92『自然と人間の歴史・世界篇』ローマは帝政へ(カエサルの暗殺まで)
紀元前60年には、カエサル、ポンペイウス、クラッススによる第一回三頭政治が成立する。紀元前58年、カエサルがガリアに遠征し、紀元前50年にこの地をローマが征服する。紀元前53年には、三頭の一角であったクラッススがパルティアへの遠征で戦死を遂げる。
そして迎えた紀元前49年、カエサルは任地のガリアから反転してローマに向かう。元老院からは、カエサルの後任のガリア総督を任命し、コンスルに立候補したければローマに帰り届けるよう通告されるにいたる。ポンペイウスは、元老院側についていた。
この時、カエサルは大いなる決断を下す。「もはや賽は投げられた」と言って、ガリアとイタリアの境、ルビコン河を渡ってローマ市街に帰り、首都を手中に収め、マケドニアに走ったポンペイウスを追ってこの軍をファルサロスの戦いで下す。紀元前48年、ポンペイウスは、中央政界への捲土重来(けんどちょうらい)を期して自身の勢力圏と頼むエジプトに逃れた。しかし、そこでエジプト王プトレマイオス13世の側近に殺害されてしまう。
紀元前46年には、元老院により十年任期の独裁官に選出される。翌紀元前45年には、ローマの内戦が終結する。元老院の勢力図は、大きく変わっていたことであろう。紀元前44年になると、終身独裁官への任命があり、もはやカエサルに政治的に対抗できる者はいなくなりつつあった。そんなところへ、彼は独裁政治に反対する勢力により暗殺される。
当然のことながら、元老院への武器の持ち込みは厳禁であった。そのためか、カエサルは当日会場に行くすがらの道端で占い師に目を留め、「今日は(お前が凶事を予言した)イデュス・マルティアエ(3月15日)だな」と声をかけ、その占い師からは「イデュス・マルティアエはまだ終わっていない」との返事があったという。
なお、この日の元老院会議は、故グエナウス・ポンペイウスから共和国に寄付されたポンペイウス回廊にて執り行われることになっていた。議題としては、カエサルがパルティア(現在のイランあたりを支配していた王国)に遠征し、ローマを留守にする政治体制(執政官として誰を選任するか、など)について協議することになっていたという。
カエサルの殺された翌日の3月16日、カエサルの遺書が開封された。それには、主にこう記されていたという。
「1.オクタヴィアヌス(姪(めい)アティアの子)に4分の3、甥(おい)2名に各8分の1の割合で遺贈する。オクタヴィアヌスがこれを放棄した時は、同人に代えてデキウス・ブルータスに遺贈する。
2.アントニウス(同年のカエサルの同僚執政官)とデキウス・ブルータスを共同遺言
執行者とする。
3.オクタヴィアヌスを養子とし、彼はカエサルの名を継ぐこと。
4.オクタヴィアヌスは、首都ローマ在住のローマ市民に一人当たり300セステルティウスを贈与し、またテベレ川西岸のカエサル所有の庭園を市民に贈与すること。」
(続く)
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