♦️92『自然と人間の歴史・世界篇』ローマは帝政へ(カエサルの暗殺まで)

2018-08-08 23:39:24 | Weblog

92『自然と人間の歴史・世界篇』ローマは帝政へ(カエサルの暗殺まで)

 紀元前60年には、カエサル、ポンペイウス、クラッススによる第一回三頭政治が成立する。紀元前58年、カエサルがガリアに遠征し、紀元前50年にこの地をローマが征服する。紀元前53年には、三頭の一角であったクラッススがパルティアへの遠征で戦死を遂げる。
 そして迎えた紀元前49年、カエサルは任地のガリアから反転してローマに向かう。元老院からは、カエサルの後任のガリア総督を任命し、コンスルに立候補したければローマに帰り届けるよう通告されるにいたる。ポンペイウスは、元老院側についていた。
 この時、カエサルは大いなる決断を下す。「もはや賽は投げられた」と言って、ガリアとイタリアの境、ルビコン河を渡ってローマ市街に帰り、首都を手中に収め、マケドニアに走ったポンペイウスを追ってこの軍をファルサロスの戦いで下す。紀元前48年、ポンペイウスは、中央政界への捲土重来(けんどちょうらい)を期して自身の勢力圏と頼むエジプトに逃れた。しかし、そこでエジプト王プトレマイオス13世の側近に殺害されてしまう。
 紀元前46年には、元老院により十年任期の独裁官に選出される。翌紀元前45年には、ローマの内戦が終結する。元老院の勢力図は、大きく変わっていたことであろう。紀元前44年になると、終身独裁官への任命があり、もはやカエサルに政治的に対抗できる者はいなくなりつつあった。そんなところへ、彼は独裁政治に反対する勢力により暗殺される。
 当然のことながら、元老院への武器の持ち込みは厳禁であった。そのためか、カエサルは当日会場に行くすがらの道端で占い師に目を留め、「今日は(お前が凶事を予言した)イデュス・マルティアエ(3月15日)だな」と声をかけ、その占い師からは「イデュス・マルティアエはまだ終わっていない」との返事があったという。
 なお、この日の元老院会議は、故グエナウス・ポンペイウスから共和国に寄付されたポンペイウス回廊にて執り行われることになっていた。議題としては、カエサルがパルティア(現在のイランあたりを支配していた王国)に遠征し、ローマを留守にする政治体制(執政官として誰を選任するか、など)について協議することになっていたという。
 カエサルの殺された翌日の3月16日、カエサルの遺書が開封された。それには、主にこう記されていたという。
 「1.オクタヴィアヌス(姪(めい)アティアの子)に4分の3、甥(おい)2名に各8分の1の割合で遺贈する。オクタヴィアヌスがこれを放棄した時は、同人に代えてデキウス・ブルータスに遺贈する。
 2.アントニウス(同年のカエサルの同僚執政官)とデキウス・ブルータスを共同遺言
執行者とする。
3.オクタヴィアヌスを養子とし、彼はカエサルの名を継ぐこと。
4.オクタヴィアヌスは、首都ローマ在住のローマ市民に一人当たり300セステルティウスを贈与し、またテベレ川西岸のカエサル所有の庭園を市民に贈与すること。」

(続く)

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♦️153『自然と人間の歴史・世界篇』イタリア都市の自治(ヴェネツィアとジェノバの場合)

2018-08-08 09:39:14 | Weblog

153『自然と人間の歴史・世界篇』イタリア都市の自治(ヴェネツィアとジェノバの場合)

