♦️3『世界と人間の歴史・世界篇』銀河系外の別の銀河そして銀河団

2018-08-14 08:22:53 | Weblog

3『世界と人間の歴史・世界篇』銀河系外の別の銀河そして銀河団

 さて、私たちの住んでいる銀河の外側にある別の銀河ということでは、いろいろあろう。中でも、肉眼で垣間見ることのできる銀河に、アンドロメダ銀河(M31銀河)がある。この銀河の特徴として、私たちの天の川銀河系と同じような渦巻き状をしていることがある。
 もう一つの特徴というか、一般人にとっても何かしらの注意をひくこととして、実はアンドロメダ星雲は銀河系に近づきつつあると説明されている。例えば、物理学者の谷口義明氏の説明に、こうある。


 「ここでハッブルの法則に単位をつけて表すと次のようになる。
v(km/s)=HD(Mpc)
 したがって、ハッブル定数Hの単位はkm/s/Mpcとなる。
 ハッブル定数の値は、H=70km/s/Mpcである。
 ハッブル定数の値は、宇宙の膨張率そのものなので、この値は次のことを意味する。「宇宙の膨張率はMpc当たり70km/sである。」
 ここで銀河系とアンドロメダ銀河の関係を見てみよう。両者の距離は、250万光年なので、宇宙膨張の影響は(70km/s)×(250/326)=54km/sの相対速度を持つはずである。もちろん、プラスの値だ。


 しかし、アンドロメダ銀河の視線速度を測定すると、マイナス300km/sなのだ。つまり、遠ざかるのではなく、近づいてきているのだ。それは、両者の重力の影響が宇宙膨張の影響に勝っているため、両者は近づいてきているのである。」(谷口義明「天の川が消える日」日本評論社、2018)


 なお、ここに「pc」(パーセク)というのは、三角測量を応用した距離の単位で、天文学での距離を測る場合に用いる。1パーセクpcは、3.26光年。また、Mは10の6乗のことで、百万倍に当たる。
 これにあるように、アンドロメダ銀河は、私たちの銀河系から約250万光年の彼方にある。それは、銀河系の約2倍の大きさで、秒速300キロメートルの速さで銀河系に近づいている。このままいくと、およそ50億年後には銀河系の方がアンドロメダ星雲の中に吸収され、両者は合併するのではないか。
 ところが、物理学者が予言する「そのとき」はかなり違うのだという。同教授の講義では、こういう。

 「でも、もし君たちが生きていたとしても、その衝突には気づかないだろう。銀河はほとんど空っぽの空間だから、ぶつかっても星々はお互いの間をすり抜ける。ほとんどの星はぶつかることのないまま二つの銀河は合体して、渦巻き銀河ではなくなり、倍の規模の楕円形の銀河を形成する。でも、もしきみがその中の星の一つにいたとしても、数十億年もかかる合体のプロセスに気づくことはないだろう。」(クラウス教授の講義・宇宙白熱教室第一回「現代宇宙論」二〇一四年六月二〇日NHK放送より)


  かえすがえすも、人類には、未来へ向かって某かの予測を行うという能力があろう。その能力を拠り所に、今ではまだ全体の幾分さえもが見えていない、遠い未来を創造してみることが出来るのだ。

(続く)

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□31『岡山の今昔』江戸時代の三国(森藩)

2018-08-13 22:12:08 | Weblog

31『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(森藩)

 元禄期の美作はどのようであったのだろうか。ちなみに、森家は忠政の嫡男他が早世していて、二代目藩主には、養子になっていた長継(ながつぐ)が就任する。長継は、忠政の姉の嫁した関共成(せきともなり)の後継・関成次(せきなりつぐ)と森忠政の二女との間の長男にして、森忠政の養子となって養父の後を継いだ。三代目藩主には、長武がなった。彼は長継の次男であって、長継の長男・忠継がすでに死去したため跡を継いだ形であった。そのため忠継の子の長成が16歳での元服に長じると、長継は長武に働きかけて長成に家督を譲らせ、長成が四代目藩主になる。
 おりしもこの時代、5代将軍綱吉が1687年(貞享4年)発布した「生類哀れみの令」が生きていた。これは、発令の動機からして変わっている。綱吉にとって、自分にいまだに継嗣がいないのは、前世に殺生を多くした報いである、なので新たな子宝に恵まれるためには犬や馬、猫などに愛情を注ぐのがよい。特に将軍は戌年であるから、ことのほか犬を大切にすべきであると、このような説法を隆光僧正から受けたのがそもそもとされる。綱吉が大好きな儒学のどこをほじくり回して探しても、そんな教えはどこにも見あたらない。珍説といえるのだが、残念ながら、命を賭して主君をいさめようとする人材は幕閣にはいなかった。
 1695年(元禄8年)には、幕府はそれまでを上回る規模で犬小屋を建て、野犬などを収容する方針を打ち出す。この命が、時の老中、大久保加賀守を通じて、津山藩と讃岐の京極家に下る。相方の京極家は石高5万石であるからして、始から多くの負担を求められない。そこで、実際上は森藩がこの工事を請け負うことになる。中野(なかの、現在の東京都中野区)の犬小屋に到っては、およそ16万坪もの敷地に数万匹を集めたが、その一日の食糧は米330石、味噌10樽、干鰯10俵で、それらの煮炊きなどに使う薪も56束を要したらしい。
 彼は、以後1708年(宝永5年)までこの趣旨の布達を繰り返すという、はたから見ても「はばかりながら、なぜにそこまで拘られるのか」と言いたい程の執着ぶりであったろう。ともあれ、津山藩はなんとかこの工事を終える。しかし、この犬小屋普請により森藩の財政は大きく傾いたのであろう。
 そして迎えた1697年(元禄10年)旧暦6月20日、藩主の長成が27歳の若さで死去するという一大事が出来(しゅったい)する。その長成には、まだ跡継ぎが生まれていなかった。当時の武家諸法度は、4代将軍の家綱の時代、1651年(慶安4年)に、以下のように改訂されている。
 「五十歳以上以下養子願之事
諸大名らびに御旗本、諸物頭、御役人に至るまて召しにより登城仰せ付けらる。
一、御家人之面々、五十歳より内にて末期に及び養子之願仕り候者、その筋目(すじめ)により跡式(あとしき)御立成られ候。また五十歳以上にて末期に及び養子之願仕り候者、跡式御立成られ間敷旨(まじきむね)、上意之趣仰せ付けらる。」『徳川禁令考』二二六二号、前集第四、二五〇頁
 要するに、それまでの末期養子の禁止を緩和し、50歳以下の当主が急病危篤の際に末期養子を願い出ることを認める。そのことで、「慶長七年(1602)から慶安三年(1650)までの約五十年間に、末期養子の禁のために改易・減封(げんぽう)された大名は五十八家、幕府が没収した石高は四百三十万石弱にのぼる」(栗田元次『江戸時代史』上巻(初版、内外書籍、1947)近藤出版社復刻本、1976)にあって、それが所理喜夫編『古文書の語る日本史』第6巻江戸前期、筑摩書房、1989にて引用される)状況の改善に踏み出したのであった。
 そこで、長成の末子養子にと祖父の長継から推された関衆利(せきあつとし)に白羽(しらは)の矢を立てた。その衆利だが、2代長継の12男で森家家老の関衆之(せきあつよし)の養子に入っており、忠継や2代藩主の長武の兄弟、前藩主の長成の叔父に当たる。彼は、津山藩家老の要職(およそ6名体制の内)にあった。前述の1695年(元禄8年)旧暦10月から12月にかけての幕命による犬小屋普請に際して、衆利は当時23歳の総取締として重責を担う。
  その彼が本家の森藩の跡目を相続することになり、幕府に江戸に出向くよう呼ばれる。
要は、家督相続のため江戸に来て申し開きをせよの仰せであったことだろう。衆利と同藩の一行は、東海道のまだ半ばより手前、伊勢国桑名縄生村(名生村)までやって来ていた。
そのおり、宿にて「発狂失心」に陥り、「近習に斬りつけ負傷させた」ことが公(おおやけ)とされた。そのため、一行は桑名から江戸へ進発不能となってしまい、そのことが幕府の知るところとなる。
 どうしてそのような事態になったのかは、現在でもよくわかっていない。あるいは、その宿にて、どこからか重大な報せか命令を受けたのかもしれないし、津山に在るときからの内紛(とりわけ一門の間の複雑な事情があったのは否めない)が昂じて破局を迎えた結果であるのかもしれない。さらには、医師が衆利に朝鮮人参を大量に調合した薬を処方後、衆利本人の様子が急変したとも言われる。
 もしそうなら、これから行く先の江戸で、厳しい詰問に応えなければならないとしたら、その不安が精神にも介在した可能性は否定できまい。いずれにせよ、事の真相としては世間をはばかるものであったようで、そのため後々も関係者の口は固く閉ざされ、政治という藪の中に置かれたままになっていった感を否めない。

