宣言する。エチオピア王国は、これに先立つ1935年1月、自国が今にも侵略されようとしていることに対して、国際連盟になんとかしてほしいと提訴を行っていた。
これに応えるべく、国際連盟は10月のイタリア軍侵攻後直ちにイタリアを侵略国として認定する。連盟規約第16条を初めて適用することで、経済制裁に踏み切る。
とはいえ、この制裁対象には、石油などの重要物資は含まれなかった。フランスイギリスは、連盟非加盟国にはこの措置が適用されない、したがってアメリカなどからは輸入できることをいい、禁輸は無意味であると主張する。また、この二国は国際連盟の枠外で和平案を立案するという体たらくであった。
これに力を得たファッショのイタリアは、1939年にはアルバニアを併合するにいたる。イタリア王といえば、エチオピアとアルバニアの両方の帝位と王位を兼ねることになる。こうして国王は単なる飾りに成り下がり、国民世論はむき出しの暴力を背景とした圧政に封じられ、イタリアはヒトラー・ナチスのドイツと同一歩調をとって、第二次世界大戦へと進んでいくのであった。
(続く)
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