 現在のヴェネツィア(ベネツィア)は、イタリアの北部ヴェネト(ベネト)州の州都だ。アドリア海のラグーン(ラグーナ)と呼ばれる干潟(ひがた)に浮かぶ118もの島々からなるという。
 その名の由来は、「ウェネティ人の土地」というラテン語だという。もう一つ、「水の都」の通称を持っているのは、この街に属する島々が数多くの橋でつながっていることからくるのだろうか。5世紀(452年)には、このあたりの人びとに自治が築かれる。小さいながらも、共和国となった(のち1797年まで続く)。東ローマ帝国の支配下にあったのだが、それは緩いものであって、多民族の侵入に晒されていたことも、人びとを結束させるに力があったという。10世紀にもなると、海運共和国として貿易で栄えるようになる。
 このヴェネツィアだが、信教の自由と法の支配が有名であって、これなくしては「千年の都」は実現しなかったであろう。ここでは、その最盛期、次いで16世紀、17世紀のそれぞれにつき、簡単に振り返っておこう。(中略)
 その16世紀の対外的な有様については、こういわれる。
 「しかし、レパントの海戦の勝利にもかかわらず、その後のスペインとの不和のためトルコの前に孤立し、1573年にはキプロス島をトルコに譲って、その意を迎えることによって東方貿易の維持をはかるほかなかった。西欧諸国の東方貿易への進出がヴェネーツィアの海上商業をときとともに守勢に立たせてもいた。また、スペインとオーストリアの両ハプスブルク勢力のあいだに挟まれたヴェネーツィアの立場は、イタリアの内部にあっても、フランスやサヴォーイァ公国などと結んで、わずかに現状維持を策する以上には出なかった。」(森田鉄郎編「イタリア史」山川出版社、1976)
 こうした閉塞的な外部環境は、17世紀に入っても続いた。
 「しかもヴェネーツィアは、17世紀前半において、いくつかの国際的紛争をある程度成功裡に収拾するだけの力を残していた。ことに反宗教改革の波がイタリアを風靡(ふうび)するなかで、国内の教会のことに関して教皇の干渉を許さない独自の立場を保持していた。17世紀初頭にヴェネーツィア政府が宗教機関の不動産取得を制限し、また、二人の聖職者を処罰したことに発して、かねてからヴェネーツィアに教権の確立をねらう教皇庁とのあいだに紛争がおこったとき、スペインの支持を得た教皇パウルス五世は、1606年ヴェネーツィアを破門したが、これに対しヴェネーツィア政府は、改革派の聖職者サルビの指導下に完全と対抗し続けた。」(同)

(続く)

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♦️211『自然と人間の歴史・世界篇』カント

2018-08-07 21:31:29 | Weblog

211『自然と人間の歴史・世界篇』カント

 イマヌエル・カント(1724~1804)は、ドイツのプロイセン王国時代の哲学者にして政治学者である。ケーニヒスベルク大学の哲学教授を務めた。物腰は静かで実直な性格で知られる。しかも、気さくに話をする人柄であったとか。学者ならではの、気難しい性格ではなかったようなのだ。彼は、地元の人びととの親しげなエピソードが幾つも伝わる。夕方の散歩を日課とするなど、「カント先生」と村人から呼ばれていたらしい。散歩している時にも考え事をしていたのか、それとも頭休めをしていたのであろうか。
 哲学者としては、「純粋理性批判」(1881)とか「実践理性批判」(1883)、さらに「判断力批判」(1888)といった難解そうな書物をものにしている。これらでは、かの理性の崇拝者ルネ・デカルトとも似て、理性による判断に絶対的な信頼を寄せる。
 彼によると、学問的な認識の範囲(特に哲学)というのは、経験の世界に限定しなければならない。だから、私たちの経験の世界以外の超経験的なものは、例えば「神」として信仰の対象とはなっても、学問的に論じ得るものではない。この「神」についてもう少しいうと、カントはその存在を否定しないまでも、私たちとしては、それが存在しているかどうを確かめるすべはない、そのことをわきまえるべきだといっている。ただし、彼は人びとが「神」を必要とするに至る、つまり要請してやまない事情は理解しているようであって、完全な無神論を主張している訳ではあるまい。
 それでは、好き嫌いなどに端を発する喜怒哀楽や「快・不快」といった情動は、かかる理性に対して全く異質であり、圧倒的に劣るものだろうか。
 必ずしも、そういうはっきりした区別なり障壁が設けられていることではあるまい。およそ生物というものは、その長い進化の過程で、様々な情動を覚えつつ、そこでの判断を頼りに生き延びてきた。たとえ、それらの判断がその時々の「刹那」の積み重ねであっても、当該生物にとって何かしらの生きる力、彼らの生きる糧(かて)となったのは否めないのではないか。
 およそ判断の際人びとの頭の間近にあるのは、「理性」ばかりとは限るまい。それに、この種の議論はとくに集団に対する憎悪、怒りなどの社会的に醸成される情動を軽視することにもつながる。そもそも、理性と情動をそんな風に峻別できるようにはなっていないのが、生物というものなのだと思う。これに加えて、現代の認知科学は「人間の思考のほとんどは無意識と関わることで行う」ことを見出しつつある。
 そんなカントの政治思想は、「永久平和のために」で覗うことが出来よう。話の前提としては、人間の本性はどちらかというと邪悪の方に傾くものだというのが、カントの人間観の根幹のようなのだ。