(続く)

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□53『岡山の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆・岡山県南部)

2018-08-13 20:56:31 | Weblog

53『岡山(美作・備前・備中)の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆・岡山県南部)

 当時、廃藩置県後の岡山県南部の磐梨郡、赤坂郡、津高郡、上道郡の四郡と、北條県だった美作の地でもいわゆる「血税一揆」が頻発したことは、そのことを物語っている。
 そもそも、「血税一揆」の「血税」たる所以は、遠くローマ時代に遡る。彼の時代の地では、市民の義務として兵役を課せられることを「血税」と呼んでいた。岡山県南の騒動が起こったのは、1871年(明治4年)のことで、大方は旧岡山藩の所領であったところだ。その騒動の発端は、同年11月25日(旧暦)、磐梨郡(その後大部分の地域は赤磐郡となり、現在の赤磐市に繋がる)であった。
 すなわち、同郡の国木宮(阿保田神社)に同郡内十か村の農民約5百人が結集し、集団での気勢を上げた。強訴にほかならない。農民達は何時や掛かりで、県当局への嘆願書をまとめる。この年に施行された「悪田畑改正」により、従来より年貢負担が重くなるケースが生まれていた。夏の水害の影響で収穫減が懸念されるなどもあったようだ。そこで、生活不安から、今年暮れに予定される年貢米の納入を3分の1に減らしてくれるか、またはこれに相応する助成の措置を講じてくれるように要求した。
 その三日後の11月28日(旧暦)になると、騒動は赤坂郡に拡大していく。こちらでも群衆は磐梨郡でのような嘆願書を提出する。彼らの一部は、打ちこわしへと暴徒化していき、同日の夕方になっても収まる様子はなかった。元山陽新聞社勤務の清野忠昭氏によると、29日(旧暦)の「このころ農民勢はおよそ三千人と報告されており、騒動は頂点を迎える」(清野忠昭「忘れられた農民一揆(2)ー明治四年県南四郡(磐梨郡、赤坂郡、津高郡、上道郡)騒動始末記ー」)という。さしずめ、燎原の火が広がるが如く、というべきか。
 その頃になると、岡山県当局も騒動が容易ならざる事態が進行しているとの認識に達したのか、説得を試みたり、捕縛に乗り出したり始めている。さらに、騒動は津高郡、上道の両郡にも広がっていき、先の二郡と同じような嘆願書が県当局に提出される。拡大を続けていた騒動が収束に向かうのは、津高郡の県当局との攻防において、「鎮圧隊の発砲で死者五人、負傷者四人(または五人)」(同)出てからである。官憲の圧力が俄然増してきたことにより、12月1日(旧暦)になると、赤坂郡を中心に3日間続いてきた未曾有の騒動も下火に向かうのであった。

(続く)

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○○225『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(佐賀藩)

2018-08-13 17:52:22 | Weblog

225『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(佐賀藩)

 佐賀藩の農政改革というのは、藩主の鍋島直正(なべしまなおまさ)が1860年代の初めにかけて、儒者古賀穀堂(こがこくどう)らの助けを得て行ったものだ。その内容は、多岐でいろいろあるが、その中心はつぎに紹介するような「均田制度」による農政の立て直しであった。ここに「均田制度というのは、これまで伊万里など都市の商業資本の手に集中していた土地の所有を、農民の手にかえしてやることであり、その地主としての作徳米収取を停止して、これを農民の生活の資にあてさせるという思い切った土地政策であったのだ。
 この均田制度を指して、これこそ完全な封建反動であり、古い隷農制への回帰であると説く人もいるが、しかし、これが貧弱な農民を救って、かけらの生産力を向上させたことはいうまでもないことである。問題はその形式にあるのではなくて、それが農民の生活に如何に働いたかということであろう。ともかくも、直正の小農民保護政策は、その断固たる意志において実行の緒についたのであった。
 しかしながら、それだけに農民に対する制限は厳重なもので、絹織物の禁止は当然のことながら、歌舞音曲の停止から、仏事神事に対する制限、そして酒を飲むことの禁止まで、代官所の厳重な見回りの下に励行させられていった。
 いや、そればかりではない。代官所の見回り、日没後の内職にまで干渉して、これを励行させたのである。怠惰なる者に対しては容赦なく、代官所手代の棍棒が降ってきたというから、相当なものであろう。これも、二宮尊徳が、工事などの監督に歩き、怠けている者があれば川の中に突き落としたという話とよく似ている。」(「日本歴史シリーズ16、幕藩制の動揺」世界文化社、1970所収の奈良本辰也氏の論文「鍋島直正と天保の改革」から引用させていただいた。)
 さて、私たちの故郷、当時の津山藩では、これより前、国学者の佐藤信淵(さとうのぶひろ、1769~1850年)を招いて藩政改革を相談したことになっている。彼は、宇田玄随の医学の門下生であった。藩命で帰る師匠について津山に行ったのが最初で、農学者として知られるようになってから、津山藩の招きに応じて津山にもしばらく滞在していたらしい。その時の彼は、「殖産興業」と、商業資本の活用で藩を立て直すことを持論としていた筈だ。わけても、施政者による商業資本の活用は流通過程からの収奪の可能性もあったのであろうが、その招かれた時何らかの具体的提言をもって津山藩の諸改革にどう影響を及ぼしたのだろうか、その詳細は明らかになっていないようである。

(続く)

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○○223『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(岡山藩、備中松山藩)

2018-08-13 17:51:02 | Weblog

223『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(岡山藩、備中松山藩)

 比較的豊かであったとされる19世紀半ばの岡山藩においては、その藩政は立て直しというよりは、それね含めての全体的な事業拡張というのが似つかわしい。
 19世紀に入ってから、それまでの新田開発、い草栽培などに加え、新たに岡山藩の産業を支えるようになったものに、織物業と製塩業がある。1860年代にもなると、児島郡の辺りでは、小倉織、真田織、雲斎織といって織物業が発達した。農民は「無高水呑百姓」か、5反にも満たない小百姓が多いことでは他藩の農民とさして異なるところはない。変わっているのは、副業の織物業で現金収入が見込めることであった。彼らは、自宅に織物の仕事場を設けるのが大方であったが、中には織物機を多数備えて、まとまった仕事場を提供する機元(織元)も次々に現れた。同藩は、それらの織物の売買をさせる問屋を認定した。その上で、各機元にはそれらの問屋に作った織物をもっぱら卸すことを命じ、安定した運上金を手にしたのであった。
 児島郡の南部においては、文政・天保期になって、古くは奈良期から細々と続けられてきていた製塩業が、藩の庇護を受けて規模を大きくしていった。中でも、塩浜地主であった薪問屋の野崎武左衛は味野村と赤崎村の沖合に49町歩の野崎浜を築いた。これに習って、近くの地主たちもこぞってより大きな塩田を営むようになっていく。その中からは、塩田主から塩田を借り受け、人夫を雇い入れて製塩業を営む産業資本家も現れる。
 彼らは、製塩のための薪や石炭を買い入れ、作った塩を全国に売った。全国に販路を広げるということは、そのための航路なり、寄港地の繁栄も約束していく。また、商いや事業の拡張のための新しい資金の借入れも必要となり、金融も発達していく。あれやこれやで波及効果が現れることになって、児島の港や町は賑わいを増していくのであった。 
 この期の藩政改革のめずらしいところでは、農民の生活にも目を向けた改革が登場する。中でも、備中松山藩の藩政改革と、佐賀藩が行った農政改革は特記に値する展開を見せた。というのも、小農民の、その多くは「水呑百姓」とか呼んで十把一絡げにする風潮があるが、その置かれている実体は、この藩でも悲惨であったことだろう。そこへ、この両藩では、真っ向からこの問題に取り組んでいったことに特色がある。
 備中松山藩では、1849年(嘉永2年)、新藩主・板倉勝静(いたくらかつきよ)が登場する。そうなるいきさつであるが、藩主板倉勝職(いたくらかつつね)は、1842年に伊勢桑名藩から、藩主松平定永(まつだいらさだなが)の八男である寧八郎を婿養子に迎える。これが勝静で、22歳にして才気に溢れていたという。彼は、さっそく家臣の儒学者にして、陽明学者山田方谷(やまだほうこく)に、同藩の元締役(財務の責任者)兼吟味役を任命した。陽明学は、中国宋の時代の王陽明が拓いた学問で、儒学に基礎をおきつつ、実利を重んじるところが特徴である。山田は苦労人で、40歳になっており、すでにこの二つの学問の大家として知られる。そして、勝静の学問の師になっていた。
 その山田が最初に取り組んだのが、藩の抱える負債の整理であった。なにしろ、収入が約二万両のところへ支出がざっと5万両であったといわれ、支出のうち1万3千両が借金の利息に消えていたようである。借金は、大坂、松山、江戸に散らばっていた。1850年(嘉永3年)の春、彼は債権者の多い大阪に向かった。これからすると、大坂に出掛ける前から、相当の自信があったらしい。そして、かれらを前にして行った説得がなにしろ奮っていて、これまでの備中松山藩の財政状況を正直に説明し、借金10万両の猶予を申し入れたのに対し、商人達は利子の免除、最大50年の借金棚上げを承認したのであった。 なぜそうなったのかというと、山田は借金は必ず返済する、踏み倒すつもりは毛頭ないとしながら、その猶予だけでなく、新規事業を立ち上げることでの財政再建計画を示したからだと考えられる。こうして利にさとい債権者たちの大方の同意をとりつけた山田は、1851年(嘉永3年)の『存寄申上候覚』」には、こうある。
 「御年限中成行き候へば、七ヶ年に御借財は凡四万両の払込と相成り、御借財半方の減と相成り申す可く候。其の節に至り候へえば、又別の手段を以て、御無借同様に仕り度き愚案仕り居り候。其の節、私身分何方へ退転罷り在り候共、今一応御呼出下され、御相談仰せ付けられ候へば、愚存申し上げ度く存じ奉り候事。」
 それからの山田は、心ある仲間とともに藩としての新規事業の立ち上げに邁進した。1854年(安政元年)には、彼は藩の「参政」という最高職に就任する。財政再建の主力は、この地に産する豊富で良質の砂鉄を使って、この地にタタラ吹きの鉄工場を次々につくり、そこでえたたたら鉄を使って釘、刃物、鍋、釜、鋤、鍬などの農具や鉄器を製造した。当時の人口の80%を占める農家相手の農具としての備中鍬を商品開発した。備中鍬は、3本の大きなつめを持ったホークのような鍬である。これは、従来の鍬に比べて、土を掘り返すのに深く掘ることができ、これが客足がとだえることのない程の大ヒット商品となった。
 また、藩内の商品作物づくりに精を出した。タバコ、茶、こうぞ、そうめん、菓子、高級和紙などの生産が手掛けられた。その特産品に「備中」のネーミングで売り出した。しかも、他藩の専売制で生産者の取り分を奪うことをせず、生産者の利益が出るように、藩は流通上の工夫によって利益が上げるように立ち回った。販売方法も苦心し、領内の産物をいったん松山城下に集荷し、そこから問屋を通じて高瀬舟で松山川(現在の高梁川)を玉島港に運び、そこから自前の運送で船を仕立てて江戸を目指した。そして、板倉江戸屋敷で江戸や関東近辺の商人を中心に直接売りさばく販売方法を確立したのであった。これらの産業創成策は、藩内にじわじわと浸透していき、それに応じて藩の財政も改善していくのであった。
 山田は、その後の1868年(明治元年)に64歳で引退するまで、その要職にあったとされるので、文字どおり藩の財政を立て直した救世主と考えてもよいのかもしれない。
 引退してからの彼の詩の一つには、こうある。
「暴残、債を破る、官に就きし初め。天道は還るを好み、○○(はかりごと)疎ならず。
十万の貯金、一朝にして尽く。確然と数は合す旧券書」(深澤賢治氏の『陽明学のすすめ3(ローマ字)、山田方谷「擬対策』明徳出版社、2009に紹介されているものを転載)
 彼ほどの不屈の精神の持ち主が、いかに幕府の命とはいえ、10万両もの貯金を食いつぶしてしまったことへの悔悟の念が、心の底に巣くい、沸々と煮えたぎっていたものと見える。