(続く)

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□87『岡山の今昔』津山市街中心部

2018-08-05 09:32:01 | Weblog

87『岡山(美作・備前・備中)の今昔』津山市街中心部

 なお、こうして町人町の北側や、掘の北側は、西から東又は南東方向へ、内山下(山下)、田町、椿高下、城代町、御北(北町)と続いていた。ありていにいうと、武家屋敷が蝟集していたのである。これらのうち田町では、森氏除封後の8か月に渡り、幕府代官が駐在して民政に当たったことがある。椿高下については、十六夜山(いざよいやま、現在の津山高校の敷地)があり、小規模ながら古墳のあった場所である。そして城代町、ここは椿高下の西、藺田川に平行して南北に広がっていた。御北、ここも江戸期を通じて侍屋敷があって、1871年(明治3年)になって北町と改称になる。
 おりしも20世紀の終わりの年、1999年(平成11年)に、出雲街道を「飛脚便」で走破する企画があった。それは、「沿線市町村のメッセージを飛脚便で岡山県津山市まで届けようと十日朝、飛脚に扮した「津山走ろう会」」のメンバーらが島根県大社町をスタートした」(山陰中央新報1999年11月11日付け)という。その紙面には、「一行は島根ー鳥取ー岡山県内の街灯沿線二十市町村の首長からのメツセージを受け取りながら十三時間がかりで走破し、十一日朝には津山市に到着する」とある。
 これを企画したのは、津山市城東地区の町内会で組織する「津山城東むかし町実行委員会」(岡本一男委員長)であった。11、12の両日、「出雲街道Now,in 津山」(城東編)を興し、飛脚便はこのイベントの一つとして行われた。添えられている写真によると、当日は絶好の日和であったようで、スタート場面はこう結ばれている。
 「スタートになる大社町役場前で行われた出発式には、津山市のメンバーと大社町関係者約三十人が出席。古川百三郎町長が「出雲阿国誕生の地・大社と、愛人の名護屋山三が亡くなった津山とは、歌舞伎を通して特に深い関係があり、今後、互いの交流一層深めたい」という岡本実行委員長あてのメツセージなどを津山走ろう会の福田史郎会長に託した。
 飛脚は、途中でメッセージを受け取りながら五~十キロずつ交替で松江、米子、美甘町(岡山県)などを走り、十一日午前十時十五分、津山市で開かれているイベント会場に到着する。」
 幸いにし天高く、参加者達は、往年の夢をつかみとれるかは自分次第の心境になれたのではないだろうか。

(続く)