(続く)

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○○222『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(薩摩藩)

2018-08-13 17:48:05 | Weblog

222『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(薩摩藩)

 19世紀も30年代にさしかかっていた薩摩藩の財政は、かなり前から出費がかさんでいた。一説には、500万両の借金を抱えていたという。藩財政を立て直すべく、1832年(天保3年)に、調所広郷(ずしょひろさと、1776~1849)を家老格に任じる。大権を手にした調所が行ったのは、債権者たちに藩の借金を負けさせるどころか、その大半を棚晒しもしくは大幅にまけさせることであった。「250年の年賦での返済、および無利子返済」を打ち出し、商人たちに通達した。これは、なかばは「踏み倒し」を目したものともいえよう。
 そして調所が藩主の権威を借りてなしたのは、税収の向上の施策を手広く講じることであった。そんな中でも、奄美大島(あまみおおしま)産、徳之島産の黒砂糖の藩による専売強化を図ることだった。 
 ここで薩摩藩における琉球国との関係をひもとくと、これがなかなかに複雑なのだ。そもそもの1609年(慶長14年)、琉球王国は島津氏から攻略された。この国は、その後も日本とは異なる独立国には違いないのだが、中国との朝貢(ちょうこう)関係は続けていた。江戸幕府の体制下に組み込まれてからの琉球王国には、「在番奉行所」(御仮屋(うかりや))と呼ばれる薩摩藩からの出先が設けられていた。その琉球の那覇の湊に、1853年(嘉永6年)旧暦5月、ペリー艦隊がやってきた。
 首里城に入ったペリーは、石炭貯蔵庫の設置などを要求した。その翌年の1854年(嘉永7年)、琉球国はアメリカとの修好条約を結んだ。そればかりでなく、薩摩藩の島津斉彬(しまずなりあきら)が、「奄美大島と沖縄の運天港を開港させ、フランスから軍艦と最新鋭の銃を、琉球を介して購入する計画を立て、両者間でこの取引は成立」(喜納大作・上里隆史「琉球王朝のすべて」河出書房新社、2015年に改訂新版)したものの、斉彬の急死で計画が中止になったいきさつもある。
 話を戻して黒砂糖の専売をいうと、財政改革の切り札として徹底的な管理体制を敷いた。次いで、琉球を通した清国との貿易を盛んにした。
 それらのかいあってか、1840年(天保11年)の頃、薩摩藩の財政再建はほぼ完了したといわれる。調所が大役に抜擢されてから13年の歳月が流れていた。ところが、1848年(嘉永元年)幕府に薩摩藩が密貿易をしていることを咎められ、調所はその責任をとらされ服毒自殺した。こうして彼の犠牲の上に、薩摩藩は力を温存できた。

(続く)

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○○221『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(長州藩)

2018-08-13 17:44:25 | Weblog

221『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(長州藩)

 この時期には、全国の三百諸藩の藩政改革が盛んに行われた。長州藩では、天保期の初年、1830年(天保元年)に大規模な農民一揆が起こる。それは、翌年まで続き、防長二国の全域に広がった。この一揆が掲げたスローガンに「藩営専売の廃止」があり、藩が藍や櫨などの主要な産物の流通を独占したことに反対したのであった。これだと、農民としては、強制的に買い上げられるのであるから、利益は見込めなくなってしまう。こうした一揆はその後も藩内のそこかしこで頻発した。また、藩としての商業資本への借財も、「両に換算しておよそ二百万両、藩の年収の二十二倍」(松浦玲「藩政改革」:「幕藩体制の動揺」:日本歴史シリーズ16、世界文化社、1970に所収)の厳しい財政状況であった、とされる。
 長州藩においては、1831年(天保2年)、藩を揺るがす大一揆が勃発する。襲撃されたのは、村役人と特産物の買い占めで暴利をむさぼっていた商人達だった。長州藩は、財政再建策の一つとして産物会所を作り、彼らに特産物の売買を独占的に許したが、その改革案に民衆が抗議の一揆を起こしたのだ。藩から特権を与えられた商人と農民との間で利権を巡る争いが起き、これが領内全土に広がったのだ。この一揆は、一説には十万人を超える農民が参加した。一揆の鎮圧とその後の復興に莫大な資金を投入せざるをえない状況となった長州藩は再び財政難に陥る。
 このようなとき、毛利敬親(もうりたかちか)は家督を継ぎ、十三代藩主となる。彼は、よいと思われる話があると、「そうせい」というのが口癖であったとか。たしかに「凡庸」な性格であったかもしれないが、それでいて、先取の気風があったのではないか。長州藩は、この時大いなる決断をした。1838年(天保9年)、中級武士だった村田清風(むらたせいふう、1783~1855)を抜擢し、藩政改革を命じた。村田はこの時、56歳を数えていた。
 この頃の長州藩は多くの負債があり、就任した村田はこれを「8万貫の大敵」と呼んで、解消を目論む。その手段として、驚くことになんと村田清風を中心に、商人達に向かって借金の棒引きと要求したのであるが、それがなんとかうまくいったようだ。
 1842年(天保14年)になると、村田は「三七ヵ年賦皆済仕法」を出した。これは、藩債については、元金の3%を37年にわたって返済すれば、皆済とする一方的な返済案だった。また、藩士の借財についても、藩がいったん全部肩代わりすることとし、同様の条件での返済をすることにした。
 村田は、下関という場所の重要性にも着目した。この頃、下関海峡は西国諸大名にとって商業・交通の要衝であった。そこで白石正一郎ら地元の豪商を登用して、越荷方を設置した。越荷方の「越荷」とは、他国から入ってきた荷物のことである。これを扱うべく、藩が下関で商人などを束ね、運営する金融兼倉庫業を営む。
 具体的には、他国船の越荷を担保に資金を貸し付けたり、越荷を買っては委託販売をした。しかし、この仕法は、藩士が多額の借金をしていた萩の商人らに反発を受けた。また越荷方を成功させたことで、大坂への商品流通が減少したため、幕府当局からの横槍が入り退陣に追い込まれた。藩が専売していた特産物の売買を商人に認めるかわりに税を課すことで、藩としても収益を上げていく。
 村田はこれらの政策実行で、紙、蝋、米、塩の生産強化を行い、専売制の手直しを始めた。それに、藍の統制廃止や木綿の流通自由化に踏み出した。さらに藩内の豪商に対しては、責任を持たせて他藩の貨物や船舶相手の運賃稼ぎや資金の融通するという施策を行った。これらが効を奏する形で、藩の財政はしだいに好転を始めていく。これらのうち蝋、米、塩は「三白」(さんぱく)と呼ばれた。「三白」のうち蝋は、櫨(はぜ)の実を原料とする。紙に劣らぬ産業にと育成策が取り組まれる。不毛の山野や畑の畦(あぜ)などの閑地を選んで櫨の植林を増やすようにと、農民を激励するとともに、「鯖山製蝋局」による統括体制が整えられていく。
 そして迎えた1841年(天保13年)には、長州藩の積年の3万貫の負債を減らすことに成功した。また、清風の改革は財政再建だけでなく人材登用や教育の面でも効果をあげるが、逆風も吹き荒れていたらしい。中級以上の藩士を中心に改革に反対する勢力の台頭があった。それに持病の中風の悪化により、63歳の村田は、坪井九右衛門(つぼいくえもん)にその座を譲る。村田は、生家である三隅山荘に帰り、隠居した。それからも、人材の育成には熱心であったようで、三隅山荘に開いた私塾、尊聖堂は多くの子弟達で満ち溢れていたという。

(続く)

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♦️4『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系外の恒星への旅は可能か

2018-08-12 21:43:12 | Weblog

4『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系外の恒星への旅は可能か

 恒星というのは、自ら燃えて輝いている星のことをいう。それでは、太陽のすぐ隣の恒星というのは何であり、どれくらい離れたところにあるのだろうか。
 その名を、一般には、ケンタウルスα(アルファ)星という。これでくくられるのは、「ケンタウルスα(アルファ)A」と「ケンタウルスα(アルファ)B」という二つの恒星から鳴る、つまり連星としてである。この連れだって見える二つの星は、さらに離れたところにあるケンタウルス座プロキシマ星とも連星をなす。そして厳密には、このケンタウルス座プロキシマ星こそが、私たちの太陽系から最も近い恒星なのだ。
 その距離といったら、「たったの4.37光年」とも言われるのだが、光がおよそ4年と4か月かかってはじめて到達できる。光の速さは、ざっと秒速30万キロメートルだから、4.37光年は、約41兆キロメートルということになる。この距離の大きさは、人類にとっては簡単なことではない。
 それというのも、人類がそこに到達するためにロケットを打ち上げたとしよう。用いるロケットの推進力としては、ざっと化学エンジン、イオンエンジン、スイングバイといって引力を逆手にとって利用することでの加速などが話題に上る。しかし、それらのどれもが気の遠くなるような距離なのであって、まともな話として唯一成り立つのは、「けたちがいのエネルギーとしての「レーザー核融合推進」」くらいであるという。
 いったい、核融合というからには、何が必要かというと、それは「ミニ太陽」そのものだということにもなりかねない代物であって、しかもその燃え具合なりを制御することが必要だ。これを「夢物語」と受け取るかどうかは、目下のところ、専門家でも千差万別といったところであろうか。 

(続く)

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♦️2『世界と人間の歴史・世界篇』銀河系

2018-08-12 19:40:47 | Weblog

2『世界と人間の歴史・世界篇』銀河系

 ビッグバンからどのくらいかの時間が過ぎていき、私たちが「銀河」と呼んでいる巨大な渦状の天体が数多く形成されていった。一つひとつの銀河には、1000億単位とも言われる極めて多くの星(恒星、惑星など)が含まれている。その一つひとつの出来方については、今のところ2つの説が出されている。

 まずは円盤仮説だが、そのあたりに漂っていたガスとダスト(塵芥・ちり)を主体とした星間物質(せいかんぶっしつ)が、重力によって回転円盤状に集合していった。これらの物質の広がりには濃淡があった。その濃い部分は重力が大きいため、ますます多くの物質を引きつけて次第に大きくなっていった。互いにばらばらな動きを呈していた物質が、衝突を繰り返しながら反名対方向の力を打ち消し合っていく。

 そのため、回転円盤状の所々にできた球体は緩やかに回転を始める。そして回転円盤状の中心部では、一つの恒星が原子の太陽として輝き始め、周辺部には地球を含む幾つもの惑星ができていった。
 あるいは、それらの星間物質が互いの引力で徐々に集まっての、直径10キロメートル程度の微惑星が出来る。次いでそれらがしだいに多数集合して、同じく原始の太陽系円盤の中で原子の太陽、そして原始の惑星の大きさへと拡大していったのではないか、とも考えられており、こちらを微惑星説という。