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□86『岡山の今昔』津山市街中心部へ

2018-08-05 09:30:41 | Weblog

86『岡山(美作・備前・備中)の今昔』津山市街中心部へ

 その翁橋を渡って宮脇町に入ると、もう右手には徳守神社が間近に迫っている。このあたりを「城西(じょうさい)地区」と呼ぶ。東の「城東地区」とともに、津山城下町の観光名所に他ならない。わけても、寺社の建物は堅固な造りとなっているのではないか。それに、境内があり、いざとにれば藩兵が駐留することができよう。これらの多くは森藩の津山築城から営営と整備されていった。そうした中でも、森家2代目の藩主森長継が荒れ果てていた社殿を再建整備したという。これらの寺院や神社は、城下の西の軍事的な備えとしての役割をも担っていた、そのことは地勢という点で、疑う余地がない。それだからか、このあたりの寺の庭は門や塀はいうに及ばず、なかなかの頑丈な造りにして、敷地内もやや手広く感じられる。
 もっとも、出雲往来は、他藩に対しては津山の城下町を通さず、かつて隠岐島に遠流の後醍醐天皇が通ったとされる「久米のさら山越え」の道程をとってもらっていたようであるから、それが史実の通りなら、往来の景色はまた違って見えたことだろう。
 ここに徳守神社は、733年(天平5年)の聖武天皇の在位時に創立されたとも伝えられるが、その根拠は示されていない。その時の社地は現在の津山市小田中の地にあったいう。1539年(年)で社殿などを焼失した。森忠政の美作入封の翌年、藩命により1604年(慶長9年)に現在地に移って、津山城下の総鎮守とした。祀っているのは、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)らの5人で、いずれも神話の世界の人物なのではないか。 この徳守神社の年に一度の例祭が、秋祭りとして催されてきた。この祭りは、美作津山藩初代藩主森忠政が1604年(慶長9年)に同宮を再建して間もなく、その肝煎りで始まったらしい。1697年(元禄10年)にはもうかなり大がかりな装いの下、総延長数百メートルにも達する程の大行列を敢行していたのだと伝えられる。
 これに参加する御輿とだんじりは、祭りの前日の宵宮にて、各町内のだんじりが夕方から市内に繰り出す。この慣例から推し量ると、「さあ今年もやりますよ」と関係する町内に触れて回ることになるのではないか。明けての本祭りには、徳守神社での神事の後、だんじりと神輿が大勢の人を乗せたり従えて市内に繰り出し、町内を練り歩くのである。
 その徳守神社の宵宮について、赤穂浪士四十七士の一人である神崎与五郎則休が、1702年(元禄15年)秋の宵に江戸から数日後に行われるであろう、生まれ故郷の祭りを懐かしんで詠(よ)んだ歌が、「海山は中にありとも神垣のへたてぬ影や秋の夜の月」として伝わる。彼は1666年(寛文6年)、森家家臣の神崎又市光則の長男として津山に生まれ、少青年期を過ごしたのち、赤穂の浅野家に仕官したのであったが。
 1702年(元禄15年)が押し詰まってからの吉良家討ち入りでは江戸で、扇子売りの商人「美作屋善兵衛」を名乗り討ち入りの機をうかがっていた、とのことである。第二次大戦後にもなると、この祭りは例年、10月第3週の土日と第4週の土日に大隅神社と連れだって行われる決まりになっていたのが、近年高野神社が加わる。これに伴い、名称も「津山祭り」として、東の大隅神社、総鎮守の徳守神社、西の高野神社の秋祭りの総称されるに至っている。
 西今町の南には、鉄砲町の町並みが広がる。藺田川(いだがわ)を渡ってからの東隣には、南新座の広い町並みが続く。そこから北にある本道に戻っていく。道の右側には宮脇町、続いて坪井町、福渡町とある。
 坪井町というのは、町づくりの初め久米北條郡坪井村付近の人々が移り住んだことから、この名がついた。また福渡町とは、はじめ久米南条郡福渡村(現在の岡山市建部)からの入居者が中心となって出来た町人町である。さらに本道の左側には、上紺屋町、細工町とある。なお、この町の城下町になる前の郷村名としては、田中郷の小田中村であり、町名の由来は徳守神社の宮脇の意であるとのことである。
 そこから少し東に進んで、右手に3丁目と戸川町、左手には鍛冶町と下紺屋町、さらに進んで右側には二丁目、戸川町、新職人町、桶屋町、新魚町、吹屋町とある。それからまた進んで、城の堀の南側を通る街道の右側に木知原町(のちの境町(堺町))、小姓町、船頭町、左側に元魚町、二階町とある。そのまま街道を進んで、京町、河原町と行く。それからさらに東進して片原町(伏見町)、南馬場前、そして材木町とあって、宮川に出る道筋となっていた。

(続く)

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□85『岡山の今昔』津山市街西部(翁橋界隈まで)

2018-08-05 09:25:38 | Weblog

85『岡山(美作・備前・備中)の今昔』津山市街西部(翁橋界隈まで)

 さて、森氏の入封により津山城下町に組み入れられたのは、33町と言われる。こういう街並みが現代に通じているからこそ、津山は城下町であったのだともいえようか。やがて津山の街に入ると、美作国府(津山市総社)、美作国分寺(津山市国分寺)を通ってゆく。出雲街道(旧道、以下同じ)の本道を境に左手に向う。すると、新屋敷に取り付く。西の構えの部分ということだ。