 これら両説のいずれにせよ、今日までにわかっているのはあくまで「それらしき」ということであって、大いなる仮説に基づいて全ての事柄が述べられていることに変わりない。この一連の出来事は、約46億年前のことであったろうと推測されている。
 宇宙におけるフィールドとは、空間、時間、そして物質のことである。その大きさはどのくらいであろうか。一般に、この渦巻きをした銀河(galaxy:ギャラクシー)は1億から1兆個もの星から成り立っており、その銀河が多数集まって銀河群・銀河団となり、それがまた多く集まって超銀河団になるというように階層構造が広がっている。その全体が宇宙だと言える。
 そこで、この渦巻き銀河を上から見ると、どうなっているのだろうか。アンドロメダ座の近くに肉眼で見える、「M31」と呼ばれるアンドロメダ銀河を例に挙げたい。すると、渦巻き形を形成している星の大集団を横から見ると凸レンズ状に見える。1924年、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブルによって、それまでは私たちの銀河系の一部だと考えられていたのが実は別の銀河であり、それは天の川銀河と隣合わせであることが発見された。
 私たちの銀河系に含まれる星の数は、およそ1000億個と見積もられる。それらの集合は、ディスク(円盤)に見立てることができるだろう。その直径は、約10万光年だと言われる。ここに1光年は1年の間に光が進む距離で、約10兆キロメートルを表す。およそ10京キロメートルある訳だ。ディスクの厚さは約1000光年ある。バルジとは、膨らみや樽の胴部分のことで、銀河系中心の盛り上がりをいう。このバルジを入れたディスクの厚さは1500光年位ある。いずれにしても、大変平べったい形をしている訳だ。その真ん中は実に沢山の星が密集していることから、まるで目玉焼きの黄身のように盛り上がっている。
 その銀河の渦巻きの外延部に近い部分、そこを川底に見立てて、我が身を置いたとしよう。そこから「天の川銀河」(銀河系の別名)を見上げてみる。すると、天の川は夜空をぐるりと一周するようにして繋がっている。が星が集結している部分と、星がまばらになって見える部分とが分かれている。渦巻き銀河の中で星が一番集結しているバルジには、恒星集団が密集していると考えられている。外側まで広がっている円盤構造の部分に対し、こちらは厚さ方向に丸いというよりは、楕円体のような広がりをしている。
 このバルジは、「巨大なブラックホール」で満たされていると考えられる。それは、例えば物理学者の高梨直紘(たかなしなおひろ)氏によって、比較的私のような者にもわかりやすく説明されている。少し長くなるが、引用させていただきたい。
 「赤色巨星になった後の星の運命は、星の重さによって2つに分かれます。太陽の重さの8倍よりも軽い星は、星をつくっていたガスが宇宙空間に放出されていき、惑星状星雲と呼ばれる段階を経て、最終的には星の芯の部分だけが残ります。これが白色矮星(はくしょくわいせい)と呼ばれるものです。白色矮星では新しく核融合反応は起こらないため、基本的にはそのまま少しずつ冷えていき、最終的にはまったく光らない星となると考えられています。
 太陽の8倍を超える重い星の中心部はさらに縮まっていき、星全体はさらに大きく膨らみます。そして、最終的には星の中心核が融けて圧力を失い、星全体が中心に向かって崩れ落ちる重力崩壊と呼ばれる現象を起こします。これが重力崩壊型の超新星爆発です。星をつくっていたガスの多くは宇宙空間に吹き飛ばされ、超新星残骸となります。
 一方、星の中心部には中性子星あるいはブラックホールが形成されます。中性子星も白色矮星と同じく、時間の経過とともにエネルギーを失っていき、最終的には光を放たない天体になると考えられています。ブラックホールも、特に外部からの刺激がない限りは、そのまま大きな変化は起きません。」(高梨直紘「これだけ!宇宙論」、秀和システム、2015)
 なぜそこにブラックホールがあるのかという問いかけに、クラウス教授は次のように言われる。
 「とても忍耐強い天文学者がこの星々のちょうど真ん中あたりをみつけ続け、星々の軌道を観測した。すると、星がある暗い物体のまわりを回っていることがわかったんだ。この物体の質量をきめるのには、きみたちもこれから直ぐ好きになるニュートンの万有引力の法則を用いた。こうしてその物体がまわりに星を引き寄せていて、太陽の百万倍の質量があることがわかったんだ。とても小さく、光を放つこともなく、太陽の百万倍の質量を持つという事実から、われわれはブラックホールだと考えている。・・・・・もちろん、それが見えないことは残念なことだ。もっとさまざまな観測を重ねて、それが本当にブラックホールかだといえるのかを見極めたいと思っている。ブラックホールは密度が高すぎて、光さえ逃れることができない。脱出するには光より早い速度が必要なんだ。」(クラウス教授のアリゾナ大学での、社会人らを相手にした講義・宇宙白熱教室第一回「現代宇宙論」二〇一四年六月二〇日NHK放送)
 そのブラックホールのあるところでは、「中心部を取り囲むように、「事象の地平線」と呼ばれる半径がある。事象の地平線の内側では、ブラックホールから脱出するために必要な速度が光の速度よりも大きくなるため、古典物理学によれば、なにものもそこから逃げ出すことはできない。したがって、事象の地平線よりも内側で放出されれば、光でさえも、ブラックホールの外に出てくることはない」(ローレンス・クラウス著・青木薫訳「宇宙が始まる前には何があったのか」文藝春秋刊)と考えられている。

(続く)

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□220の1『岡山の今昔』岡山人(20世紀、吉野善介)

2018-08-12 09:36:33 | Weblog

220の1『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(20世紀、吉野善介)