 この道の右手には、安岡町、ついで茅町とある。本道に戻ろう。そのまま進んでいくと、左手の寺社の北隣には西新座がある。本道の右側には西寺町、それから西今町とやって来る。西新座(西、東)は、1688(元禄初年)には戸数30戸くらいで、侍が住んでいた。それが、松平氏になってからの享保年間、農地に戻されたとのこと。                               、
 西寺町西から西今町にかけてはどうだろうか。このあたりの出雲街道の道筋には、寺社が多い。左に佇むのが染寺(西寺町)、本源寺(寺町)など、右には妙法寺(西寺町)、泰安寺(西寺町)などと多く並んでいて、「さすが寺町」といわれるだけのことはある。
 その中から、愛染寺の鐘楼門は通りに面して建つ。一階に仁王像がいて、その二階には黒塗りの鐘楼が載る。堂々ながらも、静かに感じられる。なお、明治に入ってこの寺が群衆で沸き立つことがあった。というのは、1874年(明治9年)「美作血税一揆」で、僧侶の研修施設の教学院(学寮)が北条県当局の建物と勘違いされたという。ここに押し寄せた民衆による打ちこわしの対象となってしまった。
 さらに本道から一筋南に少し下ってゆく。その途中の左右には本行寺、妙勝寺、長安禅寺、福泉寺などが並ぶ。この通りをそのまま下っていく。すると、視界が開いて、吉井川に出る。このあたりの寺は、別の任務を帯びていた。すなわち、境橋(さかいばし)を津山城下に入ろうとする敵を監視していた。

 いったい、武家社会というものは、町の区割りにも体制維持の工夫が読み取れる。社会への窓としては、妙勝寺の第31世、瀬川學進上人の事績が伝わる。彼が、生活に困った人のための一時保護預かりの施設を寺内に「報恩無料宿泊所」として開設したことになっている。
 それからまた左に向かい始める。本道からやや下ったところを平行(西から東へ)に走る通りに出る。西寺町東通りの左手といったあたりか。このあたりには、光厳寺(こうごんじ)、泰安寺(たいあんじ)などが建つ。中でも、真言宗の光厳寺は商家との関わりが伝わる。この寺だが、1614年(慶長19年)、院庄にいた蔵合山口氏(屋号は蔵合家)からの願いで、この地に院庄の清眼寺の住秀照より建てられたという。蔵合家とは、かの井原西鶴の『日本永代蔵』に出てくる。その中に、「蔵合家といえる家は蔵の数九つ持ちて富貴なれば、これまた国のかざりぞかし」といわれた。後には、二階町に移り繁盛をほしいままにした豪商のことである。
 このあたりには、仏教の宗派に限っても、天台から真言密教はいうに及ばず、日蓮、禅の系統、さらに浄土系に至るまで実に多彩である。これらが全体として城下の西の景観をつくっていた。さらにその道の右手には新茅町、鉄砲町と続く。本道に戻って、西今町をさらに東に行く。すると、右手に作州民芸館があり、その先は藺田川(いだがわ)があり、そこには城下町の西の関門、翁橋(おきなばし)が架かっている。

(続く)

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○○519の3『自然と人間の歴史・日本篇』東日本大震災とエネルギー源(化石燃料か原子力か)

2018-08-02 22:13:32 | Weblog

519の3『自然と人間の歴史・日本篇』東日本大震災とエネルギー源(化石燃料か原子力か)

 2011年の東日本大震災に、時を同じくして起こったのが福島の原子力発電所の事故であって、それまでは比較的希薄であったエネルギー供給源を何におくかの議論が沸騰中である。かくも長きに渡って議論に決着がつかないのには、長らく専門家任せであったこの種の議論に国民の多くが参加してきたことがあろう。
 ありていにいうと、専門家の中でも、原子力発電の安全性、有効性につき大きな意見の対立が見られるようになっている。例えば、アメリカの文化人類学者のジャレド・ダイヤモンド氏は、朝日新聞のインタビューで、原子力発電所の事故に関連して、次のような回答をしている。
・・・福島の原発事故について
 「けっして福島の悲劇を軽んじるつもりはありませんが、原発事故も『リスクが過大評価されがちな事故』の典型です。私たち米国人もスリーマイル島原発の事故の後、1人の死者も出なかったのに、新しい原発の建設をやめてしまいました。それはあやまちだったと思います。原子力のかかえる問題は、石油や石炭を使い続けることで起きる諸々の問題に比べれば、小さい、と考えるからです。」(朝日新聞、2012年1月3日付け)
・・・放射能で環境が汚染されるリスクがあっても、原発を使い続けた方がよいと、ということですか。
 「たとえ原子力の利用をやめたとしても、しばらくは化石燃料にたよらざるをえません。過去70年間、放射能で健康を損ねた人よりもはるかに多くの人が、化石燃料を燃やすことによる大気汚染の被害に苦しんできました。」
・・・放射能は人間の遺伝子を傷つけ、子どもへの影響が心配です。放射能廃棄物は10万年以上もの間、危険な放射線を出し続けます。
 「確かにその通りですが、放射能の危険性と同時に、化石燃料の危険性も考えるべきです。二酸化炭素による地球温暖化はすでに、大きな被害をもたらすサイクロンなどの熱帯低気圧を増やしています。放射性廃棄物は地下深くに封じ込められますが、放出された二酸化炭素は200年間は大気中にとどまるのです。」
 「いま一度、『現実的になろう』と言わせてください。原発事故や地震で、文明が続く可能性がそこなわれることはありませんが、二酸化炭素は現代文明の行く末を左右しかねない問題なのです。」
 こんなふうに回答をしてくれているジャレド・ダイヤモンド氏の論調としては、やみくもに「福島以後も」エネルギー供給も原子力発電に頼りづけようというものではあるまい。そうではなくて、化石燃料と原子力とを天秤にかけて、前者の方が相変わらず安全性や効率性などにすぐれているのではないか、というのだ。

(続く)

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○○172『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山文化(絵画)

2018-08-02 19:49:41 | Weblog

172『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山文化(絵画)   

 長谷川等伯(はせがわとうはく、1539年(天文8年)~1610年(慶長15年))といえば、狩野永徳(かのうえいとく、1543年~1590年)と並んで安土桃山時代を風靡した画家にほかならない。両者はまた、画壇の覇を求めて互いに競い合ったことでも知られる。永徳の画風は、屏風図の中にこそあるという。
 その一つ、「檜図屏風」(ひのきずびょうぶ)には、檜なのに根元から太い幹が激しくのたうち回っているように曲がり、枝もぐにゃぐにゃと尋常でない複雑さを見せている。8枚折りの屏風に仕立てられているこの絵は、パトロンの豊臣秀吉が八条宮智仁(としひと)親王のために建てた、御殿の襖(ふすま)を飾っていたとの伝承がある。
 二つ目の「花鳥図」(かちょうず)は京都大徳寺(臨済宗大徳寺派の総本山)聚光院の襖絵であって、座敷の三方を囲んで向かって右から左へと、水の流れに従って春、秋、冬の季節を巡る。夏が描かれていないのは、不思議だ。目にのたうつように写る松は若々しい、花と木の下には清流が流れる。水面にいるおしどりは、心もちか気分が楽しげに写る。ところで、この絵は、襖のある部屋から外側にい出て臨む庭と対をなしている。
 茶道に関わって、永徳と作品のコラボレーションをしたのは千利休であって、その彼が作庭(設計)したのだと伝わる。後年の二人は、豊臣秀吉にかわいがられた長谷川東伯との対抗関係が浮上するに及んで、不仲になってしまった。その意味においても、「花鳥図」は若き日の永徳の真骨頂が窺える作品だといえよう。
 働き過ぎが元で死んだとされる永徳亡き後に、等伯の時代が来るかに見えた。だが、父をも凌ぐ画才とも言われた長男の久蔵が早死してしまう。それからは、画風がからりと変わる。探幽に負けず劣らずの大胆な金碧障壁画から、水墨画を主体とすことへの変化があった。生活もまた、画家集団の長でもあったとはいえ、精神面では孤独に浸るような生活を送ったらしい。
 画風も、独創的であった。そんな等伯の代表作とされるのは、『楓図』(かえでず)、『松林図屏風』(しょうりんずびょうぶ)、そして『竹鶴図屏風(左隻)』の三つである。後の二つは水墨画であって、『松林図屏風』の方は、松がもやっとしたたたずまいをみせて立ち尽くしているといったところか。とにかく寒々、寂しい雰囲気をかもし出している。また『竹鶴図屏風(左隻)』の方は、雨上がりの霧の立ちこめる中、竹があるかなしかに背景としてあるすがら、ちょうどさしかかっているかに見える。淡い墨でつくられた奥行き感があることから彼の作であるのがわかるのだと言われる。
 これらのうち国宝の『松林図屏風』については、2000年であったか、上野の国宝展で観賞したことがある。その時は、ほとんどの客はこの大きな屏風絵の前に立ち留まることなく、早めの観賞で通り過ぎていた。うら寂しいような心地のする空間に立つ松の姿からは、寂寥感が漂っているように感じられた。
 その等伯が72歳の時、徳川家康から江戸に呼ばれる。後の長谷川派の命運をかけての旅路であったことだろう。途中で病に冒され、江戸到着後2日目に亡くなってしまう。長男の亡き後、等伯の後継者となるはずの二男・宗宅も等伯に同行していたのだと、その彼も等伯が没した翌年に亡くなった。