 臥牛山(がぎゅうさん)の4つの峰(北野方から大松山、天神の丸、小松山、前山)をも含め、このあたりの山々は、豊富な植生でも知られる。中でも臥牛山の前山は、「十分に散策可能であって、生態観察に適している」(宗田克己「高梁川」日本文教出版、岡山文庫59)とのこと。これを喧伝(けんでん)した人に、吉野善介(よしのぜんすけ、1877~1964)がいる。
 彼の生業(なりわい)は薬種商であった。植物の生態観察に必要な根気と愛着を持ち、1928年(昭和3年)には往年の散策ならぬ探索で培った知見をもって「備中植物誌」を著した。中央の専門家の知遇も得ていたようで、助言や讃をよこしてもらっている。本人の語りは、いかにも植物愛好家であるらしい。
 「此小著は備中国に自生する顕花植物と羊歯植物とを自然分科の下に列記したもので各科に於ける種類の排列は学名の「アルファベット」順に依って居る。備中国は山陽道の中部の稍(やや)東寄りに位する東西約そ九里南北約そ二十里略長方形をした国で、北は中国脊梁山脈を隔てて伯耆国に接し、西は備後国に隣り、南の一方は瀬戸内海に瀬している。
 国内は備中山脈の支脈が縦横に連亘し、其間国の中央を北より南へ貫流する高梁川とこれに注げる数多くの支流とが各処に峡谷を作り、南部に於ては狭い沖積平野を成している。他勢、南より北へ向かって次第に隆まり、国の北端なる阿哲郡の北境には八百「メートル」及至一千「メートル」位な山々が起伏し、其最高点は伯耆国に跨れる花見山で標高一千一百八十八「メートル」と成っている。
 予は郷里、上房郡高梁町(国の略中部に位し、高梁川の東岸に在りて四五百「メートル」内外の峰巒(みね)に囲まれて居る)を中心として多年植物を採集したが何分業余の道楽仕事なので存分の調査も出来ず従って其れも郷里に近い処程詳密な代り遠いだけそれだけ疎略になって居るのを免かれない。今後もっと広く阿哲北境や深山幽谷や南備沿海地方などを捜したならば此目録に漏れた多くの種類が見付かるであろうと思う。予は備中植物の調査取りも直さず日本「フロラ」の開明の為めに熱心なる斯道研究家の出で、予の蒐集の上に幾多の増補刪訂を加えられんことを切望する。」
 これに収録する植物は1370種に及ぶ。吉野本人の発見した新種も40種を超えているようで、インターネット配信でこれを探索することができるのは幸いだ。彼が歩き回っていた備中の山々の群像とともに、かかる山への憧れを故郷の、後の世代に伝えないではおかないであろう。彼自身は、これに没頭することで、自然から人生の、大いなる楽しみをもらったのではないだろうか。
 世に岡山民謡、それでいて「中国地方の子守歌」と流布されているものは数々あっても、今でも歌い継がれている、有名なものは一つになっている。その歌詞には、こうである。
 「(一)ねんねこ/しゃっしゃりませ/寝た子の/かわいさ/起きて泣く子の/ねんころろ/つらにくさ/ねんころろん ねんころろん、(二)ねんねこ/しゃっしゃりませ/
きょうは/二十五日さ/あすは/この子の/ねんころろ/宮詣り/ねんころろん/ねんころろん、(三)宮へ/詣った時/なんと言うて/拝むさ/一生/この子の/ねんころろん/まめなように/ねんころろん/ねんころろん」
 原曲は「ねんねん守の歌」といって、矢掛から井原にかけての旧山陽道周辺にて、少なくとも江戸時代から土地の人々によって歌い継がれていた。この子守唄を改めて世に出すのに貢献したのは、二人いる。着目したのは上野耐之(うえのたいし、1901~2001)であって、後月郡高屋村(現在の井原市高屋町)に生まれた。声楽家になることを目指し上京していた。1928年(昭和3年)、恩師である作曲家に山田耕作に、幼い頃母よりずっと聞かされていた子守唄を披露したらしい。おそらくは、私の故郷にこんな子守唄がある、今や消えかかっています、ということだったのでないか。

 これを聞いた山田は大層喜んで、その場で五線紙に採譜し、とてもいいメロディーだから伴奏をつけて、歌曲にしてみようということになった。同年の4月には、編曲が成って「中国地方の子守唄」として発表した。広く歌われるようになったのは、やはり、この山田の力によるとろが大きいのだろう。この子守唄は、後にテノール歌手となった上野がクリスチャンであったため賛美歌風になっていることから、現在も地元の「元歌保存会」によって歌い継がれているという。

(続く)

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♦️294『自然と人間の歴史・世界篇』フロイトとユングとアドラー

2018-08-10 21:12:24 | Weblog

294『自然と人間の歴史・世界篇』フロイトとユングとアドラー

 ジークムント・フロイト(1856~1939)は、オーストリアの精神医学者にして、精神科医であった。伯爵領の毛織物職人としてのユダヤ人の家庭に生まれ、17歳でウィーン大学に入る。同大学医学部のエルンスト・ブリュッケ生理学研究所に入り、1881年に卒業。その後は、医者として働きながら、医学を中心に幅広く研究を続ける。やがて、ユング、アドラーと並ぶ近代心理学の創始者の一人(「巨匠」)として、広く知られるようになっていく。
 フロイト心理学の特徴としては、「無意識」の世界が意識に与える影響を重視することにあったが、そのことは哲学へも影響を及ぼしていく。錯誤について取り上げたフロイトは、こういう。  

 「 この実例によってわれわれの考えている心理学の意図のいかなるものであるかがおわかりになると思います。われわれは現象をただ記述したり分類したりしようとしているのではありません。現象を心の中のいろいろな勢力の角逐のしるしとして捉えること、すなわちときには協力し、ときには対抗しながら、ある目的を目ざして働いているもろもろの意向の現われとみたいのです。われわれは心的現象の力動的な把握を求めているのです。」(「精神分析入門」

 晩年の彼はまた、異分野にも発言するのをためらうことがなかった。こういう。

 「民族の子孫たちが最大の存在と見なし誇りに思っている人間に対して不遜な論難を加えるなどということは、決して、好きこのんで、あるいは軽率に企てられるべきではない。とりわけ、自身がその民族に属している場合はなおさらであろう。しかしながら、いわゆる民族的利益のために真理をないがしろにすることは、そのような先例があるにもせよ、避けるべきである。さらに、事態の解明によって、われわれの認識の深化に役に立つ収穫が、実際、期待されてもよい。」(「モーセと一神教」筑摩学芸文庫)

「このユダヤ人を創造したのはモーセという一人の男であった、と敢えて言ってもよかろうと思う。ユダヤ民族は、その強靭な生命力を、また同時に、昔から身に受けいまもなお身に受け続けている周囲の敵愾心のほとんどすべてを、モーセという男から受けとったのだ。」(同)

(続く)

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♦️293『自然と人間の歴史・世界篇』ドビュッシー

2018-08-10 10:54:41 | Weblog

293『自然と人間の歴史・世界篇』ドビュッシー

 クロード・ドビュッシー(1862~1918)は、フランスはパリのサンジェルマンアンレに生まれた。パリ国立音楽院に学んだ。その後の1884年、ローマ大賞を得てローマに留学する。印象派の画家たちと盛んに交友した。性格など身の回りは、少々、型破りなところがあったようだ。そのかいあってか、音楽に「印象主義」を持ち込み、20世紀からの現代音楽の潮流の扉を開いた人物として知られる。
 ピアノ曲では「月の光」、「アラベスク」、それに「喜びの島」などの名作を発表する。「描写的表題」とでもいおうか、曲名には繊細な工夫が見られよう。管弦楽のための曲としては、組曲「海」、「夜想曲」など。女声と管弦楽のための曲「選ばれし乙女」、一つの弦楽四十重奏曲、いつくかのソナタとラブソディをつくった。他に、印象主義的といわれるオペラ「ペレアスとメリザンド」もあって、幅広い。
 これらの曲の中では、何とはなしに色彩の世界に入ったかかのよう。その種のことを何かしらいいたいのであろうか、本人は、こう書いている。
 「音楽とは、堅苦しく伝統的な「形式」には、本質的に収まらないものだ。音楽とは、「色彩」と「律動のある時間の流れ」によって構成されるものだ。」(1907年の友人ジャック・デュラン宛の書簡から一部抜粋)
 音楽史家のH.M.ミュラーに、こんな解説がある。
 「音楽における印象主義は、次にあげる方策を組み合わせて使うことで性格づけられる。(1)新施法性の使用nemodality、(2)5度と8度の解散、(3)和音進行における平行進行とその他の新機軸、(4)全音音階、(5)9度の和音の広範な使用、(6)形式の曖昧さ、(7)自由なリズムと小節線の軽視、(8)流れるような旋律線、(9)スペイン風の効果、(10)広い音間とピアノの極端な音域の使用。」(H.M.ミュラー「音楽史」東海大学出版会、1976)

(続く)

 


♦️292『自然と人間の歴史・世界篇』ニーチェの「超人」

2018-08-10 08:07:00 | Weblog

292『自然と人間の歴史・世界篇』ニーチェの「超人」

 19世紀末の文壇に雄々しく現れたフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844~1900)は、プロイセン(現在のドイツ)ザクセン州の生まれであった。ボン大学、ライプチヒ大学で古典文献学を学ぶ。スイスのバーゼル大学の員外教授を務めた。後に、フリーのライターになった。晩年は精神錯乱に陥り、ワイマールの精神病院で死んだ。
 「悲劇の誕生」(1872)、「ツァラトストラはかく語りき」(1883~1885)、「善悪の彼岸」(1886)など多数の著作がある。
 これらにあるのは、キリスト教道徳を批判するのが一つ。とどのつまりは、「神は死んだ」という。二つとしては、ならば現代に生きる人間はどうするかと問い、自己克服の象徴としての「超人」を持ち出す。

 彼は、こう記している。「わたしはお前たちに超人を教えよう。人間は超克さるべきものである。(中略)人間は、動物と超人との間に張られた一本の綱だ。(中略)人間において大いなるところは、彼が橋であって、目的ではないことだ」(「ツァラトゥストラはかく語った」浅井真男訳)

 これをクリアするには、もはやプラトンの要求した「哲人」どころではない、もっと高みに登らないといけない。これは、彼の理想とするところだ。

(続く)

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♦️292『自然と人間の歴史・世界篇』ヘーゲルとショーペンハウアー

2018-08-09 10:11:25 | Weblog

292『自然と人間の歴史・世界篇』ヘーゲルとショーペンハウアー

 ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770~1831)は、ドイツの哲学者だ。「精神現象学」(180)や「論理学」(1816)、それに「法の哲学」(1820)などをあらわす。その文章は、カントに劣らず難解にて、「根っからの学者」だといってよいだろう。
 これらのうち「精神現象学」と「論理学」では、まずは「定立」(テーゼ)で事象が提起される。次いで「反定立」(アンチテーゼ)でそれと対立のものが提起される。このままでは、話の展開は止まってしまう。そこで「止揚」(しよう、アウフヘーベン)という動詞が使われる。これの成果物は「統一」(ジンテーゼ)と呼ばれるもので、前の二つを包含しながらも、それらより高いレベルの認識となっているという。
 歴史とはなにか。ヘーゲルは、彼の時代にいたるまでの人間の歴史を大きく四つの段階に分けた。それは、幼年期としての東洋、青年期としてのギリシア、壮年期としてのローマ、それに老年期としてのゲルマンだ。これを自由の観点からいうと、東洋では専制君主のみが自由たりえた。ギリシアとローマでは、寡頭制もしくは貴族制、さらに王政の下で幾人かの者が自由である。そしてゲルマン世界においては万人が自由であると。
 加えるに、「法の哲学」では、こう意味づけをしている。
 「世界史はむしろ、もっぱら精神の自由の概念からする理性の諸契機の必然的発展、したがって精神の自己意識と精神の自由との必然的発展であり、普遍的精神の展開であり現実化である。」
 これにおいては、個人と社会、自由と必然との関係に、そのままでは新しい意味を与えるものとはなっていない。それゆえ、ヘーゲルの国家は、どの歴史の段階でも、現状追認の道具でしかなくなろう。その行き着くところは、例えば、こう評される。
 「歴史とは絶対精神の自己展開であるが、絶対精神とはヘーゲルにおいては、実は神にほかならなかった以上、世界史とは神の統治、神の計画の遂行にほかならない。歴史は、まさに神の業(わざ)であり、神の行為として隅から隅まで意味をもっている。理性とは、
神のこの業をまさに神の業として耳を傾け、それを理解することである。」(山崎正一・市川浩編「新・哲学入門」講談社現代新書、1968)
 このようにみてくると、ヘーゲルのいう自由というのは、平板に感じられる。本当の自由というのは、ただの必然性の認識ではなく、内部に必然性をになう、「自由の必然性」とでもいえるものとなってこそ、未来を切り拓く人間の行為たりえるのではないか。

(続く)

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♦️93『自然と人間の歴史・世界篇』ローマは帝政へ(初期の帝政まで)

2018-08-08 23:41:15 | Weblog

93『自然と人間の歴史・世界篇』ローマは帝政へ(初期の帝政まで)

 紀元前43年、カエサル派のオクタヴィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる二回目の三頭政治が成立する。アクティウムの海で、アントニウスとエジプト女王クレオパトラの連合軍とオクタヴィアヌスの率いるローマ軍との戦いがあり、オクタヴィアヌスが勝利する。いまや、彼は「プリンケプス」(市民の第一人者)にのし上がっていた。
 紀元前27年のオクタヴィアヌスは、元老院からは「アウグストゥス」(尊厳なる者)の称号を得、事実上の帝政が始まる。アウグストゥスがヤヌス神殿の扉を閉める。紀元前27年、ローマがヒスパニアを征服する。紀元前6年、ローマがスカンブリ族以外のゲルマニアの征服にこぎつける。
 紀元前の4年、ユダヤのヘロデ王が死ぬと、ユダヤ人の居留地で反戦が勃発した。当時のこの地域はすでにローマの支配下にあって、シリア総督のクィンクティリアス・ウァルスにより鎮圧される。
 紀元後に移っての6年、ローマはこのユダヤを直接統治下におく。66年にも、ユダヤで反乱が起こる。79年、ウェスウィウス火山が噴火し、ポンペイなどが炎上した。火山灰などに埋もれていたこの都市は、現代に至って発掘作業が行われ、当時のこの都市の全貌が明らかにされつつある。

(続く)

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