(続く)

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○○173『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山文化(茶陶)

2018-08-02 19:48:01 | Weblog

173『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山文化(茶陶)   

 千利休(せんのりきゅう)にしろ、古田織部(ふるたおりべ)にしろ、日本の茶の湯の道を切り開いた人物で知られる。二人とも、政治との関わりがあって、しかも彼らは最高権力者との抜き差しならぬ緊張した状況の中で死んだ。
 彼らの没後、茶の湯は特に利休の血脈において太く受け継がれ、現在に至っている。それは、心ある個人によって受け継がれていったというよりも、宗家(そうけ)と呼ばれる家によって代々受け継がれてきた。つまり茶の湯という一筋の道は、ヒエラルティッシュ(ピラミッド構造)な権威に守られつつ、ひたすら血統を維持していこうとする姿勢によって生きながらえてきたのではないか。このようなことは、元々、創始者たちが望んだものではないとも考えられるのだが、本当のところは果たしてどうなのだろうか。
 安土桃山時代においては、陶芸文化が幾重、幾層にも華開いた。この時代の茶陶といえば、ざっと、萩焼、有田焼、信楽焼(しがらきやき、現在の滋賀県甲賀市信楽が本拠)、備前焼、志野焼、織部焼(おりべやき)、唐津焼(からつやき)、伊賀焼といったところだろうか。それらは、多様な器形からいっても、大胆もしくは華麗な意匠(いしょう)からいっても、日本を代表する陶磁器文化を成していく。
 例えば、桃山時代に渡来した焼き物(陶磁器)に、萩焼と有田焼がある。この二つの系統の焼き物については、朝鮮から渡来してきた陶工ないし工人たちがその発展に尽くした話が伝わっており、それらを発掘し、顕彰することは後代の責務といって然るべきであろう。
 萩焼とは、「土の性質から堅く焼き閉められていないため、使うほどに貫入(かんにゅう)といって、釉薬(ゆうやく)の表面にある細かなひび割れ)に染みが入る」のが特徴的だ。色は柿が熟した時に似ているし、艶がある。これは、「萩の七化け」と呼ばれている。有田焼きの真骨頂は白磁(はくじ)にあるとされる。
 それから、朝鮮からやって来て(もしくは連れて来られて)諸国の焼物地を回り歩いていた中に、李参平という陶工がいた。彼を日本に連れて来たのは、佐賀の鍋島氏とも言われる。李参平は17世紀の初め、日本で初めて白磁(はくじ)を焼いたことで知られる。その決めてとなったのは、有田の泉山で磁器の原料となる陶石を見つけたことがある。
 さらに紹介すると、平安時代に始まった備前焼は、桃山時代に入って黄金期を迎える。こちらの特徴は釉薬を用いない。多くは大小の器であるが、茶の湯で使われる水差(みずさし、水指)や花入(はないれ)その代わりということにならないのだろうか、燃料の薪や稲藁(いなわら)が燃焼の際熔(と)けて器に付着する。その時にできる模様を、「胡麻」(ごま)や「緋襷」(ひだすき)などと呼び分けて珍重した。
 織部焼というのは、焼き物で群を抜いた面白さの典型であった。思うに、縄文の土器が非対称の妙味を出せたのは、当時の社会が後代に比べまだ秩序立っていないために本能の赴くこしらえためとすることもできるのではないか。これに対して織部焼のあのぐにゃっとした形と艶やかさは、やはり何らかの造形美を追求する心があって、それによって曲げられたり、緑色の釉薬をぶつかけられたりしているように感じられる。

(続く)

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